聖書箇所 Ⅰコリント人への手紙2:1,2

 

2:1 さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。

2:2 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。

 

本日も御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

上記御言葉を通して、私たちが福音を語っていくときの要点を学ぶことが出来ます。

私たちクリスチャンは、証をしたり、メッセージをしたり、場合によっては個人的に福音を語ったりと、御言葉を伝えるチャンスがありますよね。

そんな時に、何を語ったらよいのか?と、そんな風に考えることはないでしょうか。

少なくとも、過去、私は、そのようなことを思い巡らしていました。

でも、聖書を学んでいくうちに、こんな感じかなぁと、特に、パウロの歩みや働きを見ていくうちに、私なりに少しずつ、ヒントを掴んでいくようになりました。

そう、パウロの伝道方法や歩みの姿勢は、私たちの良き模範とも言えます。

せっかくですので、順に見ていきましょう。

 

2:1 さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。

福音を伝えていくときの大きなポイントについて、ここで言われています。

「すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて・・・」の部分に語りかけを受けます。

世の中は、やれ、学歴だのエリートだの地位だの知識だのと、そのようなことに強調点が置かれています。

中卒よりも高卒、高卒よりも大卒、大卒よりも大学院卒、あるいは、中小企業よりも大企業、低収入よりも高収入と、そういった風潮があります。

はたまた、あらゆる知識に豊富であることが良いとされています。

学問をはじめ、政治や経済等世の中の情報に優れている人が重宝されているような世の中です。

ただ、そういったことは、世の中のことだけでなく、昨今キリスト教界においても、そのような風潮があるのではないでしょうか。

あの牧師は○○神学校を卒業しただの、一流大学を出身だの、博士号を持っているだの、やれ世の中においても出世していて素晴らしい等ということが、もてはやされているように思います。

でも、ここで、パウロがはっきりと言及しているように、あかしを宣べる際に、すぐれたことばやすぐれた知恵は不要だということを、私たちは知らなければいけません。

要するに、福音を解き明かすときに、この世的なもの、ことばも知恵も知識も、それがどんなにすばらしいものであったとしても、用いることが出来ないということを言われているのです。

過去、このような証を聞いたことがありました。

その方の息子さんが大学に入学したことについての証でした。

息子さんは、ずっとある楽器を習っていて、今春、一流の音楽大学に入学することが出来たとの証でした。

一見聞くと、何ら問題の無い、恵みの証のようにも思えます。

でも、そのことを通して、益々主に従っていく思いが強められたとか、主から御教えを受けたとか、そういった話は全くありませんでした。

入学できて、本当に良かったと、挙句の果てには、牧師先生のおかげだと、言っていました。

聖書の御言葉とは、あるいは、イエス・キリストや神様の御業とは、ほとんど関係の無い証でした。

このような証を礼拝のときに講壇で語られたのですが、果たして、聞いている人が恵みを受けたかというと、それは、私個人としては???と、思います。

当人は意識されているかどうかは分かりませんが、証と言っても、主御自身のことが全面的に語られていない場合に、残念ながら、聞いている人々に益を与えたり、あるいは、霊的なたて上げをしていくことは出来ません。

ですから、私たちは、証をしていくときに、どこに強調点を置くべきなのかを、くれぐれも気をつけていかなければいけません。

強調点に関しては・・・今、申し上げたように、どこまでも、「イエス・キリスト」です。

そのことが、2節の御言葉に続きます。

 

2:2 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。

このことは、とても大切なことです。

パウロは、もともとは、パリサイ派の人でした。

 

参照 使徒の働き26:5

彼らは以前から私を知っていますので、証言するつもりならできることですが、私は、私たちの宗教の最も厳格な派に従って、パリサイ人として生活してまいりました。

 

聖書を読む限り、パリサイ人は律法に熱心な人々です。

ゆえに、ありとあらゆる知識に精通していたことが想像できます。

ただ、その知識がイエス・キリスト(聖書)に基づくものであったかというと、そうではありませんでした。

もし、そうだとしたら、この章(Ⅰコリント人への手紙2)8節にも書かれているように、栄光の主を十字架につけなかったはずだからです。

話は、少しそれましたが、かつてパリサイ人として生活していたパウロは、この世の学問や知識や知恵に豊富だったのだと思います。

しかし、天からの光(啓示)を受けて、回心してから、そのようなものには全く価値が無いことを彼は悟ったのでしょう。

だからこそ、わざわざ、「イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは・・・」と、公言したのではないでしょうか。

他の箇所ではこのように言われています。

 

参照 ピリピ人への手紙3:5-9

3:5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、

3:6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。

3:7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました

3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得

3:9 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。

 

かつては、信仰を持ちながらも、キリストとは関係の無いこの世的ものに捕らわれていたけれども、真の意味合いでキリストを理解してから、それらのものには全く興味が無くなった、そればかりか、捨て去ったほうが良い、そうすることによって、キリストを知り、キリストを得る、すなわち、永遠の命の道に入っていくと、そのようなことを言われているのではないかと思います。

どうでしょうか?

