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2013年7月21 (日) 第29回黙示録セミナー by エレミヤ     前半
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   第29回黙示録セミナー     テキスト



第29回黙示録セミナー     H25.7.21



 



      サルデスへの災い」



 

1.旧約のイスラエルへの預言は新約のイスラエル、教会への預言とシンクロナイズされている。


 

旧約聖書に書かれている、イスラエルに起きたできごとの多くは新約のイスラエルである、クリスチャンに起きてくることへの預言でもあり、それは、再現する。

2.旧約の神の民の歩みに関する預言は多い。

 

それは、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルなど多くの預言者が微にいり、細にいり、預言している。

3.ひるがえって、新約の教会、クリスチャンに関する預言は少ない。


 

7つの教会に関する預言など少しの預言しか書かれていない。


 

旧約の神の民は100万人とか、200万人など少ない人数。ひるがえって、新約のクリスチャンの数は、10億人も20億人もいる。


 

何故このように不公平なのか?何故教会に関する預言は少ないのか?神は新約の神の民を忘れているのか?


 

4.実は新約の神の民に関する詳細な預言は与えられている。しかし、それは、御国の奥義に関することであり、すべての人が見ること悟ることを許されているわけではない。

 

“マタイ

 

13:11 イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。

13:12 というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。“

 

5.旧約聖書に書かれているイスラエルに関する預言は当然、旧約の神の民に対して成就する。しかし、それだけで終わるものではなく、その預言は再度、新約のイスラエルである、教会、クリスチャンの上に成就する。それで、神は新約の民に関する詳細な預言を新約聖書の中に書かなかったのである。

 

わかりやすくいうなら、教会の未来を見ようとするなら、旧約の預言のことばに戻る必要がある、ということである。いわゆる“バックトウザフューチャー”、未来へ戻る、ことが必要なのである。


 

6.旧約の神の民への預言がそのまま新約の神の民への預言ともなる、そのわかりやすい例は、主が語られたエルサレムの宮の崩壊の預言である。

 

“マタイ

 

24:1 イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。


 

24:2
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」

 

 

24:3
イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」

 

この時、主が預言した宮の崩壊は、西暦70年のローマによる、エルサレム侵攻のとき、最初に成就した。それは、旧約の神の民への裁き、イエスを殺したユダヤ人への裁きとして成就した。

しかし、それは、また再度終末の日に新約の神の民への裁きとして、成就する。


 

具体的には、文字通りの宮の崩壊ではなく、たとえとしての、宮、教会の崩壊として、成就する。



現在のエルサレムにはそもそも崩壊すべき宮そのものが建っていないので、宮の崩壊とは、文字通りの宮というより、それはたとえとして成就すると理解することが妥当である。


 

その宮、すなわち、神への祈りの宮としての教会が崩壊する日は、ほかの聖書箇所にも預言されている。


 

まず、宮の石とは、以下のとおり、使徒、預言者、そしてキリストのことである。

 

“エペソ

2:20
あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。

 

2:21
この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、

 

2:22
このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。“


 

このように、教会こそ、宮であることが書かれている。であるので、宮の崩壊、石がひとつも残らないとは、恐るべき預言をさしている。


 

すなわち、教会の教理、信仰、体制の徹底的な崩壊を預言している、と理解できる。


 

宮のひとつの石も崩されずに残らないとは、たとえを理解するなら、宮の石、すなわち


 

使徒である、ペテロや、ヨハネ、そして、パウロの教えた教理も、信仰の継承もみな、教会から消え去り、崩壊する、という教会の徹底的な破壊の日に関する預言なのである。


 

そして、さらに恐ろしいことは、教会の礎石である、キリストご自身もその宮である、教会から、取り除かれることが預言されていることである。


 

 

「ひとつの石もくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」


 

とは、その礎石である、キリストさえ例外ではなく、キリストも、教会から、取り除かれるとの預言と理解するほうが正しい。

 

そして、そのことは、以下のパウロの預言と一致する。

 

“2テサロニケ

2:4 彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。”


 

