第14回黙示録連続セミナー H23.1.22 午後
<終末に関しての基本>
1. 主の初降臨の時は再臨の日の型であり、イエス
の時代に起きたことは、終末の日に再現する。
”マタイの福音書24:1イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。
2そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」
3イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。”
主はここで、終末の日、世の終わりの日について語っているが、それは、近未来の日、
初降臨の時の裁きの日、エルサレムのローマによる陥落の日、エルサレムの神殿破壊の
日とシンクロナイズされ、語られている。
すなわち、初降臨の時の裁きの日は、再臨の時の裁きの型なのである。
2. 終末の日は多くの神の民が道を曲げている時代
である。
「ヨハネの福音書1:11この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」
キリストは自分の国に来たのに、その民は彼を受け入れなかった。その理由は民が道を曲げており、正しい方、キリストとあまりに距離があり、隔たりがあり、かけ離れており、遠かったからである。
彼らは真理から遠い世界を歩いていた。それゆえ、真理であり、まっすぐな方、キリストを
見ることも理解することもできなかったのである。
「ヨハネの黙示録19:11また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、
「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。
12その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。
13その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。
14天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。
15この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。」
終末の日の神の民も、真理からかけ離れ、それゆえ、裁きにあうことが、この箇所から、
理解できる。
ここに書かれているのは、真理であり、正しい神のことばである、キリスト、そして、
そのことばに従わないため、逆らうため、災いに会う諸国の民、キリスト教各派のことが
描かれている。彼らは裁かれる。
終末の神の民は道を曲げており、それゆえ、バプテスマのヨハネ、エリヤの働きが起き
る
”ルカの福音書3:3そこでヨハネは、ヨルダン川のほとりのすべての地方に行って、罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた。
4そのことは預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『 主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。
5すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。
6こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。』」”
ここでヨハネは、「主の通られる道をまっすぐに」する奉仕をした。しかし、何故ヨハネは、道をまっすぐにしなければならなかったのか?それは、その当時の道が曲がっており、教えも曲がっており、結果誰も正しく主のもとへ行けなかったからである。また、何故彼は、「すべての谷をうずめ、すべての山と丘とを低くし、曲がった所はまっすぐにし、でこぼこ道は平らにする」必要があったのか?
それは、その当時、主の初降臨の時の、神の民の歩みが曲がっており、
谷があり、山、丘があり、曲がっており、でこぼこ道であり、結果誰も、正しく神の聖書も教理も理解できなかったからである。
事実、この当時の教理は曲がっており、結果、多くの人は真理の方、イエスを受け入れられなかった。
さて、このバプテスマのヨハネは来るべきエリヤであった。そして、来るべきエリヤが
登場する真の時、本番は終末の時である。以下の通り書かれている。
”マラキ書4:5見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
6彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」”
すなわち、バプテスマのヨハネ、エリヤが行う、曲がった道をまっすぐにする回復の働きがもっとも必要とされるのは、本番である終末の時なのである。
裏返すと、教会、教理のあらゆる部分で、道を曲げており、混乱、変質している、時代とは、
他でもない終末の時代である現代なのである。
3. 終末の神の民は、終末預言を正しく理解でき
ず、正しく主の再臨に対応できない。
キリストの初降臨の時、メシヤ来臨の預言は正しく、解釈されず、結果、多くの神の民は
メシヤをそれと悟れず、逆に捕らえ、迫害、殺害し、その罪のゆえ、裁かれ、永遠の命を失ってしまった。
”
ヨハネの福音書7:47 すると、パリサイ人が答えた。「おまえたちも惑わされているのか。
48議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか。”
終末の日にも同じくその背教のゆえ、正しくみことばを理解できない、結果、再臨の主に
正しくまみえることができない可能性がある。
”ヨハネの黙示録3:3 だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。”
終末の日のサルデスの教会は主の再臨の時が「決してわからない」ことが、書かれている。
かつての主の初降臨の時、メシヤ来臨を決して悟れず、裁きにあった神の民のように、
終末の日にも、主の再臨が決して悟れない神の民がいることが理解できる。
4.終末預言が封印されているのには、理由があり、それは、偽善者、正し
く歩まない者を除外し、滅びに至らせるためである。
神は愛であることは、事実であるが、しかし、終末預言が封印されていることの、意味合い、目的は正しく知らなければならない。
”ダニエル書 12:9 彼は言った。「ダニエルよ。行け。このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ。
10多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。悪者どもは悪を行ない、ひとりも悟る者がいない。しかし、思慮深い人々は悟る。”
ここに書かれているように、預言が封印されているその理由は、悪者と、正しく思慮深いものとの区別を行うためである。家のドアは施錠されており、誰でも入れるわけではない。
鍵を持っている、家族は入れ、持たない他人は入れない。
同じように封印された預言は人々に区分をもたらす。
神は悪者を終末の日に裁き、罰しようと定めており、その手段が、終末預言の封印なのである。
その封印を前にして、思慮深い者は悟り、悪者は誰も悟らない、という区分を行おうと神は定めておられる。
この区分は主の初降臨の時、行われ、みかけは白く塗られた墓のようにきれいでも、その心の中は悪人である律法学者、パリサイ人はみごとにこの封印された預言により、区分されてしまった。
彼らの誰一人として、封印を開く者はなく、目の前にいる、メシヤ、イエスを悟る者はいなかったのである。しかし、正しく思慮深い、弟子達はこの方こそ、生ける神の子、キリストであることを悟った。
5.終末の日は、神の怒りの時であり、その怒りは背
教の神の民、背教の教会へ向けられるものである
黙示録の時代は、以下のごとく、神の怒りの時である。それを理解しないなら、この書を理解したことにならない。
”ヨハネの黙示録14:10そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。
ヨハネの黙示録14:19そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。
ヨハネの黙示録15:1 また私は、天にもう一つの巨大な驚くべきしるしを見た。七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。神の激しい怒りはここに窮まるのである。
ヨハネの黙示録16:1 また、私は、大きな声が聖所から出て、七人の御使いに言うのを聞いた。「行って、神の激しい怒りの七つの鉢を、地に向けてぶちまけよ。」
ハネの黙示録16:19また、あの大きな都は三つに裂かれ、諸国の民の町々は倒れた。そして、大バビロンは、神の前に覚えられて、神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられた。
ヨハネの黙示録19:15この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。
”
主の初降臨の時は、旧約時代の最後の時であり、旧約の神の民の背教が極度に達した日である。それゆえ、その時代の神の民は裁かれた。
以下のことばのとおりである。
”ルカの福音書19:41エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、
42言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。
43やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、
44そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」
”
神の民の都エルサレムはその背教のゆえに、破壊され、その子供達は、地に叩きつけられ、殺された。
同じく終末の日にも新約の神の民の背教のゆえに、教会に神の怒りが臨むのである。
”
ルカの福音書 21:23 その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒りが臨むからです。”
終末の日に神の怒りの対象になるのが、この民、神の民すなわち、
クリスチャンであり、クリスチャンに対して、神の怒りが臨むことが明言されている。
6.終末の日は、希代の人殺しの天才、サタンが大活躍する日であり、多くの偽善クリスチャンは、サタンの惑わしの中で、自ら滅びを選び取るようになる
”マタイの福音書27:20しかし、祭司長、長老たちは、バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑にするよう、群衆を説きつけた。
21しかし、総督は彼らに答えて言った。「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」
22ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」
23だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ。」と叫び続けた。”
主の初降臨の日、神の民とその指導者である祭司長、長老たちは、唯一の救い主イエスを殺すことを求め、その代わりに強盗バラバを釈放するよう求めた。
全くの本末転倒である。
同じような本末転倒は、終末にも行われ、民はイエスを追い出し、反キリストは受け入れるようになる。
”
ヨハネの黙示録3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。”
7つ目の教会、終末のラオデキヤ教会では、主は戸
の外に追い出されている。
”
ヨハネの黙示録13:12この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。”
終末の神の民はその背教のゆえに、獣を拝むようにされる。
”
テサロニケ人への手紙第二2:9不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、
10また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。
11それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。
12それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。”
終末の日にサタンが大活躍し、多くのクリスチャンを惑わし、滅びに至らせることが書いてある。
黙示録の特徴は以下のように、たびたび、サタン、御使いが出現する。
それは、この時代が今迄の教会時代と異なる特殊な時代であり、
御使いや、サタンの働きが大々的に許される日であることを語る。
今迄の教会時代と全く異なる、人知を超えた惑わしが許される時代に入るのである。
”ヨハネの黙示録7:1 この後、私は見た。四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押え、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしていた。
ヨハネの黙示録7:2 また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上って来た。彼は、地をも海をもそこなう権威を与えられた四人の御使いたちに、大声で叫んで言った。
ヨハネの黙示録8:2 それから私は、神の御前に立つ七人の御使いを見た。彼らに七つのラッパが与えられた。
ヨハネの黙示録8:3 また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。
ヨハネの黙示録8:4 香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。
ヨハネの黙示録8:5 それから、御使いは、その香炉を取り、祭壇の火でそれを満たしてから、地に投げつけた。すると、雷鳴と声といなずまと地震が起こった。
ヨハネの黙示録8:6 すると、七つのラッパを持っていた七人の御使いはラッパを吹く用意をした。
ヨハネの黙示録8:7 第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、血の混じった雹と火とが現われ、地上に投げられた。そして地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草が全部焼けてしまった。
ヨハネの黙示録8:8 第二の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして海の三分の一が血となった。
ヨハネの黙示録8:10 第三の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が天から落ちて来て、川々の三分の一とその水源に落ちた。
ヨハネの黙示録8:12 第四の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれたので、三分の一は暗くなり、昼の三分の一は光を失い、また夜も同様であった。
ヨハネの黙示録8:13 また私は見た。一羽のわしが中天を飛びながら、大声で言うのを聞いた。「わざわいが来る。わざわいが、わざわいが来る。地に住む人々に。あと三人の御使いがラッパを吹き鳴らそうとしている。」
ヨハネの黙示録9:1 第五の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、私は一つの星が天から地上に落ちるのを見た。その星には底知れぬ穴を開くかぎが与えられた。
ヨハネの黙示録9:11 彼らは、底知れぬ所の御使いを王にいただいている。彼の名はヘブル語でアバドンといい、ギリシヤ語でアポリュオンという。
ヨハネの黙示録9:14 その声がラッパを持っている第六の御使いに言った。「大川ユーフラテスのほとりにつながれている四人の御使いを解き放せ。」
ヨハネの黙示録9:15 すると、定められた時、日、月、年のために用意されていた四人の御使いが、人類の三分の一を殺すために解き放された。”
7.現代の教会に広がっている終末教理が的外れであり、ピント外れなものであることは、下記テサロニケ書の成就であり、神から送られた惑わす力によって、教会は惑わされている。
”
テサロニケ人への手紙第二2:9不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、
10また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。
11それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。
12それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。”
ハルリンゼイ、レフトビハインド、高木慶太などの艱難前携挙説を始めとするインチキ教理は、これらの惑わす力の現れであり、聖書を捨て、これらのインチキ教理を受け入れ、その気になって信じる人は、神の真理よりも偽りを愛する人々である。彼らの上には、「真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」とのことばが成就する。
8. 終末の黙示録に獣ということばが多用されの
は、神がその背教の民 を滅ぼすために獣を用
いるからである。
以下のごとく「獣」ということばは、滅ぼすことに関係がある。
