聖書箇所 Ⅰコリント人への手紙1:10

 

1:10 さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。

 

本日も御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

今日の箇所では教会で主の働きを担っていく上において、とても大切なポイントについて語られています。

今更ではありますが、「教会」という場所について、少しおさらいをしたいと思います。

世の中のあらゆることは、人によって所有されているものばかりです。

たとえば、千葉県のどこかの土地に一軒家を建てるとします。

たいがいはローンでお支払いするわけですが、ひとしきりローンが終了すると、その人の所有物となります。

家だけに限りません。

車、建物、お金をはじめとするあらゆるものは、所有者に実権があります。

しかし、教会や神様の奉仕、はたまた、信仰についてはどうでしょう?

会堂があろうとなかろうと、教会は誰のものでもありません。

確かに、目に見える建物そのものは、牧師や信徒が献金をして購入するかも知れません。

しかし、会堂=教会かと言うと、どうでしょう?それはあくまでもこの世的な見方であって・・・

「教会」とは、イエス・キリストを信じる信仰を持つ人々の集まりを指します。

更に言うなら、「教会」というところは、イエス・キリストにひたすらお仕えしていく場所とも言えるのです。

もちろん、聖書には、ずばり、そんなことは書いていないのですが、多くの人、特に神様を知らない方は往々にして勘違いしやすいのではないかと思いますので、この場を借りまして、少し補足させていただきました。

つまり、教会は、神様御自身、もっと言えば、イエス・キリストそのものなのです。

ゆえに、主御自身のものなのです。

ですから、教会の働きも、常に主御自身に主導権があるのです。

だからこそ、御言葉に書かれているように仲間割れ、すなわち、分裂、分派など、あってはならないのです。

あってはならないのですが・・・「えっ?クリスチャンの集まりにそんなことがあるの?」と、顔をしかめる方もおられるかも知れません。

しかし、教会では、いや、教会こそ、分裂や分派が起きやすい場所だから、パウロがこのように、信仰の仲間たちにあえて嘆願しているのです。

「仲間割れ」というと、単に仲たがいとかケンカ別れみたいなニュアンスがありますが、先に申し上げたように、どちらかと言うと、分裂、分派という表現が分かりやすいように思います。

「仲間割れすることなく」の言葉に続いて「同じ心、同じ判断を完全に保ってください」の文脈から、「分裂、分派」というのは、聖書に書かれていないことを教会内に取り入れてくる、いわゆるキリスト以外の別の福音、もっと分かりやすく言えば異端的なものを持ち込んでくると、そんな風なことを言われているのではないかと思います。
たとえば、復活は無いとか、イエス・キリストはマグダラのマリヤと結婚していたとか、地獄は無いとか、そのような教えです。

そういったものが教会内に入っていくときに、信仰を覆されたり、御言葉につまずいたりする人々が出てくる、ゆえに、そのようなことは絶対に避けなさいと言われているのです。

そして万一、そういったことが持ち込まれた場合、それは直ちに追い出さなければいけません。

そうでないと、ありとあらゆる混乱を招いてしまい、主の働きが御心からズレてしまうからです。

でも、この御言葉の通りに、お一人一人が忠実に従っていくときに、教会の働きは進み、多くの実を結ばせるようになります。

このようなことを申し上げるのは非常におこがましいのですが、私自身も、この御言葉に沿って歩みや働きを成せるように祈り求めています。

なぜかと言うと、以前行っていた教会では、艱難前携挙説やヤベツの祈りを積極的に取り入れていて・・・

つまり、聖書の御言葉に則していなかったため、いわゆる異端の教えを盲信していたために、主の御心の働きとは、完全にズレていました。

その結果、以前の私もそうだったように、牧師や伝道師や献身者をはじめとする、ほとんどの信徒が霊的に盲目や耳しいになってしまっていたように思います。

別に以前行っていた教会や働き人の悪口を言ったり批判したりするのが主旨ではありません。

そうではなく、このようなことは、神様の前に、どう見なされ、どのような結果をもたらしてしまうのかを真剣に考える必要があるのでは?と、私個人はそのように思いますし、神様からそんな風に示されています。