神の宮、すなわち、教会の中で、反キリストが座をもうけ、自分が神である、と宣言する、ということは、


 

すなわち、教会の神である、キリストは押しのけられ、その座から追い出されると理解できる。


 

まさに土台石、礎石であるキリストが宮である、教会から追い出されることがここにも預言されているわけである。


 

キリストが教会から追い出される、このことは受け入れがたいがしかし、ほかのみことばと一致する。

 

“マタイ

24:15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)“

 

荒らす憎むべきもの、すなわち、反キリストが聖なるところに立つ日、すなわち、本来、キリストが座しておられた聖なる座に立つようになる日についてここでは語られてる。


 

そして、その日、その聖なるところに座しておられたキリストは教会から追い出されるようになる、と理解できる。


 

さらに7つの教会の7つ目の教会、ラオデキヤにおいては、キリストが家、すなわち、教会から追い出されていることが語られている。



以下のとおりである。


 

“黙示録

3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。“


 

本来キリストは家、教会の真ん中に座すべき方なのだが、しかし、ここでは、外に立っている。


 

キリストが外に追いやられているなら、そのかわりに、反キリストが主の座しておられた座に、居座っていることが暗示されている。


 

キリストは教会の中心であることは、どんな不信仰な信者でも知っているので、教会内で反キリスト礼拝などありえないとの考えもあるかもしれない。

 

 

しかし、このことは、平常時ではなく、異常なとき、すなわち獣の国の圧倒的な支配と強圧の中で、行われることを理解すべきである。



 

下記にその獣の国が教会を支配し、すべてのクリスチャンが反キリスト礼拝を強制されることが預言されている。

 

“黙示録

13:14 また、あの獣の前で行なうことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。


 

13:15 それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。“


 

上記の獣の像こそ、反キリストのことであり、教会内で反キリストを礼拝しないものは殺されるときが獣の国主導でやってくることがここに預言されている。


 

この日こそ、艱難時代である。



 



7.このこと、旧約の預言が実は、新約の神の民への預言としても成就する、シンクロナイズされることは、7つの教会への預言でも暗示されている。


 

何故、7つの教会への預言、新約の神の民に関する預言の中に旧約の記事が記載されているのか? その理由を理解しなければ、ならない。


 

その理由は、旧約におきたできごとは、再度新約の教会の歴史の中で再現するから、と理解できる。


 

たとえば、以下の様に、旧約のバラムのできごとは、新約の教会の中で再現する。

 

“黙示録

2:14 しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。

 

2:15 それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。“


 

新約の教会の歴史の中で、かつてのバラムの様に、「イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせ」る偽教師があらわれることがここに預言されている。


 

すなわち、旧約の歴史はさらに新約の教会の歴史の中で再現するのである。


 

8.イゼベルの誤りも教会の歴史において再現するイゼベルの記述も7つの教会のうちのひとつ、テアテラに記載されている。

 

“黙示録

2:20 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。

 

2:21 わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。

 

2:22 見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行なう者たちも、この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。

 

2:23 また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行ないに応じてひとりひとりに報いよう。“

 

イゼベルの記述が新約の教会に関する預言に記されている、その意味あいは何か?


 

イゼベルは、旧約において、イスラエルをまどわし、バアル拝へ導いた悪女である。


 

そのことは、旧約の歴史において事実であるが、しかし、このことは、新約においても再現する。


 

であるがゆえに新約の教会を預言する7つの教会の預言中にイゼベルの名が記載されているのである。


 

このことは、確かにテアテラすなわち、カソリックにおいて、実であり、

 

 

カソリックは現代のバアル崇拝、偶像崇拝に陥っている。


 

信者たちは、バアルすなわち、法皇に聞き入り、進化論は科学的である(創世記は神話)との教えに導かれ、神のことばを捨て去っている。

 

 

また、マリヤをはじめとした偶像を崇拝している。


 

逆に旧約のイゼベルの記述はまた、新約のカソリックの誤りに関する預言とも理解できる。


 

したがって以下のナボテへの迫害、虐殺はこの教会において、再現すると思われる。

 