”エレミヤ書 15:3 わたしは四つの種類のもので彼らを罰する。・・主の御告げ。・・すなわち、切り殺すために剣、引きずるために犬、食い尽くし、滅ぼすために空の鳥と地の獣である。”
以下のごとく、黙示録では「獣」ということばが多用されている。そのことの意味合いは、主が背教の神の民に怒りを持っておられること、それゆえ、終末の日にこの民に獣が送られると言うことである。
”ヨハネの黙示録6:8 私は見た。見よ。青ざめた馬であった。これに乗っている者の名は死といい、そのあとにはハデスがつき従った。彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。
ヨハネの黙示録11:7 そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。
ヨハネの黙示録13:1 また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。
ヨハネの黙示録13:2 私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口はししの口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。
ヨハネの黙示録13:3 その頭のうちの一つは打ち殺されたかと思われたが、その致命的な傷も直ってしまった。そこで、全地は驚いて、その獣に従い、
ヨハネの黙示録13:4 そして、竜を拝んだ。獣に権威を与えたのが竜だからである。また彼らは獣をも拝んで、「だれがこの獣に比べられよう。だれがこれと戦うことができよう。」と言った。
ヨハネの黙示録13:5 この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。
ヨハネの黙示録13:11 また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。
ヨハネの黙示録13:12この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。
ヨハネの黙示録13:14また、あの獣の前で行なうことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。
ヨハネの黙示録13:15それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。
ヨハネの黙示録13:17また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。
ヨハネの黙示録13:18ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。
ヨハネの黙示録16:2 そこで、第一の御使いが出て行き、鉢を地に向けてぶちまけた。すると、獣の刻印を受けている人々と、獣の像を拝む人々に、ひどい悪性のはれものができた。
ヨハネの黙示録16:10第五の御使いが鉢を獣の座にぶちまけた。すると、獣の国は暗くなり、人々
は苦しみのあまり舌をかんだ。
ヨハネの黙示録16:13また、私は竜の口と、獣の口と、にせ預言者の口とから、かえるのような汚れた霊どもが三つ出て来るのを見た。
ヨハネの黙示録17:3 それから、御使いは、御霊に感じた私を荒野に連れて行った。すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。
ヨハネの黙示録19:19また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。
ヨハネの黙示録19:20すると、獣は捕えられた。また、獣の前でしるしを行ない、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕えられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。”
9.終末の日の特徴は、神の民の大事な命のパン、みことば、教理に攻撃が加えられ、その教え、教理が変質、変型するということである。
”ヨハネの黙示録6:6 すると私は、一つの声のようなものが、四つの生き物の間で、こう言うのを聞いた。「小麦一枡は一デナリ。大麦三枡も一デナリ。オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。」
”
麦、大麦はパンのもとであり、みことばに関するたとえ。
パンが高額になる、ききんになるとのたとえ。以下の言葉の成就か。
アモス8:1「見よ。その日が来る。・・神である主の御告げ。・・その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。」
10. これらのみことばの変質のゆえ、終末の預言
は現在の背教の神の民にとり、封じられたも
の、読めないものとなっている
”ヨハネの黙示録5:1 また、私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻き物があるのを見た。
それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。
2また私は、ひとりの強い御使いが、大声でふれ広めて、「巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか。」と言っているのを見た。
3しかし、天にも、地にも、地の下にも、だれひとりその巻き物を開くことのできる者はなく、見ることのできる者もいなかった。”
この巻き物、黙示録の封印は今でも背教の神に対して封じられている。
レフトビハインドなどのインチキストーリーが本物と思えることじたい、
この時代の民が何一つ見ていないことの証拠である。
”イザヤ書29:11そこで、あなたがたにとっては、すべての幻が、封じられた書物のことばのようになった。これを、読み書きのできる人に渡して、「どうぞ、これを読んでください。」と言っても、「これは、封じられているから読めない。」と言い、
12また、その書物を、読み書きのできない人に渡して、「どうぞ、これを読んでください。」と言っても、「私は、読み書きができない。」と答えよう。”
今の時代の背教の神の民にとり、全ての幻も終末預言もみな、
封じられた書物のことばのようであり、何一つ開かれても見えてもいない。
それゆえ、何一つ危機感を抱かないのである。
この終末の日に自分の命を救い、狭い門を通り、永遠の命を獲得する者は、
主のあわれみと、知恵により、この時代を悟るようになる。
ー以上ー
第14回黙示録連続セミナー H23.1.22 午後
<終末に関しての基本>
1. 主の初降臨の時は再臨の日の型であり、イエス
の時代に起きたことは、終末の日に再現する。
”マタイの福音書24:1イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。
2そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」
3イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。”
主はここで、終末の日、世の終わりの日について語っているが、それは、近未来の日、
初降臨の時の裁きの日、エルサレムのローマによる陥落の日、エルサレムの神殿破壊の
日とシンクロナイズされ、語られている。
すなわち、初降臨の時の裁きの日は、再臨の時の裁きの型なのである。
2. 終末の日は多くの神の民が道を曲げている時代
である。
「ヨハネの福音書1:11この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」
キリストは自分の国に来たのに、その民は彼を受け入れなかった。その理由は民が道を曲げており、正しい方、キリストとあまりに距離があり、隔たりがあり、かけ離れており、遠かったからである。
彼らは真理から遠い世界を歩いていた。それゆえ、真理であり、まっすぐな方、キリストを見ることも理解することもできなかったのである。
「ヨハネの黙示録19:11また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、
「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。
12その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。
13その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。
14天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。
15この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。」
終末の日の神の民も、真理からかけ離れ、それゆえ、裁きにあうことが、この箇所から、
理解できる。
ここに書かれているのは、真理であり、正しい神のことばである、キリスト、そして、
そのことばに従わないため、逆らうため、災いに会う諸国の民、キリスト教各派のことが
描かれている。彼らは裁かれる。
終末の神の民は道を曲げており、それゆえ、バプテスマのヨハネ、エリヤの働きが起き
る
”ルカの福音書3:3 そこでヨハネは、ヨルダン川のほとりのすべての地方に行って、罪が赦される
ための悔い改めに基づくバプテスマを説いた。
4そのことは預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『 主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。
5すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。
6こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。』」”
ここでヨハネは、「主の通られる道をまっすぐに」する奉仕をした。しかし、何故ヨハネは、道をまっすぐにしなければならなかったのか?それは、その当時の道が曲がっており、教えも曲がっており、結果誰も正しく主のもとへ行けなかったからである。また、何故彼は、「すべての谷をうずめ、すべての山と丘とを低くし、曲がった所はまっすぐにし、でこぼこ道は平らにする」必要があったのか?
それは、その当時、主の初降臨の時の、神の民の歩みが曲がっており、谷があり、山、丘があり、曲がっており、でこぼこ道であり、結果誰も、正しく神の聖書も教理も理解できなかったからである。
事実、この当時の教理は曲がっており、結果、多くの人は真理の方、イエスを受け入れられなかった。
さて、このバプテスマのヨハネは来るべきエリヤであった。そして、来るべきエリヤが登場する真の時、本番は終末の時である。以下の通り書かれている。
”マラキ書4:5見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
6彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」”
すなわち、バプテスマのヨハネ、エリヤが行う、曲がった道をまっすぐにする回復の働きがもっとも必要とされるのは、本番である終末の時なのである。
裏返すと、教会、教理のあらゆる部分で、道を曲げており、混乱、変質している、時代とは、
他でもない終末の時代である現代なのである。
3. 終末の神の民は、終末預言を正しく理解でき
ず、正しく主の再臨に対応できない。
キリストの初降臨の時、メシヤ来臨の預言は正しく、解釈されず、結果、多くの神の民はメシヤをそれと悟れず、逆に捕らえ、迫害、殺害し、その罪のゆえ、裁かれ、永遠の命を失ってしまった。
”
ヨハネの福音書7:47 すると、パリサイ人が答えた。「おまえたちも惑わされているのか。
48議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか。”
終末の日にも同じくその背教のゆえ、正しくみことばを理解できない、結果、再臨の主に
正しくまみえることができない可能性がある。
”ヨハネの黙示録3:3 だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。”
終末の日のサルデスの教会は主の再臨の時が「決してわからない」ことが、書かれている。
かつての主の初降臨の時、メシヤ来臨を決して悟れず、裁きにあった神の民のように、終末の日にも、主の再臨が決して悟れない神の民がいることが理解できる。
4.終末預言が封印されているのには、理由があり、それは、偽善者、正しく歩まない者を除外し、滅びに至らせるためである。
神は愛であることは、事実であるが、しかし、終末預言が封印されていることの、意味合い、目的は正しく知らなければならない。
”ダニエル書 12:9 彼は言った。「ダニエルよ。行け。このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ。
10多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。悪者どもは悪を行ない、ひとりも悟る者がいない。しかし、思慮深い人々は悟る。”
ここに書かれているように、預言が封印されているその理由は、悪者と、正しく思慮深いものとの区別を行うためである。家のドアは施錠されており、誰でも入れるわけではない。
鍵を持っている、家族は入れ、持たない他人は入れない。
同じように封印された預言は人々に区分をもたらす。
神は悪者を終末の日に裁き、罰しようと定めており、その手段が、終末預言の封印なのである。
その封印を前にして、思慮深い者は悟り、悪者は誰も悟らない、という区分を行おうと神は定めておられる。
この区分は主の初降臨の時、行われ、みかけは白く塗られた墓のようにきれいでも、
その心の中は悪人である律法学者、パリサイ人はみごとにこの封印された預言により、区分されてしまった。彼らの誰一人として、封印を開く者はなく、目の前にいる、メシヤ、イエスを悟る者はいなかったのである。しかし、正しく思慮深い、弟子達はこの方こそ、生ける神の子、キリストであることを悟った。
5.終末の日は、神の怒りの時であり、その怒りは背教の神の民、背教の教会へ向けられるものである
黙示録の時代は、以下のごとく、神の怒りの時である。それを理解しないなら、この書を理解したことにならない。
”ヨハネの黙示録14:10そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。
ヨハネの黙示録14:19そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。
ヨハネの黙示録15:1 また私は、天にもう一つの巨大な驚くべきしるしを見た。七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。神の激しい怒りはここに窮まるのである。
ヨハネの黙示録16:1 また、私は、大きな声が聖所から出て、七人の御使いに言うのを聞いた。「行って、神の激しい怒りの七つの鉢を、地に向けてぶちまけよ。」
ヨハネの黙示録16:19また、あの大きな都は三つに裂かれ、諸国の民の町々は倒れた。そして、大バビロンは、神の前に覚えられて、神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられた。
ヨハネの黙示録19:15この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。
”
主の初降臨の時は、旧約時代の最後の時であり、旧約の神の民の背教が極度に達した日である。それゆえ、その時代の神の民は裁かれた。
以下のことばのとおりである。
”ルカの福音書19:41エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、
42言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。
43やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、
44そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」
”
神の民の都エルサレムはその背教のゆえに、破壊され、その子供達は、地に叩きつけられ、殺された。同じく終末の日にも新約の神の民の背教のゆえに、教会に神の怒りが臨むのである。
”
ルカの福音書 21:23 その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒りが臨むからです。”
終末の日に神の怒りの対象になるのが、この民、神の民すなわち、クリスチャンであり、クリスチャンに対して、神の怒りが臨むことが明言されている。
6.終末の日は、希代の人殺しの天才、サタンが大活躍する日であり、多くの偽善クリスチャンは、サタンの惑わしの中で、自ら滅びを選び取るようになる
”マタイの福音書27:20しかし、祭司長、長老たちは、バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑にするよう、群衆を説きつけた。
21しかし、総督は彼らに答えて言った。「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」
22ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」
23だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ。」と叫び続けた。”
