聖書箇所 Ⅰコリント人への手紙15:36

 

15:36 愚かな人だ。あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません。

 

「神の前に自分自身を捧げる」というテーマで、御言葉に沿って、みていきたいと思います。

 

神様を知らない世の中の人は、自分自身のために生きています。

過去、私自身も、クリスチャンになったばかりの頃、そのような生き方は虚しいと思ったことがありました。

クリスチャンになったのだから、これからは、神様のために生きるのだと・・・

そして、クリスチャンになったら、簡単に、そうなれるくらいに思っていました。

ところが、実際にクリスチャンとして歩んでいく中で、「自我」というものに、なかなか死ぬことのできない自分を見るようになっていきました。

今でも、そういうことが完全に抜け切れているか?と、聞かれたら、すかさず、「ノー!」と、大手を振って言えてしまいます。

でも、本日の箇所では、私たちが、自分の思いや考えをはじめ、あらゆることに死ななければ、生かされないということについて、言われています。

 

さて、聖書では、「生きる」という言葉が、ところどころ、出てきますが、これは、この世において生きているということもそうですが、死後のことについても言われています。

いえ、どちらかと言えば、死後のことに比重が置かれているように思います。

なぜかと言うと、聖書を何度か通読すると分かるのですが、聖書という書物は、終末や死後のことに焦点が当てられて書かれているからです。

要するに、この箇所で語られているのは、死後、生きるのなら・・・このことは、「よみがえり」や「復活」のことを言われているのですが、そうなるためには、私たちが死ななければ、いけないのです。

具体的に、どのようなことを言っているのか?と言うと、本日のテーマとして掲げましたように、自分自身を主に捧げていく人、投げ出していく人、要は、自分自身を打ち捨てて主に従っていく人に、死後、復活のからだが与えられるのです。

世の楽しみや地位や名誉をはじめ、自分の思いや考え、そのようなものに一切固執せずに、ひたすら、主の言われている歩みや働きをしていく人が、キリストのように、死後、よみがえるのです。

 

もちろん、こういう生き方に関しては、個々における人の選択ですので、強制するものではありませんが、御言葉が、そのように語っているので、話をさせていただいています。

実際に、この世においてもそうですし、今の時代、キリスト教会やクリスチャンの間でも、このような生き方は、受け入れがたいものだと思います。

なぜかと言うと、今は、キリストの言葉が投げ捨てられている時代だからです。

たとえば、クリスチャンは艱難を通らないという教えが広がっています。

たしかにこのことは、耳にも良いものですし、クリスチャンにとって、非常に都合の良いものです。

でも、そのようなことは、聖書には、まったく書かれていないことです。

また、その裏側には、クリスチャンのエゴがあるのではないかと思います。

かつての、私も、そのひとりでしたので、何も偉そうなことは言えないのですが、要するに、キリストのために艱難など会いたくない、何も苦労なんかしないで、天国へ行きたいと、そんなことが秘められているように思います。

人間的には、とても、素晴らしい教えですが、でも、聖書に書かれていないのなら、そういったものから離れていかなければいけません。

以前、礼拝のメッセージの中で聞いたことですが、「何がなんでも、艱難に会いたくない」と、言っていた人が、エレミヤ牧師の知り合いの方におられたそうです。

もちろん、実際に艱難に会いたいなんて人はいないとは思いますが・・・でも、やはり、聖書に書かれていることを尊重していく人に恵みや祝福があります。

 

自分の願望や思いを持つことをすべて否定するわけではありませんが、では、あっても、もし、御言葉とぶつかるのなら、やはり、御言葉を優先していきたいと思います。

私たちが自分の思いや考えよりも、御言葉を尊重するなら、自分自身に死ぬことになり、主に捧げていくことになります。

また、神様の働きをしていくときに、このことは大切なポイントとなっていきます。

自我があまりにも強いと、神様の働きは担えないからです。

でも、「神様、どうぞ、私を自由に用いてください。主の言われるとおりにしていくことができますように。」と、そんな風に祈りを捧げていくのなら、主のベストな方法によって用いられていくようになり、主の働きを担っていくようになります。

本日の箇所で、「蒔くもの」とも、書かれていますが、私たちは、ありとあらゆる機会において、御霊or肉のどちらかに蒔くことになりますが、ぜひ、主に身を捧げて、御霊の実を蒔き続けていきたいと思います。

聖書に、「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」とありますので、ぜひ、御霊によって蒔いて、永遠のいのちを得ていきたいと思います。

 

信仰生活を送っている中で、「あなたは自分の考えを優先するのか?それとも、私のしもべとして仕えていくのを優先するのか?」という選択を神様のほうから、時折、迫られることがあります。

比較的大きなところ、たとえば、さっき話をした艱難前携挙説をはじめとするおかしな教理から離れていくことに関しては、それほどの苦労はないのですが、些細なこと、はたまた、微妙な部分において、御言葉に従っていくことの難しさというものを、感じることが多々、あります。

本当に、ちょっとしたことなのですが・・・でも、そのことによって、もし、死後、復活のからだによみがえることができなかったら・・・と思うと、とても恐ろしいことなので、主の前に恐れをもって、御言葉に従えるように、祈り求めています。

これからも、あらゆる機会に、神様の試しがあると思いますし、まして、艱難時代には、もっと、大きな試しが来ると思いますので、今から、ひとつひとつのことにきちんと向き合って、備えていきたいと思います。

本日も大切なことを語ってくださった神様に栄光と誉れがありますように。