“1列王記

21:1 このことがあって後のこと。イズレエル人ナボテはイズレエルにぶどう畑を持っていた。それはサマリヤの王アハブの宮殿のそばにあった。

 

21:2
アハブはナボテに次のように言って頼んだ。「あなたのぶどう畑を私に譲ってもらいたい。あれは私の家のすぐ隣にあるので、私の野菜畑にしたいのだが。その代わりに、あれよりもっと良いぶどう畑をあげよう。
もしあなたがそれでよいと思うなら、それ相当の代価を銀で支払おう。」

 

21:3
ナボテはアハブに言った。「主によって、私には、ありえないことです。私の先祖のゆずりの地をあなたに与えるとは。」

 

21:4
アハブは不きげんになり、激しく怒りながら、自分の家にはいった。イズレエル人ナボテが彼に、「私の先祖のゆずりの地をあなたに譲れません。」と言ったからである。彼は寝台に横になり、顔をそむけて食事もしようとはしなかった。

 

21:5
彼の妻イゼベルは彼のもとにはいって来て言った。「あなたはどうしてそんなに不きげんで、食事もなさらないのですか。」

 

21:6
そこで、アハブは彼女に言った。「私がイズレエル人ナボテに『金を払うからあなたのぶどう畑を譲ってほしい。それとも、あなたが望むなら、その代わりのぶどう畑をやってもよい。』と言ったのに、彼は『私のぶどう畑はあなたに譲れません。』と答えたからだ。」

 

21:7
妻イゼベルは彼に言った。「今、あなたはイスラエルの王権をとっているのでしょう。さあ、起きて食事をし、元気を出してください。この私がイズレエル人ナボテのぶどう畑をあなたのために手に入れてあげましょう。」

 

21:8
彼女はアハブの名で手紙を書き、彼の印で封印し、ナボテの町に住む長老たちとおもだった人々にその手紙を送った。

 

21:9
手紙にはこう書いていた。「断食を布告し、ナボテを民の前に引き出してすわらせ、

 

21:10 彼の前にふたりのよこしまな者をすわらせ、彼らに『おまえは神と王をのろった。』と言って証言させなさい。そして、彼を外に引き出し、石打ちにして殺しなさい。」“


 

ナボテは先祖のゆずりの地を譲り渡すことを拒み、イゼベルに殺された。


 

新約においても、同じくナボテの様に信仰の先祖のゆずりの地を譲ることを拒み、ひとたび聖徒に伝えられた信仰を堅く保つクリスチャンはカソリックのイゼベル、すなわち、バアル崇拝者、法皇崇拝者に殺され、殉教することが暗示されていると理解できる。


 

9.サルデスへの預言:

 

 

サルデスへの預言を見ていく。


 

黙示録

3:1 また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。

 

3:2 目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。

 

3:3 だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。

 

3:4 しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。

 

3:5 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。

 

3:6 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』“


 

この箇所を順に見る。


 

“黙示録

:1 また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。”


 

<サルデス>


 

サルデスというギリシャ語の意味合いは「赤いもの」。


 

以下の「赤めのう」もギリシャ語では、サルデスと記されている。


 

“黙示録

4:3その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。”


 

赤いものとは、すなわち、旧約でいう、エドムのことである。

 

“創世記

25:30 エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」それゆえ、彼の名はエドムと呼ばれた。”


 

エドムはエサウの子孫であり、また、俗悪なものである。



 

以下のとおり。


 

“ヘブル書

12:16 また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。

 

12:17 あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。“


 

彼は「自分のものであった長子の権利を売った」ものである。


 

たとえの意味合いとしては、天の御国の世継であるのにかかわらず、それを売り払い、御国に入れない、世俗的なクリスチャンの型である。


 

神はプロテスタントを名づけて、よりによって、赤いもの、エサウと同じサルデスという名前を与えられた。


 

このことを通して、暗示されていることはこの教会の大部分が世俗化して、結果、受け継ぐべき天の御国を受け継げないことを語ると思われる。

 