主の初降臨の日、神の民とその指導者である祭司長、長老たちは、唯一の救い主イエスを殺すことを求め、その代わりに強盗バラバを釈放するよう求めた。
全くの本末転倒である。
同じような本末転倒は、終末にも行われ、民はイエスを追い出し、反キリストは受け入れるようになる。
”
ヨハネの黙示録3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。”
7つ目の教会、終末のラオデキヤ教会では、主は戸の外に追い出されている。
”
ヨハネの黙示録13:12この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。”
終末の神の民はその背教のゆえに、獣を拝むようにされる。
”
テサロニケ人への手紙第二2:9不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、
10また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。
11それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。
12それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。”
終末の日にサタンが大活躍し、多くのクリスチャンを惑わし、滅びに至らせることが書いてある。
黙示録の特徴は以下のように、たびたび、サタン、御使いが出現する。
それは、この時代が今迄の教会時代と異なる特殊な時代であり、御使いや、サタンの働きが大々的に許される日であることを語る。
今迄の教会時代と全く異なる、人知を超えた惑わしが許される時代に入るのである。
”ヨハネの黙示録7:1 この後、私は見た。四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押え、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしていた。
ヨハネの黙示録7:2 また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上って来た。彼は、地をも海をもそこなう権威を与えられた四人の御使いたちに、大声で叫んで言った。
ヨハネの黙示録8:2 それから私は、神の御前に立つ七人の御使いを見た。彼らに七つのラッパが与えられた。
ヨハネの黙示録8:3 また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。
ヨハネの黙示録8:4 香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。
ヨハネの黙示録8:5 それから、御使いは、その香炉を取り、祭壇の火でそれを満たしてから、地に投げつけた。すると、雷鳴と声といなずまと地震が起こった。
ヨハネの黙示録8:6 すると、七つのラッパを持っていた七人の御使いはラッパを吹く用意をした。
ヨハネの黙示録8:7 第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、血の混じった雹と火とが現われ、地上に投げられた。そして地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草が全部焼けてしまった。
ヨハネの黙示録8:8 第二の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして海の三分の一が血となった。
ヨハネの黙示録8:10 第三の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が天から落ちて来て、川々の三分の一とその水源に落ちた。
ヨハネの黙示録8:12 第四の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれたので、三分の一は暗くなり、昼の三分の一は光を失い、また夜も同様であった。
ヨハネの黙示録8:13 また私は見た。一羽のわしが中天を飛びながら、大声で言うのを聞いた。「わざわいが来る。わざわいが、わざわいが来る。地に住む人々に。あと三人の御使いがラッパを吹き鳴らそうとしている。」
ヨハネの黙示録9:1 第五の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、私は一つの星が天から地上に落ちるのを見た。その星には底知れぬ穴を開くかぎが与えられた。
ヨハネの黙示録9:11 彼らは、底知れぬ所の御使いを王にいただいている。彼の名はヘブル語でアバドンといい、ギリシヤ語でアポリュオンという。
ヨハネの黙示録9:14 その声がラッパを持っている第六の御使いに言った。「大川ユーフラテスのほとりにつながれている四人の御使いを解き放せ。」
ヨハネの黙示録9:15 すると、定められた時、日、月、年のために用意されていた四人の御使いが、人類の三分の一を殺すために解き放された。”
7.現代の教会に広がっている終末教理が的外れであり、ピント外れなものであることは、下記テサロニケ書の成就であり、神から送られた惑わす力によって、教会は惑わされている。
”
テサロニケ人への手紙第二2:9不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、
10また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。
11それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。
12それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。”
ハルリンゼイ、レフトビハインド、高木慶太などの艱難前携挙説を始めとするインチキ教理は、これらの惑わす力の現れであり、聖書を捨て、これらのインチキ教理を受け入れ、
その気になって信じる人は、神の真理よりも偽りを愛する人々である。彼らの上には、
「真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」とのことばが成就する。
8. 終末の黙示録に獣ということばが多用されるの
は、神がその背教の民を滅ぼすために獣を用い
るからである。
以下のごとく「獣」ということばは、滅ぼすことに関係がある。
”エレミヤ書 15:3 わたしは四つの種類のもので彼らを罰する。・・主の御告げ。・・すなわち、切り殺すために剣、引きずるために犬、食い尽くし、滅ぼすために空の鳥と地の獣である。”
以下のごとく、黙示録では「獣」ということばが
多用されている。そのことの意味合いは、主が背教の神の民に怒りを持っておられること、それゆえ、終末の日にこの民に獣が送られると言うことである。
”ヨハネの黙示録6:8 私は見た。見よ。青ざめた馬であった。これに乗っている者の名は死といい、そのあとにはハデスがつき従った。彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。
ヨハネの黙示録11:7 そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。
ヨハネの黙示録13:1 また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。
ヨハネの黙示録13:2 私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口はししの口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。
ヨハネの黙示録13:3 その頭のうちの一つは打ち殺されたかと思われたが、その致命的な傷も直ってしまった。そこで、全地は驚いて、その獣に従い、
ヨハネの黙示録13:4 そして、竜を拝んだ。獣に権威を与えたのが竜だからである。また彼らは獣をも拝んで、「だれがこの獣に比べられよう。だれがこれと戦うことができよう。」と言った。
ヨハネの黙示録13:5 この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。
ヨハネの黙示録13:11 また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。
ヨハネの黙示録13:12この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。
ヨハネの黙示録13:14また、あの獣の前で行なうことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。
ヨハネの黙示録13:15それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。
ヨハネの黙示録13:17また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。
ヨハネの黙示録13:18ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。
ヨハネの黙示録16:2 そこで、第一の御使いが出て行き、鉢を地に向けてぶちまけた。すると、獣の刻印を受けている人々と、獣の像を拝む人々に、ひどい悪性のはれものができた。
ヨハネの黙示録16:10第五の御使いが鉢を獣の座にぶちまけた。すると、獣の国は暗くなり、人々
は苦しみのあまり舌をかんだ。
ヨハネの黙示録16:13また、私は竜の口と、獣の口と、にせ預言者の口とから、かえるのような汚れた霊どもが三つ出て来るのを見た。
ヨハネの黙示録17:3 それから、御使いは、御霊に感じた私を荒野に連れて行った。すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。
ヨハネの黙示録19:19また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。
ヨハネの黙示録19:20すると、獣は捕えられた。また、獣の前でしるしを行ない、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕えられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。”
9.終末の日の特徴は、神の民の大事な命のパン、みことば、教理に攻撃が加えられ、その教え、教理が変質、変型するということである。
”ヨハネの黙示録6:6 すると私は、一つの声のようなものが、四つの生き物の間で、こう言うのを聞いた。「小麦一枡は一デナリ。大麦三枡も一デナリ。オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。」
”
麦、大麦はパンのもとであり、みことばに関するたとえ。
パンが高額になる、ききんになるとのたとえ。以下の言葉の成就か。
アモス8:1「見よ。その日が来る。・・神である主の御告げ。・・その日、わたしは、この地にききん
を送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。」
10. これらのみことばの変質のゆえ、終末の預言は現在の背教の神の民にとり、封じられたもの、読めないものとなっている
”ヨハネの黙示録5:1 また、私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻き物があるのを見た。
それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。
2また私は、ひとりの強い御使いが、大声でふれ広めて、「巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか。」と言っているのを見た。
3しかし、天にも、地にも、地の下にも、だれひとりその巻き物を開くことのできる者はなく、見ることのできる者もいなかった。”
この巻き物、黙示録の封印は今でも背教の神に対して封じられている。
レフトビハインドなどのインチキストーリーが本物と思えることじたい、この時代の民が何一つ見ていないことの証拠である。
”イザヤ書29:11そこで、あなたがたにとっては、すべての幻が、封じられた書物のことばのようになった。これを、読み書きのできる人に渡して、「どうぞ、これを読んでください。」と言っても、「これは、封じられているから読めない。」と言い、
12また、その書物を、読み書きのできない人に渡して、「どうぞ、これを読んでください。」と言っても、「私は、読み書きができない。」と答えよう。”
今の時代の背教の神の民にとり、全ての幻も終末預言もみな、封じられた書物のことばのようであり、何一つ開かれても見えてもいない。
それゆえ、何一つ危機感を抱かないのである。
この終末の日に自分の命を救い、狭い門を通り、永遠の命を獲得する者は、
主のあわれみと、知恵により、この時代を悟るようになる。
ー以上ー
第14回黙示録セミナー H23/1/22 (土)夜
<天国への道を妨げる終末の教師>
1. 荒野の民が、約束の国へはいることがらの意味合い
”コリント人への手紙第一10:1そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。
2そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、
3みな同じ御霊の食べ物を食べ、
4みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。
5にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。
6これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。”
荒野の民が約束の地へ到着する過程は、型であり、予表と理解できる。
旧約のイスラエルの道程は、新約のイスラエル、クリスチャンの道程の型である。
だからこそ、旧約の記述に関して、「これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。」と書かれているのである。
これらの道程は、バプテスマを受け、霊の食べ物、命のパンを受け、また、霊の飲み物を飲み、約束の地、天の御国をめざす新約のイスラエルである、クリスチャンの型である。
非常に示唆的なのは、これらの御霊の食べ物、飲み物を飲んで信仰生活を送っていた人のうち、
「彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。」と書かれていることである。
今の時代に沿って言うなら、大部分のクリスチャンは、約束の御国、天の御国に入ることなく、逆に神の怒りをかって、信仰生活の途中で滅ぼされてしまう、ことを暗示すると理解できる。
他の箇所では、以下のように、これらの「荒野のイスラエル」の記述は、世の終わり、終末の私達への教訓であることが書かれている。これらから、警告を学ぶことが大事である。
コリント人への手紙第一10:11これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。
12ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。
2. モーセ、アロンの失敗:
さて、荒野の旅路にたとえて書かれている、終末のクリスチャン生活の未来、特に、約束の御国、天の御国に入ることに関して、見て行く時、民のリーダー、教師、導き手である、モーセ、アロンのことが目にとまる。
よく、聖書を読む時、このモーセ、アロンは民を約束の国に連れ行くことはできなかった、さらに自分自身も約束の国に入れなかった、すなわち、天の御国に入ることに関しては「失敗者」であることを聖書が記載していることに気付く。
以下の記載どおりである。
”民数記 20:23 主は、エドムの国の領土にあるホル山で、モーセとアロンに告げて仰せられた。
24「アロンは民に加えられる。しかし彼は、わたしがイスラエル人に与えた地にはいることはできない。それはメリバの水のことで、あなたがたがわたしの命令に逆らったからである。”
3.モーセ、アロンが岩を打つことの意味合い
モーセ、アロンの失敗とは何か?以下のように記されている。
”民数記 20:8 「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。」
9そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、主の前から杖を取った。
10そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」
11モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。
12しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」”
ここでのモーセ、アロンは、神の命令に全面的に、逆らっているわけではない。
おおむね従っている。しかし、一点のみ明らかにみことばと異なることをしている。
それは、神が「岩に命じれば、岩は水を出す。」といわれたのに、彼らは「杖で岩を二度打った」のである。
ただ、命じればよかったのに、岩を打ってしまったのである。このことが問題であるらしい。しかし、岩を打つことがそれ程の重大事なのか?岩を一つ二つ打ったって、頑丈なのだから、こわれたりしないと思われるのだが?いったい、こんなことのどこが問題なのか?