パウロが言っていることは、はために聞くと、両極端のようにも思えますが、これほどまでに徹さないと天の御国には入れない、分かりやすく言うなら、イエス・キリストをひたすら知ることだけが、永遠の命をゲットすべき条件に尽きるという風に、私には読み取れます。

今の世の終わりを生きる私たちクリスチャンはどうでしょうか。

今、私たちは、どのような信仰生活を送るべきでしょうか。

イエス・キリストを正しく知っているのなら、艱難時代の備えをするのではないでしょうか。

福音書の中でも、主がかねてから言われているように、世の終わりは、かつてもないような今後もないようなひどい苦難があると言われています。

クリスチャンと称しながらも、ろくに聖書も読まず、祈りにも時間を割かずに、テレビや世の流行等に夢中になり、あまりこの世の人と変わらない生活をしているのなら、今の時代を悟れず、聖書が語っている終末のことについて正しい理解に至ることはありません。

パウロのように、イエス・キリストを知ることのみに熱心になっていくときに、時代を見分け、これからキリスト教界がどういった方向に進むのかを理解し、どのように歩みどんな風に働きを担っていくべきか、自ずと答えが出てきます。

もし、本当に、そういった歩みに徹していくのであれば・・・です。

かつての私もそうでしたので、何も偉そうなことを言える立場ではありませんし、こんな風に申し上げたら怒る方もおられるかも知れませんが、今のクリスチャンは、神様の目から見て、正直、脳天気です。

これは、決して良い意味合いではありません。
聖書が近未来をどのように預言しているかを、正しく知るべきです。

艱難時代のための備えをしたり、獣の国がどこの国であるのか、聖霊の第三の波のことやエキメニュカルのことについて正しい知識や理解を聖書から得るべきです。

アメリカの動向、たとえば、今年の大統領選挙やFEMAの強制収容所の建設や棺おけの製造等から、艱難時代は、そう、遠くはありませんし、ありとあらゆるキリスト教の教理がおかしなくなっていて反キリストの獣のしるしを受けて裁かれるのか?あるいは、そこから例外的に免れるのか?今は、まさに、そのような時代です。

これは、大げさでも何でもなく、聖書に書かれているように、すべては成就していくからです。

艱難時代は自分とは関係ない、携挙があるから大丈夫とか、獣の国はヨーロッパだのと、ヨタ教理に騙されている場合ではないのです。

キリスト教界や周囲のクリスチャンがこう言っているとかではなく、あるいは、この世的な事柄から離れて、イエス様が私たちにどう語っているのか、見たり聞いたりしていくことは、非常に大事なことですし、それによって、死後、裁かれるかどうかの区分がなされてしまうのです。

色々と、くどくどと書き連ねてしまいましたが、ぜひ、このことを機に、キリストである御言葉のみに徹していきたいと思います。

御言葉のみに焦点を当てていくときに、ズラされることなく、また、たとえ一時的にズレてしまったとしても、聖霊さまが助けてくださり、正しい方向に導いてくださいます。

また、そのことを通して、周囲の人々にも正しいことを宣べ伝えていけるようにもなり、霊的に人を助けたり正しくたてあげていくような働きを担っていくようにもなります。

こういったポイントについても、ぜひ、御理解いただきたいと思います。

 

弟子の歩みをする前は、今、思い返してみても、何かにつけて中途半端でした。

メッセージにも書きましたように、当然のことながら、時代を正しく悟れず、しかも、艱難時代は自分とは無縁だと思いこんでいました。

でも、弟子の歩みをするようになり、祈りと御言葉に徹して歩んでいこう!と、主の前に表明してから、真理を少しずつ見るようになりました。

世の中で生きているので、多少なりとも、情報は入ってきますし、世のもの、たとえば、交通機関や日常的なものも用いますが、最低限という風に変えるようにしていくうちに、霊的に強められ、時代を見分けたり、これから起きてくることも、次第に理解するようになりました。

とは、言うものの、敵は、いつも世に引っ張りこもうと、躍起になっていますので、本日のメッセージを通して、油断せずに祈ったり、聖書を読み込んでいくことは大切だなぁという風に改めて教えられたように思います。

今日も大切なことを語ってくださった主に栄光を帰し感謝を捧げます。