聖書箇所 Ⅰコリント人への手紙9:24,25
9:24 競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
9:25 また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
「朽ちない冠を受ける」というテーマで、御言葉に沿って、みていきたいと思います。
この箇所は割と御存知の方が多いのではないかと思います。
私は、以前はあまり聖書を熱心に読んでいなかったのですが、あるとき、以前、通っていた教会の献身者がこの箇所からメッセージをされていたので多少なりとも印象的に残っていました。
それから随分年数が経ちましたが・・・最近、改めて、この箇所を自分自身で読んでみました。
すると・・・結構大事なことが書かれている!!と、思い、ぜひ、皆様と一緒に学ばせていただけたらと・・・この箇所から話をさせていただくことになりました。
「競技場で走る人たち」とは、クリスチャンのことです。
改めて説明するまでもありませんが・・・念のために申し上げると、これは、オリンピック選手のように、クリスチャンがマラソンやトラック競技のレースに参加するという意味合いではありません。
クリスチャンの信仰の歩みについてのことを指します。
そう、クリスチャンの信仰生活は、ある意味、天の御国を目指すべくレースの中にいるようなものです。
クリスチャンになった時点で、誰もが、信仰生活を送っていくようになります。
つまり、マラソンランナーでいうなら、スタートラインに立ったということです。
スタートラインに立って、その後、選手は走り出します。
クリスチャンも同じく、信仰の歩みが始まります。
その時点では、ほぼ、大差はありません。
ところが、あるランナーは、ケガのため途中でリタイアしたり、あるいは、ほとんど無いケースかもしれませんが、間違えて別のコースを走ったため、最悪、失格となってしまう人もいます。
スタートの時点では、皆が皆、一位、あるいは完走を目指して走るのですが、必ずしも全員が完走できるとは限らないのです。
クリスチャンの信仰も同じことが言えるのではないでしょうか。
世界には、20億人以上のクリスチャンがいます。
でも、実際に、生涯、きちんと御心に叶う歩み、すなわち御言葉にひたすら服従して、きちんと御国に入れるクリスチャンはどれだけいるでしょうか。
昨今、キリスト教界においては、天の御国に入るのは楽勝!という風潮がありますので、このようなことは受け入れがたいことかもしれませんが、ここにはっきりと、「賞を受けられるのは、ただひとり」と書かれています。
さきほども申し上げましたように、洗礼を受けて、信仰生活をスタートさせた時点では、大きな差はありません。
ところが、それから先のことに関しては、はたまた、死後の行き先に至るまで、それぞれの個々の人における歩みによって、結果は大きく変わってしまいます。
何を申し上げたいのかと言うと、ある人は、神様の言われたことにきちんと耳を傾けて御心を行います。
しかし、一方、同じように礼拝のメッセージや御言葉を聞いても、「ああ、いい話だった、いい御言葉だ」と、それだけで終わってしまう人もいます。
皆様も御存知のように、マラソンランナーは、一番早く、ゴールした人だけに金メダルが渡されます。
ですので、それ以外の人は、金メダルはもらえません。
クリスチャンの場合は?と、言うと、神様の言われたことに、どこまでも従順な人に、「朽ちない冠」が与えられます。
でも、そうでない人には、冠は与えられないのです。
そして、先に申し上げたように「賞を受けられるのは、ただひとり」と言われているように、ごく限られた人だけに冠(いのちの冠)が与えられるのです。
誰にでも、与えるとは、言われていないのです。
もっと言うなら、神様から、「良し!」と認められた人にのみ、与えられるものなのです。
信じ難いことかもしれませんが、この箇所は、そんな風に読めるのではないでしょうか?
多くのクリスチャンは、「神様は愛の方だから、クリスチャンとして新生した人を皆、天の御国に歓迎してくださるはずだ」と、おっしゃるかもしれません。
でも、よくよく聖書を読んで、御言葉を熱心に調べてみると、そんなこと、どこにも書いていないのです。
また、「賞を得られるように走りなさい」の箇所を英語では、「努力して獲得しなさい」と書かれています。
今のキリスト教界では、「ありのままのあなたでいい」「そのままの君を大切に」なんてことが言われていて、信仰に「努力」ということは、ほぼ、使われなくなっています。
しかし、ここで、永遠のいのちを獲得するには「努力」が必要であることが理解できます。
裏返して言うなら、永遠のいのちのための努力や苦労が無いのなら、永遠のいのちは得られないということを言われているのではないでしょぅか。
このようなことを言うのは、両極端でしょうか?