それとも神様はささいなことに人に難くせをつけ、道を閉ざす、きまぐれな方なのか?
そんな風にとれなくもないが、しかし、他の聖書を参照すると、この岩を打つということに、非常に重大な意味合いがあることを理解できる。
以下の箇所である。
”1コリント10:4みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。”
すなわち、モーセ、アロンが打った岩はキリストのことであり、この箇所は何と、指導者、教師である、モーセ、アロンが他ならぬ、岩なるキリストを打たたくという、恐ろしい冒涜に加担することを示す箇所なのである。
モーセ、アロンはそのように理解していなかったであろうが、しかし、神はこのこと、
岩を打つことをキリストを打つことと理解し、結果として、モーセ、アロンに
厳しい言葉、厳しい処置が下された。結果、彼らは、自らが熱望していた、約束の地に決して入ることはできなかった。以下の様に書かれている。
”申命記 32:48 この同じ日に、主はモーセに告げて仰せられた。
49「エリコに面したモアブの地のこのアバリム高地のネボ山に登れ。わたしがイスラエル人に与えて所有させようとしているカナンの地を見よ。
50あなたの兄弟アロンがホル山で死んでその民に加えられたように、あなたもこれから登るその山で死に、あなたの民に加えられよ。
51あなたがたがツィンの荒野のメリバテ・カデシュの水のほとりで、イスラエル人の中で、わたしに対して不信の罪を犯し、わたしの神聖さをイスラエル人の中に現わさなかったからである。
52あなたは、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地を、はるかにながめることはできるが、その地へはいって行くことはできない。」”
イスラエルのリーダーであり、教師であるモーセが、目前の地、約束の地に入れないこと、そしてその理由は、モーセ、アロンの犯した罪のゆえ、
具体的には「岩=キリスト」を打たたいたこと、そして、それを神は、「不信の罪」である、また「神の神聖さをイスラエル人の中に現わさなかった」と指摘しているのである。
この岩を打つと言うことに非常に重大な意味合いがあることがわかる。
4. イエスの時代に「岩を打つ」ことは再現する
さて、このモーセ、アロンのことがらは、実は預言的なことがらであり、後の日に起きることの予表と理解できる。
イエスの時代にこのモーセ、アロンが岩を打つ、キリストを打つということは、再現している。
もちろん、イエスの時代にもうモーセは生きていないのだが、しかし、この時代に
モーセの位置を占める人々がいた。下記の通り。
「マタイの福音書23:2こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。」
イエスの時代のモーセの座を占める人々は、「律法学者、パリサイ人たち」であり、
彼らはモーセのように律法を扱い、また、民を導く教師、リーダーの位置を占めていた。
また、イエスの時代のアロンの位置を占める人々は、祭司達である。何故なら、アロンは、祭司の中の祭司であり、代表的な祭司であったからである。
これらのモーセ、アロンの位置を占める彼らが、岩を打ちたたく、キリストを攻撃する、ということは福音書の記述に多数書かれている。たとえば、以下である。
マタイの福音書9:3 すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている。」と言った。
マタイの福音書12:38そのとき、律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。」
マタイの福音書16:21その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
マタイの福音書20:18「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。
マタイの福音書21:15ところが、祭司長、律法学者たちは、イエスのなさった驚くべきいろいろのことを見、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ。」と言って叫んでいるのを見て腹を立てた。
マタイの福音書26:57イエスをつかまえた人たちは、イエスを大祭司カヤパのところへ連れて行った。そこには、律法学者、長老たちが集まっていた。
マタイの福音書27:41同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。」
ルカの福音書 11:53 イエスがそこを出て行かれると、律法学者、パリサイ人たちのイエスに対する激しい敵対と、いろいろのことについてのしつこい質問攻めとが始まった。
ルカの福音書 15:2 すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」
ルカの福音書 19:47 イエスは毎日、宮で教えておられた。祭司長、律法学者、民のおもだった者たちは、イエスを殺そうとねらっていたが、
ルカの福音書 20:1 イエスは宮で民衆を教え、福音を宣べ伝えておられたが、ある日、祭司長、律法学者たちが、長老たちといっしょにイエスに立ち向かって、
ルカの福音書 20:19 律法学者、祭司長たちは、イエスが自分たちをさしてこのたとえを話されたと気づいたので、この際イエスに手をかけて捕えようとしたが、やはり民衆を恐れた。
モーセ、アロンが「岩を打つ」と預言されていたことは、イエスの時代のモーセ、アロンの座を占める、律法学者、パリサイ人また、祭司により、実現し、彼らは上記のように、岩なるキリストを攻撃し、非難し、冒涜し、最後には殺して命を奪ったのである。
結果、モーセ、アロンが約束の地に入らなかったように、、彼ら、律法学者、パリサイ人また、祭司は約束の御国、天の御国には入らなかった。以下の記述の通りである。
”マタイの福音書23:13しかし、忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。”
ここには、イエスの時代のモーセの位置を占める律法学者、パリサイ人たちに従っていくと、
何と、天の御国に入れないことが書かれている。偽善な彼らは、自分達自身も、天の御国に入れないし、また、 彼らの教えに従う、民、会衆も天の御国に入れないのである。
このことは、民数記で、モーセ、アロンが約束の地に入らず、さらに民を、約束の地に連れ行くことができなかった事実と符合する。彼らに関する預言は、イエスの時代に成就しているのである。
しかし、これだけで、預言の全てが成就したとはいえない。岩を「二度」打つ、と記載されていることをも思い出すべきである。
キリストの初降臨の日に成就したことがらは、再度、再臨の日に再現すると理解するのが正しいと思われる。
すなわち、終末の日、キリストの再臨の日にもっとも、キリストの敵となるのは、
偽善教師、偽善牧師であると理解できる。
5. 災いは教師からやってくる、滅びは偽善教師の教えをうのみにすることから、やって来る
福音書は明らかに、イエスの時代の災いや、おかしな教え、それにともなう、民の滅びは、偽善で盲目な、教師、律法学者、パリサイ人たちから、やってくることを語る。
たとえば、以下である。
”マタイの福音書23:15忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするからです。
”
ここでは、聖書の教えを語る、しかし、偽善な律法学者、パリサイ人たちの教えをうのみにすると、
何と、その改宗者は、天の御国に入るのでなく、ゲヘナの子、地獄の子となる、ことが描かれている。
主のいわれたことは、冗談でも誇張でもないので、これらのおかしな教えを受ける人々は、本当に地獄、滅びに至るのである。
モーセ、アロンが「民を約束の地に導き入れない」と記されたことは、確かにこの時代に成就している。
また、この時代の教師である彼らが以下の様に偽善の道を歩んでいることを主は指摘している。
”マタイの福音書23:25忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。
マタイの福音書23:27忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、”
今の時代、終末の時代もそうであり、クリスチャンのあらゆる災いは偽善牧師、偽善教師のインチキ教理をうのみにすることから始まる。
6. 蛇、まむしのたとえ
さらに主は、偽善なる律法学者、パリサイ人たちに対して、「蛇ども、まむしのすえども」と語っている。
”マタイの福音書23:33おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。”
蛇、まむしのすえが意味していることは何か?
それは、以下の創世記の記述と関係がある。
”創世記 3:1 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」”
エデンの園の日、狡猾な蛇は、人をだまし、神のことばを疑わせ、まんまと人から、永遠の命を奪って行った。
同じように、イエスの時代の律法学者、パリサイ人たちも、偽善であるがゆえに、
正しい神のことばを解き明かせず、人を滅びに至らす、人間中心的な教え、この世との混合的な教えを語っていた。結果、それを真に受けた人々は、永遠の命をうけず、滅びに直行した。まさしく、エデンの園の狡猾な蛇の役目を、この時代の律法学者、パリサイ人たちはになっていたのである。もちろん、彼ら自身はそれと知らずにである。
しかし、福音書に書かれた蛇である律法学者、パリサイ人たちのこともまた、現代の終末の時代を予表であり、
このことは、再度、終末の日の偽善教師、偽善牧師の下で、再現する。
すなわち、これらの偽善牧師のインチキ教理、人間中心教理をうのみにする信者はみな、永遠の命を受けるはずが、滅びに直行するのである。
蛇、まむしは毒を持ち、かまれると、命を失う。同じ様に、今の時代に広まった、
聖書と異なる、終末教理、聖書と異なる、教えを受ける人々は、命を失い、永遠の命を失う。
7. 盲人教師
さらに主はパリサイ人達が盲人であることをも語られた。以下の通りである。
”マタイの福音書15:14彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人です。もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」”
主は明らかにみことばを解きあかし、人々を導き、説教をする聖書の専門家である
パリサイ人を盲人であると語ったのである。
盲人の意味合いは、肉体の目が見えない、ということではなく、霊の目が見えず、結果、肉体の目の視力は良くても、神のことばのいわんとすること、意味することを読み取れない、霊的盲人のことを語っているのである。
そして、そのような盲人教師についていって、果たして、狭い門、狭い道を通り、永遠の命に達するであろうか。否、それは大変、難しく、いいところ、穴に落ち込む、ゲヘナへ落ち込む程度と理解できる。
そして、そのような人々が神のことばの教師として君臨していたのが、旧約の終わり、イエスの時代の現実だったのである。
このことは、福音書が明記する歴史的な事実であるが、しかし、未来への預言、終末の時代の予表とも理解できる。すなわち、終末の日においても、キリスト教会は盲人牧師、教師に席巻される、との預言と理解できるのである。
8. ヤコブ書の語る教師からの災い
何故、イエスの時代の人々は、初降臨のメシヤ、イエスをそれと受け止められなかったのか?