われわれはこの預言に対して、慄然とし襟をただすべきである。



 

<あなたの行いを知っている>


 

サルデス、すなわち、プロテスタントの人々は聖書の知識はあるのだろうが、しかし、行いがない。結果、天の御国に入ることが難しい。


 

私たちは裁きの日に各自の行いにより裁かれる。以下のことばのとおりである。

 

“黙示録

20:12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。

 

20:13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。“

 

ここには2度にわたって、「自分の行ないに応じてさばかれた」ことが書かれている。


 

聖書の知識や信仰によってさばかれたわけではないのである。したがって、いかに私たちの行いをただすことが必要かわかる。


 

信仰があるといっても行いのない信仰は死んだものである。以下のことばのとおりである。

 

“ヤコブ書

2:14 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。

 

2:15
もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、

 

2:16
あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。

 

2:17
それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。

 

2:18
さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」

 

2:19
あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。

 

2:20
ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。

 

2:21
私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。

 

2:22
あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、

 

2:23
そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。

 

2:24
人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。

 

2:25
同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行ないによって義と認められたではありませんか。

 

2:26
たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。“


 

今のプロテスタントでは、信仰が大いに強調されているが、しかし、行いのともなわない、クリスチャンが多い。


 

しかし、私たちは理屈やたてまえではなく、その日、実際に私たちが行ったことを通して裁かれることを知るべきである。



 

<生きているとされているが、実は死んでいる。>

 

サルデス、プロテスタントには、生きているとの名目があるが、

 

しかし、すべてを見通す神の目には、この教会は、死んでいるものとみなされている。このことは大いに問題である。



 

死とは、肉体の死というより、罪や死の問題と思われる。



 

ロマ書では以下の様に書かれている。


 

“ロマ書

6:16 あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。”


 

であるので、神はサルデス、プロテスタントを罪の奴隷、死に至る教会とみなしているのである。


 

これが人からの指摘なら、反論することや、屁理屈をいうことももありえるが、しかし、他ならぬ主ご自身が、プロテスタントをそう見られるなら、議論の余地はない。


 

私たちの現状はそのようなものなのである。



 

次の節を見る。


 

“黙示録

3:2 目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。“



 

<目をさましなさい>


 

目をさますことは以下の箇所に書かれている。

 

“マタイ

26:40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。

 

26:41 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」

 

26:42 イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」

 

26:43 イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。“


 

眠りこけている弟子たちに対して、主は「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。」と語られた。


 

眠ることはたとえであり、パウロは以下の様に語っている。


 

“エペソ書

5:14
明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」”


 

すなわち、目をさませとは、罪の中で眠り込み、死の中に入り込んでいるクリスチャンに対して、起きて目をさませ、と薦められていることであることがわかる。



 

<死にかけているほかの人たちを力づけなさい>


 

サルデスには、単にすでに死んでいるだけでなく、他にも死に至ろうとする人々がいることが書かれている。


 

すなわち、プロテスタントは、命に向かっているというより、死や罪に向かう教会なのである。


 

神の目には、そのようにこの教会が見えている、そして、それは、現在のプロテスタントの現状と一致している。


 

刺青も同性愛もOKな教会は確かに罪、死に向かっている、と理解するのが正しい。



 

次の節を見ます。


 

“黙示録

3:3 だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。

 

あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。


 

<どのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい>


 

受け、聞くということばは、以下の節でも使われている。

 

“マタイ

13:20 また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。”


 

この箇所は、種まきのたとえの箇所であり、受け、聞くとは神のみことばに関することであることがわかる。



 

サルデス、プロテスタントが当初聞いたみことばの理解から逸脱し、はずれていくことが暗示されているように思える。


 

 

<それを堅く守り>


 

守るとのことばは以下でも使われている。

 

“マタイ

19:17 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」”


 

ここで、主はいのち、すなわち、永遠の命を得るつもりなら、「戒めを守りなさい」と語られた。


 