ですから、自分自身が、異端の教えを掴んだり、はたまた、それらのものを教会に持ち込んだり、人に伝えてしまうことのないように、常々お祈りしています。

こんな風に、わずかながらも、御言葉を扱う働きをさせていただいているのですから、なおさらのことです。

御言葉に恐れをもって主に仕えていこうと祈り求めている中で主からの守りや助けを痛切に感じていますので、このことは、ぜひ、おすすめいたします。

また、本日の御言葉に書かれているように、同じ心、同じ判断、すなわち、御言葉を正しく握っていないと、聖霊の働きは期待できないと思います。

主御自身である御言葉はすべて純粋なのですが、もし、人々が自分勝手に教理をねじ曲げてしまうなら、そこには、聖霊の力が働くのは皆無と考えてよいと思います。

さっきも話をしましたように、クリスチャンが艱難を通ると御言葉は語っているにも拘らず、艱難は通ることはないと、解釈するなら、その時点で聖書を正しく読み取ることは出来なくなります。

聖書に書かれていないことを盲信していくなら、悪しき霊が積極的に働きます。

その結果、霊的に正しく見ることも聞くこともできなくなります。

特に、今の終末の時代は、聖書が改ざんされたり、人手によって、都合の良いように、教理が変えられたりしています。

神は愛の方だから人を地獄に行かせることは無い、煉獄があるからこの世ではまあまあ、そこそこ歩んでいれば大丈夫、クリスチャンと名が付けば自動的に天国、裁かれるのは未信者だけ、セカンドチャンスがある、クリスチャンは艱難を通らないのだから艱難のための備えは不要等々・・・

こういったことを聖書では「不法とか不義」と言っているのですが、悲しいことに、多くのクリスチャンはそういったことに気付いていません。

御言葉にも、「不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれるまで引き止めているのです」とか「不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されている」と、あります。

教会内では、このようなことが今の時代、まかり通っていますが、不法や不義がもたらす結末は、最終的には滅びです。

いかがでしょうか?私が言っているのならともかく、御言葉がこのように言われているので、決して侮ってはいけないと思うのですが。

もし、このようなことにお心あたりがありましたら、即座に歩みを転換されることをぜひ、おすすめいたします。

御言葉がどのように語っているのかを御自分の目できちんと確認をして、正しく受け入れていきたいと思います。

繰り返すようですが、正しく御言葉にとどまっていくときに、分裂や分派から守られ、主の目に叶った歩みや働きを成していくようになります。

その結果として、恵みや祝福に入り、なおかつ、実を見たり結ばせていくようにもなります。

このようなことは、今、ほとんどの教会で言われていないかも知れませんが、聖書で言われていることが唯一正しいことですので、こういったことについても、ぜひ、神様の言葉に従っていきたいと思います。

 

献身の歩みをするまでは、本日の御言葉の意味合いに関して、今ひとつ、ピンと来るものがありませんでした。

でも、今は、こんな風に、わずかでも、主の御言葉を扱う働きをさせていただく中で、あるいは、教会の人々と共に歩みや働きにたずさわっていく中において、とても大切なことだなぁと、思うようになりました。

以前、行っていた教会もそうだったのですが、どこの教会でも「御霊の一致」ということは、よく、言われていることだと思います。

ただ、それが、建前で終わってしまうのではなく、本当にそうでないと、神様の働きというのは、期待できないと思います。

と、言うのは、教会の人、クリスチャンと呼ばれる人であっても、案外、自己主張が強い人が多いからです。

もちろん、私もその一人かも知れませんが・・・

でも、メッセージの中でも語りましたように、教会はイエス・キリストが主人ですので、どこまでも、キリストを中心、つまり、御言葉が中心となっているべきであると言う風に思います。

働きを担っていくポイントについて、本日、メッセージを通して、改めて、そのようなことを教えられましたこと、感謝でした。

主を中心に、益々、弟子として共に歩んでいる人たちと同じ心、同じ判断を保っていきたいと思います。

本日も大切なことを語ってくださいました主に栄光を帰し、感謝して。