聖書はこのことに関して、明らかに、イエスの時代の、教師達の責任、問題について語っている。
このことを真摯に受け止め、同じ轍を踏まないことを心掛けないなら、私達も
同じく、終末の蛇教理に惑わされ、盲人牧師、教師に引かれてゲヘナへ直行する可能性があるので、気をつけるべきである。
新約においても、教師に関する警告は厳しく、重大なものがある。
ヤコブ書では、教師に関して以下の様に書かれている。
”ヤコブ3:1 私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。
2私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。
3馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。
4また、船を見なさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さなかじによって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。
5同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。
6舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲへナの火によって焼かれます。
7どのような種類の獣も鳥も、はうものも海の生き物も、人類によって制せられるし、すでに制せられています。
8しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。
9私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。
10賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。
11泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか。
12私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりするようなことは、できることでしょうか。塩水が甘い水を出すこともできないことです。”
この箇所は教師による、災い、誤りをたとえを通して語っている箇所である。
各節に沿って見て行くと;
”ヤコブ3:1 私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。
2私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。”
教師がきびしい裁きを受けるものであることが書かれている。その厳しい裁きを受ける理由は、ことばにおいて失敗する、神のことばを正しく解釈、伝えることができないからである。
"
3馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。"
教師は大きな馬の体を引き回す、くつわにたとえられる。馬は教会会衆全体をさす。
”4また、船を見なさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さなかじによって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。”
さらに教師は大きな舟を動かすかじにたとえられる。大きな舟全体は、教会会衆全体をさす。
”5同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。”
さらに教師はからだ全体の、舌にもたとえられる。大きなことをいって誇る存在となる教師の罪についてここでは書かれている。
”
6舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲへナの火によって焼かれます。”
ここでは、舌にたとえられる教師の罪について書かれている。
舌はキリストのみからだである教会の一つの器官だが、しかし、その教師が惑わされる時、みからだ全体が汚され、また、その罪のゆえ、教師自身もゲヘナの火によって、裁かれる。
”7どのような種類の獣も鳥も、はうものも海の生き物も、人類によって制せられるし、すでに制せられています。
8しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。”
舌にたとえられる教師に、悪や、また、死の毒が、あることが書かれている。
”9私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。
10賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。”
賛美とのろいが同じ舌である教師を通して出ることが書かれている。
具体的には、神への賛美が教師を通して出ることもあるが、その一面、聖書にもない惑わし教理や、地獄へ導くインチキ教理が同じ教師を通して出ることを語る。
”
11泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか。
12私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりするようなことは、できることでしょうか。塩水が甘い水を出すこともできないことです。”
甘い水、苦い水は霊に関するたとえ。教師を通して会衆に、霊が下される。
甘い水、聖霊が下されることもあるが、しかし、その教師がおかしな霊に導かれているなら、苦い水、悪霊が下されることもある。
9. 黙示録の時代は、偽善教師への裁きの時代
黙示録の中には、これらの偽善教師への裁き、また、その災いに関して、暗示する箇所がある。
”ヨハネの黙示録14:19そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。
20その酒ぶねは都の外で踏まれたが、血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。”
神の怒りの日に、踏まれた酒ぶねの血は、馬のくつわに達する程であることが書かれている。
馬のくつわという聖書の中で、あまり用いられない表現があえて用いられているのは、私達に、この裁きの範囲の隠れた意味合いを示すため。
「馬のくつわ」はヤコブ書の中に出てきており教師に関することば。すなわち、黙示録の日の神の裁きは、馬のくつわ、教師に達することが暗示されている。
10. 今の時代の私達は、これらの偽善教師に対して、どうするべきか
これらの教師に関する聖書の警告をもとに私達はどう対応すべきか?
それは、今の時代の教師達に流布している教えを盲信、盲従せず、むしろ、改めて、
神の言葉に立ち返り、吟味すべきと思われる。
たとえば、今の時代の教師達は、聖書に何らの根拠もなく、「キリストの再臨は二度ある、艱難前に聖徒は挙げられる、艱難に会わない」というが、しかし、これは、明白にキリストの以下のことばと矛盾、衝突する教えである。
”マタイの福音書24:21そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。”
キリストはひどい苦難があるから、備えよ、と語っているのに、今の時代の偽善教師、蛇教師、ゲヘナ教師達は、「いや苦難はない」と全く反対のことばを語っているのである。
どちらを正しいと取るか、我々は自分自身で選択すべきである。その選択の結果、
我々は、「盲人に手を引かれてゲヘナに入る愚かな盲人」はたまた、「インチキ教理に洗脳されて、教師に倍まさるゲヘナの子」になるか、はたまた、「蛇教師にだまされて、蛇の毒でイチコロになり、永遠の命を失う愚か者」になるかを、自分で選ぶことになる。
それらの選択は各自にまかされている。
ー以上ー
第14回黙示録セミナー1/23 (日)午前
<エジプト化する教会への裁き>
1. エジプト化する教会への裁き
”ヨハネの黙示録11:7 そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。
ヨハネの黙示録11:8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。”
終末の日において、黙示録の二人の証人は、「霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都」の大通りにさらされる。
この都は、エルサレムと関係があり、教会と関係がある。
彼らの主、キリストが十字架にかつてつけられたのは、エルサレムであるので、この都をエルサレムと解釈するのは一理ある。しかし、必ずしもそう解釈すべきとは限らない。
その一つの理由は、「大きな都」との記述である。現実の地図上のエルサレムは歩いて回っても、数時間で行きめぐれる小さな都であり、この記述と相違する。
さらに、「彼らの主もその都で十字架につけられたのである」との記述中、「十字架につけられた」との記述の時制は、ギリシャ語、アオリストなので、必ずしも過去に訳す必要もない。
「彼らの主もその都で十字架につけられる」と未来のことと訳すことも可能である。
その理解に基づくなら、ここで、書かれているのは、過去の主の十字架のできごとというより、未来のできごと、「聖霊となられた主が再び十字架につけられる」都に関しての記述と理解する方が妥当である。
それらのことを考慮すると、この都、終末の日に「ソドム、エジプト」と化した都とは、昔のエルサレムではなく、現在と関係があるところ、具体的には、現代の堕落、背教した教会と理解することが、正しいと思われる。
そもそも、黙示録は、未来のこと、終末の日の背教や、裁きを語っている書なので、ここに書かれていることが、昔のエルサレムの堕落というより、終末の時代、教会時代の終わりに堕落、背教する教会の未来を預言していると理解する方が妥当である。
神の民をソドム、エジプトと呼ぶとは非常識ではないかと、いう意見もあるかもしれないが、しかし、イザヤ書では、下記のごとく、旧約の神の民をソドム、ゴモラの民と神御自身が呼んでおられる。
”イザヤ書1:8 しかし、シオンの娘は残された。あたかもぶどう畑の小屋のように、きゅうり畑の番小屋のように、包囲された町のように。
9もしも、万軍の主が、少しの生き残りの者を私たちに残されなかったら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていた。
10聞け。ソドムの首領たち。主のことばを。耳を傾けよ。ゴモラの民。私たちの神のみおしえに。”