それに続くように、25節では、「自制」することについて言われています。
「あらゆることについて自制します」とあり、英語で見てみると“all things”と書かれています。
朽ちない冠、すなわち永遠のいのちを得るために、すべてのことに自制が必要だと言っているのです。
自制するには、当然、忍耐を要します。
このご時世、「忍耐」とか「我慢」ということは、あまり言われなくなりました。
でも、聖書では、はっきりと、「約束のものを受けるために必要なのは忍耐」だと書かれています。
終末、クリスチャンと言われている人の中で、忍耐を持って行動している人はめっきり少なくなったように思います。
御言葉よりも、自分の思いや考えを優先している人があまりにも多すぎるように思うのは、私だけでしょうか?
私も人様のことをとやかく言える立場ではありませんが、自分の思っていることを何でもかんでも口に出す人がいます。
たとえば、平気で人のことを批難したり、中傷したり、悪口を言ったりする人です。
でも、御言葉には、「生と死は舌によって支配される」とありますように、人は、その口の実によって蒔いたものをそのまま刈り取ってしまうのです。
自分の考えに沿ぐわない、違う・・・なんてことは、日常において、多々あるかもしれませんが、そういった思いに関しても、忍耐を働かせることは大事なことですし、実践していくことに御心があると思います。
そう、朽ちない栄冠のためには、「忍耐」が必須であるこということも正しく御理解いただきたいと思います。
それも、すべてのことに関してです。
そして、ここでも、英語訳では、やはり、「努力」という言葉が使われています。
「節制」することについても、努力が必要なのです。
もちろん、そのように心がけていくことも大切かも知れませんが、こういったことに関しても、神様の前に謙遜になって、祈り求めていくようにしていきたいと思います。
マラソンで、今回、金メダルを逃しても、次回頑張れば・・・と、再びチャンスが巡ってくるかもしれませんが、こと、永遠のいのちを得ることだけに関しては、二度とチャンスがありませんので、きちんと獲得できるように、何はさておき、そのことにおいては、日々、あるいは瞬時においても熱心になっていきたいと思います。
今、盛んに言われている「煉獄があるから、そこで頑張って修行を積めば、何とか天国へ行ける」とか、「セカンドチャンス」という言葉もありますが、聖書には「一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように」と、たった一度きりしかチャンスが無いということについて、はっきりと書かれていますので、そのようなインチキな教えやガセネタを掴まされたりすることのないように、くれぐれも気をつけていきたいと思います。
「賞を得るのはひとりだけ」と、書かれているように、天の御国に招かれるのはごく少数の人ではありますが、ぜひ、その一人になれるように、神様の前に忠実に歩み、なすべき働きに、ひたすら励んでいきたいと思います。
証
私も、以前は、このような概念は全くありませんでした。
キリストのために、苦労や苦難に会うなんてことは、全く視野に入れずに、信仰生活を送っていました。
でも、そうこうしているうちに、色々なことが御言葉とぶつかるようになっていきました。
御言葉と、キリスト教界で言われていることとの、矛盾を感じるようになりました。
たとえば、「艱難前携挙説」、たしかに、これって人間的には、どこまでも都合がいいんですよね。
でも、「あなたがたは苦難に会うように定められている」とかイエス様ご自身が「かつてもなく、今後もないようなひどい苦難のときがある」とか、言われているように・・・当然のことなんですけど、聖書が言われていることが正しいということをあるときを契機に次第に理解するようになりました。
そのように、聖書に書かれていることのひとつひとつを、素直に認めるようになってから、矛盾は消えていきました。
でも、それと同時に、真理に従っていくときに、それなりの苦痛を覚えるようになりました。
まさに、本日学びをしましたように、「努力」「自制」「忍耐」、これらのものを働かせていかないと、とても、御言葉に従うことなんて出来ない!と、いうことを多少なりとも悟らせていただき、主の前に謙遜になって、そういったことができるように祈り求めていくようになりました。
また、要所要所において、色々な選択があり、しかし、それでも、あえて、御言葉に従っていくことを自らの意志で選んでいくときに主からの不思議な助けや守りや知恵や力、はたまた、恵みまで、受けるようになりました。
時に、いえいえ、たびたび、失敗を繰り返してしまいますけど、そんな中にあっても、主の助けと憐れみによって、これからも、ひたすら、朽ちない冠を得られるように、走っていかれたらなぁと思います。
本日も、主が大切なことを教えてくださり、感謝でした、主に栄光を帰します。
レムナントキリスト教会
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