このことはサルデス、プロテスタントに対しても同じであり、もし、プロテスタントの人々が本当に永遠の命に入るつもりがあるなら、今の様な、屁理屈のみ、建前のみ、人前だけの義の生き方から、離れ、神のことばの戒めを守ることが大切である。



 

<悔い改めなさい>


 

かつての日、バプテスマのヨハネも悔い改めについて語った。以下のとおりである。

 

“マタイ

3:1 そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。

 

3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」“


 

何故、悔い改め、方向転換が必要か、というと今のままの歩みでは、入るべき御国に入れないからである。


 

であるので、主は明らかにサルデス、プロテスタントの歩みに対して、合格点を与えたり、その調子でいけば大丈夫とはいわず、逆に悔い改めを進め、そのままの歩みを続けるなら、天の御国が危ないことをかたったのである。


 

そのことばに従い、歩みをただすものは幸いである。



 

<あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。>


 

もし、サルデス、プロテスタントが悔い改め、罪の眠りから目をさまさないなら、


 

キリストの再臨がいつなのか、決してわからないようになる、ことがここでは語られている。


 

何故、キリストの再臨がわからないか、その理由は、艱難前だの2段階携挙だの


 

聖書にない、インチキ教理がプロテスタントに広まっており、正しく歩まない偽善者はみな、それにひっかかるからである。


 

キリストの再臨がいつだかわからず、キリストの再臨がいつだか「決してわからない」としてもたいした問題ではない、という考えもあるかもしれないが、そうではない。


 

キリストの初降臨の日、キリストが本当に降臨されたことを正しく知った人とそうでなく、間違えた人との間には、大きな差があり、永遠の命の差があった。


 

キリストが自分の目のまえにこられたことを悟ったペテロを始めとした弟子たちは入るべき天の御国に入った。


 

一方、聖書の知識はあるものの、肝心なキリストの来臨を悟らなかった、パリサイ人、律法学者などは、逆にキリストを殺して、永遠の命を失った。



 

サルデスにおいても再臨のキリストを悟れなかったことが、同じく大きな差につながることが予想される。

 

“黙示録

3:4 しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。“



 

<その衣を汚さなかった者が幾人かいる>


 

私たちは義の白い衣を着なければ正しい神の前にでることができない。したがって、


 

白い衣は必須である。しかし、この箇所では、それにふさわしい、衣を汚さなかったものがサルデスで「幾人か」しかいないことが書かれている。


 

すなわち、それ以外の大多数は、白い衣を着ることが許されず、したがって、神の前に義とみなされず、あがないも適用されない可能性があるのである。


 

いいかたを変えるとサルデスの大多数は、衣が穢れており、その歩みが正しくない、罪と決別していない、そう理解できる。


 

ここで書かれている、「幾人」とは以下でも使われている。

 

“マタイ

7:14
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。”


 

ここに書かれている “それを見いだす者は<まれ>です。”の「まれ」ということばの原語が、「幾人」とのことばで使われている。


 

すなわち、プロテスタントにおいては、永遠の「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれ」であり、大多数は滅びに入る可能性があるのである。

 

“黙示録

3:5 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。“



 

<勝利を得る者>

 

勝利ということばは、以下でも使われている。

 

“ロマ書

12:21 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。”


 

すなわち、悪に打ち勝つものが白い衣を着せられるのである。



 

<彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。>


 

いのちの書から名前を消されるということは、聖書の中で何度か記載されている。


 

我々は確かに今はいのちの書に名前が記されているものかもしれないが、


 

しかし、行いしだいで、いのちの書から名前が消されることもありえることを知るべきである。


 

“詩篇

69:28 彼らがいのちの書から消し去られ、正しい者と並べて、書きしるされることがありませんように。”


 

ここでは、少数の勝利者に対して、「彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。」ことが約束されている。


 

このことは、感謝であるが、しかし、少数の勝利者にいのちの書から名前が消されないことが約束された、ということは、それ以外のサルデスの大部分は、いのちの書から名前が消される可能性があるわけである。


 

結論として神はサルデス、プロテスタントの終末に関して、厳しいことばを語られている。



 

歩みをただしていきたい。



 

―以上―