旧約の神の民が、堕落して、ソドム、ゴモラと呼ばれるなら、堕落した新約の民の教会も同じく、ソドム、エププトと呼ばれるのは、聖書的には普通の事である。
2. 黙示録は終末の日に教会が堕落し、エジプト化することを暗示する。
以下の記述は終末の日、黙示録の日に教会が堕落し、エジプト化することを暗示する。
”ヨハネの黙示録11:7 そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。
ヨハネの黙示録11:8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。”
大きな都とは、教会のことであり、教会はその日、エジプト化する。
”ヨハネの黙示録15:3 彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌って言った。「あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。
もろもろの民の王よ。”
モーセの歌とは以下の申命記の記述のように、神の民がソドム化すること、
堕落することを歌う歌である。このことが黙示録の日、終末の日に新約の神の民の上に再現することを
「モーセの歌」ということばで暗示している。
”申命記32:28 まことに、彼らは思慮の欠けた国民、彼らのうちに、英知はない。
29もしも、知恵があったなら、彼らはこれを悟ったろうに。自分の終わりもわきまえたろうに。
30彼らの岩が、彼らを売らず、主が、彼らを渡さなかったなら、どうして、ひとりが千人を追い、ふたりが万人を敗走させたろうか。
31まことに、彼らの岩は、私たちの岩には及ばない。敵もこれを認めている。
32ああ、彼らのぶどうの木は、ソドムのぶどうの木から、ゴモラのぶどう畑からのもの。彼らのぶどうは毒ぶどう、そのふさは苦みがある。
33そのぶどう酒は蛇の毒、コブラの恐ろしい毒である。”
以下の黙示録の災いは出エジプトの日の災いと同じものである。
すなわち、終末の日に再度出エジプトが起きることを聖書は暗示する。
血の災い
”ヨハネの黙示録16:1 また、私は、大きな声が聖所から出て、七人の御使いに言うのを聞いた。
「行って、神の激しい怒りの七つの鉢を、地に向けてぶちまけよ。」
2そこで、第一の御使いが出て行き、鉢を地に向けてぶちまけた。すると、獣の刻印を受けている人々と、獣の像を拝む人々に、ひどい悪性のはれものができた。
3第二の御使いが鉢を海にぶちまけた。すると、海は死者の血のような血になった。海の中のいのちのあるものは、みな死んだ。
4第三の御使いが鉢を川と水の源とにぶちまけた。すると、それらは血になった。
5また私は、水をつかさどる御使いがこう言うのを聞いた。「常にいまし、昔います聖なる方。あなたは正しい方です。なぜならあなたは、このようなさばきをなさったからです。
6彼らは聖徒たちや預言者たちの血を流しましたが、あなたは、その血を彼らに飲ませました。彼らは、そうされるにふさわしい者たちです。」”
上記黙示録の水が血に変わるとの記述は以下の出エジプトのナイル川の水が血に変わるとの表現と同じ。
”出エジプト記7:19 主はまたモーセに仰せられた。「あなたはアロンに言え。あなたの杖を取り、手をエジプトの水の上、その川、流れ、池、その他すべて水の集まっている所の上に差し伸ばしなさい。そうすれば、それは血となる。また、エジプト全土にわたって、木の器や石の器にも、血があるようになる。」
20モーセとアロンは主が命じられたとおりに行なった。彼はパロとその家臣の目の前で杖を上げ、ナイルの水を打った。すると、ナイルの水はことごとく血に変わった。
21ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水を飲むことができなくなった。エジプト全土にわたって血があった。”
やみがおおう災い
”ヨハネの黙示録16:10第五の御使いが鉢を獣の座にぶちまけた。すると、獣の国は暗くなり、人々は苦しみのあまり舌をかんだ。”
黙示録のいう、国が暗くなる、やみが来るとは以下の出エジプト記のやみが国をおおうとの表現と同じ。
”出エジプト記 10:21 主はモーセに仰せられた。「あなたの手を天に向けて差し伸べ、やみがエジプトの地の上に来て、やみにさわれるほどにせよ。」
22モーセが天に向けて手を差し伸ばしたとき、エジプト全土は三日間真っ暗やみとなった。
23三日間、だれも互いに見ることも、自分の場所から立つこともできなかった。しかしイスラエル人の住む所には光があった。”
闇、光は、真理の光と関係があり、終末の背教の教会から、真理の光が消えることのたとえと理解できる。
かえるの災い
”ヨハネの黙示録16:13また、私は竜の口と、獣の口と、にせ預言者の口とから、かえるのような汚れた霊どもが三つ出て来るのを見た。
14彼らはしるしを行なう悪霊どもの霊である。彼らは全世界の王たちのところに出て行く。万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。”
かえるのような汚れた霊との黙示録の記述の中のかえるとは、以下の出エジプトの日のかえると同じ表現。
”出エジプト8:1主はモーセに仰せられた。「パロのもとに行って言え。主はこう仰せられます。
『わたしの民を行かせ、彼らにわたしに仕えさせるようにせよ。
2もし、あなたが行かせることを拒むなら、見よ、わたしは、あなたの全領土を、かえるをもって、打つ。
3かえるがナイルに群がり、上って来て、あなたの家にはいる。あなたの寝室に、あなたの寝台に、あなたの家臣の家に、あなたの民の中に、あなたのかまどに、あなたのこね鉢に、はいる。
4こうしてかえるは、あなたとあなたの民とあなたのすべての家臣の上に、はい上がる。』」
5主はモーセに仰せられた。「アロンに言え。あなたの手に杖を持ち、川の上、流れの上、池の上に差し伸ばし、かえるをエジプトの地に、はい上がらせなさい。」
6アロンが手をエジプトの水の上に差し伸ばすと、かえるがはい上がって、エジプトの地をおおった。”
雹の災い
”ヨハネの黙示録16:21また、一タラントほどの大きな雹が、人々の上に天から降って来た。人々は、この雹の災害のため、神にけがしごとを言った。その災害が非常に激しかったからである。”
上記黙示録の箇所に記された雹とは、以下の出エジプトの日の雹と同じ記述である。
”出エジプト記 9:17 あなたはまだわたしの民に対して高ぶっており、彼らを行かせようとしない。
18さあ、今度は、あすの今ごろ、エジプトにおいて建国の日以来、今までになかったきわめて激しい雹をわたしは降らせる。
19それゆえ、今すぐ使いをやり、あなたの家畜、あなたが持っている野にあるすべてのものを避難させよ。野にいて家へ連れ戻すことのできない人や獣はみな雹が落ちて来ると死んでしまう。』」
20パロの家臣のうちで主のことばを恐れた者は、しもべたちと家畜を家に避難させた。
21しかし、主のことばを心に留めなかった者は、しもべたちや家畜をそのまま野に残した。
22そこで主はモーセに仰せられた。「あなたの手を天に向けて差し伸ばせ。そうすれば、エジプト全土にわたって、人、獣、またエジプトの地のすべての野の草の上に雹が降る。」
23モーセが杖を天に向けて差し伸ばすと、主は雷と雹を送り、火が地に向かって走った。主はエジプトの国に雹を降らせた。
24雹が降り、雹のただ中を火がひらめき渡った。建国以来エジプトの国中どこにもそのようなことのなかった、きわめて激しいものであった。
25雹はエジプト全土にわたって、人をはじめ獣に至るまで、野にいるすべてのものを打ち、また野の草をみな打った。野の木もことごとく打ち砕いた。
26ただ、イスラエル人が住むゴシェンの地には、雹は降らなかった。”
3. かつての日の出エジプトは、預言であり、終末の日に再度再現する
出エジプトの日にエジプトに下った災いは、終末の日にエジプト化、この世化した、
教会に下る、災いの預言である。
血に変わる災い
”出エジプト7:17主はこう仰せられます。『あなたは、次のことによって、わたしが主であることを知るようになる。』ご覧ください。私は手に持っている杖でナイルの水を打ちます。水は血に変わり、
18ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水をもう飲むことを忌みきらうようになります。」
19主はまたモーセに仰せられた。「あなたはアロンに言え。あなたの杖を取り、手をエジプトの水の上、その川、流れ、池、その他すべて水の集まっている所の上に差し伸ばしなさい。そうすれば、それは血となる。また、エジプト全土にわたって、木の器や石の器にも、血があるようになる。」
20モーセとアロンは主が命じられたとおりに行なった。彼はパロとその家臣の目の前で杖を上げ、ナイルの水を打った。すると、ナイルの水はことごとく血に変わった。
21ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水を飲むことができなくなった。エジプト全土にわたって血があった。”
命の川、ナイルの水が血にかわり、呪いに変わる。
そして、「木の器や石の器にも、血があるようになる。」
これは、終末の日、エジプト化し、この世についたエジプト化した教会に下る災いの預言である。
その日、命の水、聖霊の水は変質し、血となり、悪霊となり、誰も飲めなくなる。
その血、呪いの血は、木の器や石の器、すなわち、キリスト教会のどんな器も悪霊を下すようになる。
この川の水が血に変わることが、杖を通して行われることも象徴的。
杖は、人の歩みを助けるものとして、教師のたとえ。
終末の教師、働き人は、悪霊を下すようになる。ベニーヒンのように。
かえるが出現する災い
”出エジプト8:1主はモーセに仰せられた。「パロのもとに行って言え。主はこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、彼らにわたしに仕えさせるようにせよ。
2もし、あなたが行かせることを拒むなら、見よ、わたしは、あなたの全領土を、かえるをもって、打つ。
3かえるがナイルに群がり、上って来て、あなたの家にはいる。あなたの寝室に、あなたの寝台に、あなたの家臣の家に、あなたの民の中に、あなたのかまどに、あなたのこね鉢に、はいる。
4こうしてかえるは、あなたとあなたの民とあなたのすべての家臣の上に、はい上がる。』」
5主はモーセに仰せられた。「アロンに言え。あなたの手に杖を持ち、川の上、流れの上、池の上に差し伸ばし、かえるをエジプトの地に、はい上がらせなさい。」
6アロンが手をエジプトの水の上に差し伸ばすと、かえるがはい上がって、エジプトの地をおおった。”
エジプトの次の災いはかえるの発生である。
かえるのたとえの意味合いは?
それは、以下の箇所を見ればわかる。
”ヨハネの黙示録16:13また、私は竜の口と、獣の口と、にせ預言者の口とから、かえるのような汚れた霊どもが三つ出て来るのを見た。”
かえるとは汚れた霊をさすたとえである。実際のかえるは、川やたんぼ、すなわち、
水のあるところにいる。同じように、たとえのかえるも水、霊と関係がある。
上記、出エジプト記に、「かえるがナイルに群がり、上って来て、あなたの家にはいる。」と書かれているように、終末の日、背教の日には、あらゆる汚れた霊が、ナイル、聖霊の働きにまざり、また、家に入る、すなわち、神の家、教会に入り込むようになる。
さらに、「あなたのかまどに、あなたのこね鉢に、はいる。」と書かれているように、
こね鉢、すなわち、パン、みことばや、メッセージの奉仕や、奉仕者の中にもこのような汚れたかえるのような霊を受けた人が多くなる。これは、エジプト化した教会、この世についた教会に下る災いである。
具体的にこのかえるの害、災いは終末の日のエジプト化した教会にどのような方法で、下されるのか。
それは、上記、「アロンに言え。あなたの手に杖を持ち、川の上、流れの上、池の上に差し伸ばし、かえるをエジプトの地に、はい上がらせなさい。」とのことばどおり、杖、教師、働き人を通して、かえるのような汚れた霊は教会に下される。
ぶよの災い
"
出エジプト8:16主はモーセに仰せられた。「アロンに言え。あなたの杖を差し伸ばして、地のちりを打て。そうすれば、それはエジプトの全土で、ぶよとなろう。」
17そこで彼らはそのように行なった。アロンは手を差し伸ばして、杖で地のちりを打った。すると、ぶよは人や獣についた。地のちりはみな、エジプト全土で、ぶよとなった。
18呪法師たちもぶよを出そうと、彼らの秘術を使って同じようにしたが、できなかった。ぶよは人や獣についた。"
ここでは、ぶよの災いが描かれています。ぶよは、KJVでは、しらみと書かれています。どちらにしても、血を吸う存在です。
血は、主の血、聖霊の働きに通じます。
ですから、血を吸うぶよとは、聖霊の働きを奪う、消す災いです。
終末のこの世についた教会に下る災いは、聖霊の働きが消えて行くという災いなのです。
あぶ(はえ)の災い
”出エジプト8:20主はモーセに仰せられた。「あしたの朝早く、パロの前に出よ。見よ。彼は水のところに出て来る。彼にこう言え。主はこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、彼らをわたしに仕えさせよ。
21もしもあなたがわたしの民を行かせないなら、さあ、わたしは、あぶの群れを、あなたとあなたの家臣とあなたの民の中に、またあなたの家の中に放つ。エジプトの家々も、彼らがいる土地も、あぶの群れで満ちる。
22わたしはその日、わたしの民がとどまっているゴシェンの地を特別に扱い、そこには、あぶの群れがいないようにする。それは主であるわたしが、その地の真中にいることを、あなたが知るためである。
23わたしは、わたしの民とあなたの民との間を区別して、救いを置く。あす、このしるしが起こる。』」
24主がそのようにされたので、おびただしいあぶの群れが、パロの家とその家臣の家とにはいって来た。エジプトの全土にわたり、地はあぶの群れによって荒れ果てた。”
ぶよは、KJVでは、fly, はえと書かれている。蠅は、悪霊ベルゼブルの意味が「蠅の王」であるように、悪霊のたとえ。
終末の日、エジプト化、この世化した教会においては、「あぶ(蠅)の群れを、あなたとあなたの家臣とあなたの民の中に、またあなたの家の中に放つ。」と書かれたように、神の家、教会は、悪霊の住まいとなり、リバイバル聖会は、悪霊聖会となる。
疫病の災い
”3見よ、主の手は、野にいるあなたの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に下り、非常に激しい疫病が起こる。
4しかし主は、イスラエルの家畜とエジプトの家畜とを区別する。それでイスラエル人の家畜は一頭も死なない。』」”
エジプトにはこの日、家畜は疫病が起こった。家畜である、羊、牛はクリスチャンのたとえ。
すなわち、エジプト化した、教会におけるクリスチャンが病に倒れることのたとえ。
彼らは、霊的に病になり、霊的に歩めなかったり、目がみえなくなったりする。
そのような、クリスチャンが、エジプト化し、この世についた教会には多い。
うみの出る腫物の災い
”出エジプト9:8主はモーセとアロンに仰せられた。「あなたがたは、かまどのすすを両手いっぱいに取れ。モーセはパロの前で、それを天に向けてまき散らせ。
9それがエジプト全土にわたって、細かいほこりとなると、エジプト全土の人と獣につき、うみの出る腫物となる。」
10それで彼らはかまどのすすを取ってパロの前に立ち、モーセはそれを天に向けてまき散らした。すると、それは人と獣につき、うみの出る腫物となった。
11呪法師たちは、腫物のためにモーセの前に立つことができなかった。腫物が呪法師たちとすべてのエジプト人にできたからである。”
うみや、腫物も血に関係するので、霊的なことがらをあらわす。
やはり、悪い霊の影響をあらわすと理解できる。
それが、かまどのすすと関係していることも象徴的。かまどは、パンを焼くところ。
すなわち、神のパン、みことばを聞きに教会へ行きながら、悪霊の災いに会うようになるとの、たとえ。終末のエジプト化した教会においては、その教会を通して、悪霊の災いが起きる。
雹の災い
”出エジプト9:18さあ、今度は、あすの今ごろ、エジプトにおいて建国の日以来、今までになかったきわめて激しい雹をわたしは降らせる。
19それゆえ、今すぐ使いをやり、あなたの家畜、あなたが持っている野にあるすべてのものを避難させよ。野にいて家へ連れ戻すことのできない人や獣はみな雹が落ちて来ると死んでしまう。』」
20パロの家臣のうちで主のことばを恐れた者は、しもべたちと家畜を家に避難させた。
21しかし、主のことばを心に留めなかった者は、しもべたちや家畜をそのまま野に残した。
22そこで主はモーセに仰せられた。「あなたの手を天に向けて差し伸ばせ。そうすれば、エジプト全土にわたって、人、獣、またエジプトの地のすべての野の草の上に雹が降る。」
23モーセが杖を天に向けて差し伸ばすと、主は雷と雹を送り、火が地に向かって走った。主はエジプトの国に雹を降らせた。
24雹が降り、雹のただ中を火がひらめき渡った。建国以来エジプトの国中どこにもそのようなことのなかった、きわめて激しいものであった。
25雹はエジプト全土にわたって、人をはじめ獣に至るまで、野にいるすべてのものを打ち、また野の草をみな打った。野の木もことごとく打ち砕いた。
26ただ、イスラエル人が住むゴシェンの地には、雹は降らなかった。”
雹は、水からできる。従って、これも水、霊に関する災い。
恵みの雨、水が、雹に変わると、人や家畜に災いをもたらす。同じように、終末のエジプト化、この世についた教会においては、恵みの霊が、
悪霊に変わり、災いをもたらす。
「パロの家臣のうちで主のことばを恐れた者は、しもべたちと家畜を家に避難させた。」と書いてある。
主のことばを恐れ、信者を、悪霊リバイバル聖会になど行かせない教会は家畜、クリスチャンの命を救うことになる。また、「イスラエル人が住むゴシェンの地には、雹は降らなかった。」と書いてあるように、このような時代であっても、イスラエル、すなわち主にまっすぐついていく民にはこの雹の様な悪霊の災いは下らない。
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いなごの災い:
”出エジプト10:12 主はモーセに仰せられた。「あなたの手をエジプトの地の上に差し伸ばせ。いなごの大群がエジプトの地を襲い、その国のあらゆる草木、雹の残したすべてのものを食い尽くすようにせよ。」
13モーセはエジプトの地の上に杖を差し伸ばした。主は終日終夜その地の上に東風を吹かせた。朝になると東風がいなごの大群を運んで来た。
14いなごの大群はエジプト全土を襲い、エジプト全域にとどまった。実におびただしく、こんないなごの大群は、前にもなかったし、このあとにもないであろう。
15それらは全地の面をおおったので、地は暗くなった。それらは、地の草木も、雹を免れた木の実も、ことごとく食い尽くした。エジプト全土にわたって、緑色は木にも野の草にも少しも残らなかった。”
いなごは、草木を、木の実を食い付くす。
結果、羊も牛もえさがなくなる。羊、牛、すなわちクリスチャンの食物、命のみことばや、聖霊の働きは消えて行く。
このいなごの害は、具体的には、エジプト化した教会、この世についた教会を席巻する、この世的な教理、注解書、メッセージをさすのか。
何はともあれ、今のこの世についたエジプト化したキリスト教会を冷静に見渡すなら、このことばのように、
食べ物も真のパンもない、いなごに食い荒らされたような状態が続いている。
闇の災い
”出エジプト10:21主はモーセに仰せられた。「あなたの手を天に向けて差し伸べ、やみがエジプトの地の上に来て、やみにさわれるほどにせよ。」
22モーセが天に向けて手を差し伸ばしたとき、エジプト全土は三日間真っ暗やみとなった。
23三日間、だれも互いに見ることも、自分の場所から立つこともできなかった。しかしイスラエル人の住む所には光があった。”
この闇の災いが意味することは何か?そのたとえの意味合いは?
それは、主の以下のことばと関係すると思われる。
”ヨハネ8:12イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」”
主は真理の光であるが、エジプト、この世についた教会からは、光が、真理が消えて行く、そのことを示すと思われる。
このことは、事実実現しており、この世についた現在の教会においては、真理が消えている。
黙示録に関する真理も消え、終末の艱難時代に関する真理も消え、終末の日にいったい何が起こるのか、正しく知るクリスチャンは皆無となっている。
初子の死の災い
”出エジプト12:29 真夜中になって、主はエジプトの地のすべての初子を、王座に着くパロの初子から、地下牢にいる捕虜の初子に至るまで、また、すべての家畜の初子をも打たれた。
30それで、その夜、パロやその家臣および全エジプトが起き上がった。そして、エジプトには激しい
泣き叫びが起こった。それは死人のない家がなかったからである。”
初子の死の災いのたとえの意味することは何だろうか?
以下の聖書のことばと関係すると思われる。
”ヨハネの福音書3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。”
神の望みは、神の御子、キリストを信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つことである。しかし、エジプト化した教会、この世化した教会において、災いが起こり、この尊い救い、永遠の命を持つことが消え、逆に死、滅びを得る、教会となる、そのことを初子の死ということがらを通して、あらわしていると理解できる。
キリスト教会では、誰でも救われる、永遠の命を得られる、と永遠の命の安売りのようなことがいわれているが、その日、背教の日、永遠の命を得ることは難しくなり、逆に、上記出エジプト記の「それは死人のない家がなかったからである」とのことばどおり、死が家、教会に蔓延するようになる。
3. そのようなエジプト化した教会に我々がとどまることにみこころはな
く、逆に出エジプトすることを主は命じておられる
”出エジプト7:4 パロがあなたがたの言うことを聞き入れないなら、わたしは、手をエジプトの上に置き、大きなさばきによって、わたしの集団、わたしの民イスラエル人をエジプトの地から連れ出す。
5わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエル人を彼らの真中から連れ出すとき、エジプトはわたしが主であることを知るようになる。」”
神は明確にその民、イスラエル人にエジプトから出ることを命じている。
従って、我々も終末の日、「ソドム、エジプトと呼ばれる都」、背教の教会から出るべきである。
以下のことばも背教の教会に戻るな、出ろと語っているように理解できる。
”マタイ24:16そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。
17屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。
18畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。”
家に入るなとのことばは、家、神の家、教会に入るな、背教の教会に入るなとの教えと理解できる。
4. イエスの時代の神の民のエジプト化
この出エジプトに関する預言はイエスの時代、その当時の神の民に関して、実現していた。彼らはエジプト化していた民であった。たとえば、以下のように、彼らの
教えは神のものというより、人間の教えとなっていた。
”マタイの福音書15:1 そのころ、パリサイ人や律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て、言った。
2「あなたの弟子たちは、なぜ昔の先祖たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」
3そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。
4神は『あなたの父と母を敬え。』また『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』と言われたのです。
5それなのに、あなたがたは、『だれでも、父や母に向かって、私からあなたのために差し上げられる物は、供え物になりましたと言う者は、
6その物をもって父や母を尊んではならない。』と言っています。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。
7偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。
8『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。
9彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」”
人間の教え、この世の教え、それがエジプト化である。
さらに彼らは金が好きである。
”
ルカの福音書 16:14 さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。”
世の金を愛する人々、それが、この世化した教会、エジプト化した教会の特徴である。
さらに主イエスを迫害した人々には、以下の様に大いに悪霊の働きがあった。
”ルカの福音書 11:24汚れた霊が人から出て行って、水のない所をさまよいながら、休み場を捜します。一つも見つからないので、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言います。
25帰って見ると、家は、掃除をしてきちんとかたづいていました。
26そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。」”
5. ペンテコステの時代の出エジプト
さて、エジプトを出よ、この世化した民の間から出よとのことばが神の命令であるが、それは、イエスの時代どのようにして成就したのか。
彼らはこの世化した、エジプト化した集会、集まり、会堂から出た。
ヨハネ9:22「彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。」
イエスをキリストであると告白する者はみな、会堂から追放されることになった。
結果、正しい民、真理を知る民は、皆エジプト化したユダヤ教の会堂から出た。
そして、彼らは、自分達で教会を建て挙げた。これが、主イエスの時代の出エジプトである。神の民は、エジプト化した民の間から出ること、そのことが求められている。
6. ペンテコステの時代において出エジプトした民への神の導き
旧約の時代、出エジプトしたイスラエルの民は、荒野を通り、約束の地へ向かった。
神は、火の柱、雲の柱をもって、彼らを導いた。
これは、天の御国をめざすクリスチャンの型である。
初代教会、ペンテコステの日の神の民もある意味、この出エジプトを再現している。
”使徒2:16これは、預言者ヨエルによって語られた事です。
17『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
18その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
19また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。
20主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。
21しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』”
上記、太陽はやみとなり、とは出エジプトの地がやみにおおわれることと、関係する。意味することは、太陽に比せられる大きな器も真理の光を失い、やみとなる。
また、月に比せられる大きな器も聖霊ではなく、血、悪霊を拝するものとなる、
その預言である。
そのような状態、この世的な神の民がエジプト化したような状態でも、しかし、主のしもべには、神からのしるしと、導きがあるとの預言である。
また、エジプト化した民の間で、真の神の民が正しく歩むために、聖霊のたまもの、すなわち、預言、夢、幻が、大きく用いられることが暗示されている。
7. 終末の我々も出エジプトすべきである
これらの例を見ての結論は、終末における我々もエジプト化し、この世についた教会と歩みをともにするのではなく、しかし、出エジプトすることにポイントがあることがわかる。
また、初代教会時代、古いユダヤ教の会堂から、出エジプトして、できた教会に
御霊が注がれ、預言、夢、幻などの御霊のたまものによる、導き、あたかも、雲の柱、火の柱のように主御自身が導く歩みに教会が入ったことは注目すべきである。
私事ではあるが、昨年から、当レムナント教会では、顕著な形で、神の霊による預言、また、夢、幻などが与えられている。このような形が終末においては、健全な教会の歩み、雲の柱、火の柱に導かれた歩みではないかと思う。
ー以上ー
第14回黙示録セミナー H23 1/23午後
<終末を経て永遠の命を獲得する>
1. 聖書は明らかに終末を経て、なおかつ永遠の命を得る者は少ないことを語る。
終末はノア、ロトの時
”ルカ17:26 人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。
27ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。
28また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、
29ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。
30人の子の現われる日にも、全くそのとおりです。”
ノアの話の要点は、その罪のゆえ、その時代の多くの人が洪水により、滅び、残ったのは正しいノア達数人ということ。滅びる者は多く、正しく生き残る者は少ない、ということが要点。
また、ロトの時も同じく、その時代、ソドム、ゴモラの多くの人は、罪の中にあり、滅ぼされてしまった。その火の裁きを経て生き残ったのは、ロトとその娘達、計三人という話である。この話も要点は、裁きを経て生き残る、正しい者は少ない、と
いう教えである。
結論として、道を曲げているクリスチャン、隠れた罪の中にいる偽善クリスチャンはみな、危ない。襟を正して、歩みを糺すクリスチャンがかろうじて救われる、と理解するのが正しい。
それ以外の解釈など、ありえないし、ありえるべきではない。
このように、聖書の主張、主のいわれた終末に関するポイントは、子供でも分かる程たやすい話なのに、愚かで、役立たずな現代の牧師、教師はインチキ終末教理を、持ち込み、「艱難は来るが、全てのクリスチャンは、救われる(?)」、
終末はクリスチャンの勝利の時だ(???)などと、わけのわからない、妄想教理を熱弁し、滅びに至る人々、備えを怠り、滅びる人を増やしている。
残りの者は少ない
聖書が明らかに語る神の民の原則は;
多くの人が道を踏み外し、背教し、冒涜の道を歩む。それに惑わされず正しく残る
残りの者は少ない、ということ。
以下のように書かれている。
”イザヤ書1:9 もしも、万軍の主が、少しの生き残りの者を私たちに残されなかったら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていた。”
2 永遠の命に至る門は狭く、その道は狭い、それを見い出す者はまれ
命の門は狭い
”
マタイの福音書7:13 狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
4いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。”
ここに書かれている「いのち」とは、肉体のいのちではなく、永遠のいのち。
その門は狭いことが書かれている。
難関大学の門も狭いが、永遠の命への門はさらに狭い。
逆に、滅びに至る門は広く、惑わされてインチキ終末教理をうのみにして、
広い滅びの門を安心して通って行く者が多い。
救われるものは少ない
”ルカの福音書 13:23 すると、「主よ。救われる者は少ないのですか。」と言う人があった。イエスは、人々に言われた。
24「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。”
救われる者は少ないとの質問に対して、主はそのことを否定しなかった。
救われる者は少ない、と理解した方が正しいのである。
3. イエスの時代、多くのユダヤ人、神の民は、彼を受け入れなかった
そして、最終的にイエスを、拒否し、十字架で殺し、神からの裁きにあった。
その後、エルサレムはローマにより、攻撃され、エルサレムに住む神の民は最後の一人迄、殺された。
神のすさまじい裁き、罰を受けたのである。
福音書が、語ることは、旧約の時代の終わり、主イエスの時代の民は、曲がっており、間違えており、背教であること、そして、その罪のゆえ、多くは罰せられ、滅んだことである。
”マタイの福音書27:20しかし、祭司長、長老たちは、バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑にするよう、群衆を説きつけた。
21しかし、総督は彼らに答えて言った。「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」
22ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」
23だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ。」と叫び続けた。”
新約の終わりの神の民もその背教のゆえ、結局、主のことばを否定し、冒涜し、
裁きと罰に入るようになった。以下のことばの通りである。
”ルカの福音書 23:28 しかしイエスは、女たちのほうに向いて、こう言われた。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。
29なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ。』と言う日が来るのですから。
30そのとき、人々は山に向かって、『われわれの上に倒れかかってくれ。』と言い、丘に向かって、『われわれをおおってくれ。』と言い始めます。
31彼らが生木にこのようなことをするのなら、枯れ木には、いったい、何が起こるでしょう。」”
キリストを受け入れず、そして、最後は十字架につけて殺したこのエルサレムの町は、後に神の裁き、罰を受け、ローマ軍により、最後の一人迄、殺された。
その日には、上記のように、民は助けを叫ぶようになったのである。
なお、上記、”山に向かって、『われわれの上に倒れかかってくれ。』”とのことばは、
黙示録で再現する。以下のとおりである。
”ヨハネの黙示録6:15 地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、
16山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。
17御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」”
すなわち、終末の日に冒涜の民への神の怒りが再現することが暗示されているのである。
4. しかし、例外的に12弟子達は、イエスを理解し、彼を受け入れた
イエスの時代に誰が彼を受け入れ、信じ、結果、旧約の民の冒涜、背教に巻き込まれず、逆に永遠の命を得たかを、見ることは大事である。
”マタイの福音書16:15イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。
17するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。”
聖書によれば、それは弟子であり、ペテロを始めとする弟子であることがわかる。
今の時代においても、弟子の歩みにポイントがある。
”ヨハネの福音書14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
3わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。”
このことばを主は最後の晩餐、弟子達のみ集まった場所で語られた。
エルサレムの多くの人がキリストを否定し、結果として裁きに会い、滅ぶようになるが、しかし、例外的に主は弟子達に対して、「場所を備えに行く」すなわち、
彼らを天の御国に入れることを語っている。
弟子の歩みにポイントがある。さらに「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。」とのことばに注目すべきである。
「また来て」とは、再臨のことであり、このことばから理解できることは、再臨とは、全てのクリスチャンのためというより、弟子にむけたもの、弟子を天の家に迎え入れるものと理解できる。
5. 主の昇天を見守ったのは弟子のみ、同じように主は再臨される
主の昇天の記事を見てみよう。
”使徒の働き1:9こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。
10イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。
11そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」”
ここに書かれているように、主の昇天を見送ったのは弟子達のみである。
そして、この箇所で、再臨に関しても言及があり、「イエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」と語られている。
主は昇天の時と同じありさまで、再臨される、ということは、
再臨の時も真の意味で、主を迎えるのは弟子である、可能性がある。
6. 黙示録は主の弟子であるヨハネがパトモス島で「みことばのため」苦難にある時書いたもの
”ヨハネの黙示録1:9 私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。”
このことを通して再臨ということがらの特殊性が理解できる。このことが暗示するのは、
終末の日に主の再臨をもっとも待ち望む者は、ヨハネと同じく、終末の日に
「みことばのために苦難に会う弟子達」であり、主の再臨の第一義の目的は、彼らのためなのである。
まちがっても、みことばと正反対の教理を語る、艱難前携挙者のために主が再臨するわけではない。
7.御使いが遣わされ、天の四方から、選びの民が選ばれる
”マタイの福音書24:31人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。”
ここに書かれているのは、たとえであり、たとえを理解する必要がある。
ラッパは、角笛に通じ、警告のラッパである。
また、御使いとのことばは、働き人を意味することがある。
すなわち、いわれていることは、終末の日に主の命を受けて、警告の働き、また、
選びの民を集める働き人が起こされるということ。
ここでの注目点は、「選びの民」ということ。その終末の日には、誰でも彼でも、というより、選抜されたもの、主に選ばれた者が、警告のラッパを聞き、また、理解し、
そしてその主の声に聞き従うというもの。逆に他の多くの民、主によって、選ばれなかった民は、相変わらず、のんきで、悟らず、理解せず、しかし、滅びに至るということ。
もっと端的いうなら、終末の日において、正しく救いにあずかるのは、かつての日の12弟子のように、選ばれた人たちであるということ。
いかに私達がこの時代、歩みをただし、主の選びにあずかることが大事か理解できる。
8 たとえ、終末の預言は弟子に開かれる
たとえは弟子にひらかれる
”マタイの福音書13:10すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」
11イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。
12というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。
13わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。
14こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。
15この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』
16しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。”
終末預言は弟子に開かれる
”マタイの福音書24:3 イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」”
この時、終末預言の解釈は主から弟子にひそかに伝えられた。
全ての群集に公に語られたのではない。終末預言に関しては神がそう定めたのである。
今の時代も終末預言は主の弟子に対してひそかに、秘密に開かれるものであり、
公に大っぴらに開かれるものではない。そのようには見えないかも知れないし、
書店に行けば、終末預言の注解書が売っているようであるが、神がそのように、原則を定めたら、人が覆すことはできない。今でも終末預言は閉じられ、封じられており、それを理解し、悟るのは
弟子の歩みをしている人々のみである。
9終末は選びの時である。
残される
終末は主の選びの時であり、正しく残るもの、主に選ばれるものにみこころがある。
クリスチャンならば、誰でも救われるわけではない。
”マタイの福音書24:39そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。
40そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
41ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。”
悪霊リバイバルの洪水にある人は取られ、ある人は残される。
残る者にポイントがある。
岩の上に家をたてる
”マタイの福音書7:24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
25雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
26また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
27雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」”
みことばを行い、岩の歩み、弟子の歩みをするものが、終末の惑わしの中でも残る。
ー以上ー
レムナントキリスト教会
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