聖書箇所 Ⅰテサロニケ人への手紙2:4
2:4 私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。
「神さまに向けて福音を語る」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。
ごく当たり前のことなのですが、私たちが福音を語るときに気をつけなければいけないことがあります。本節ではそのことについて書かれています。福音を語るという働きはとても尊いことなのですが、どこまでも神さまを中心としたこと、すなわち御言葉を主体としていくことにポイントがあります。なぜ、わざわざそのように申し上げるのかと言うと、特にメッセージや証において、そういったポイントからズレてしまうということが往々にして起こりやすいからです。何を申し上げたいのかと言いますと、語られているメッセージや証が必ずしも「神さまに向けられている」ものとは限らないということです。要は、単なる自分の義を立てているものだったりとか、肉の自慢話に終わってしまったりとか、あるいは御言葉とは見当違いなことばかりが語られているということが案外多かったりするから、このようなことが書かれているのではないかと思います。
クリスチャンは、それぞれ個人差はあっても、多少なりとも「伝道」のことを視野に入れながら歩んでおられるかと思います。その方法は様々だと思いますし、そんなに頻繁ではないにしても、主から与えられる何らかの機会や導きを通して私たちは福音を語る時があるかと思います。まさに今、このように私自身はパソコンを通して神さまからの語りかけや教えていただいたことや成してくださった御わざに関してほんのわずかながらも福音を伝えています。
そして「神に認められて福音をゆだねられた者」と書かれているように、ゆだねられた以上、福音を語る人には「責任」というものがあります。口頭においても、書いたものでも、いずれにしても、聞く人や読む人を永遠の命へと導くように語っていく責任や義務を、私たちクリスチャンは負っているということを言われているのではないかと思います。ですから本日の御言葉にもありますように「神を喜ばせるように」語っていくことに大いにポイントがあります。それこそ「私たちの心をお調べになる神」とありますように、たとえ人前では調子が良いこと、たとえば「クリスチャンは皆天国ですよ。何をしていても楽勝に入れます」なんて言ったとして・・・たしかにこのようなことを聞いて悪く思う人はいないでしょうし、反対に誉められたり感謝されたりするかもしれませんが、言うまでもなく、このように聖書の御言葉に書かれていないことをしゃべるのは、神さまの前にはNGです。また、「一流大学に合格した」とか「マイホームを購入した」とか、そういうことばかりを語るのもどうかなぁと思います。もちろんそのことがすべて悪いと言っているわけではありませんが、それのみを強調するような証とかも神さまに喜んでいただくのは難しいのでは?と思います。と、言うのは、こういうことは人間的には良いことかも知れませんが、霊的な意味合いで人を立てあげたり益をもたらしたりすることは無いからです。もし、それのみしか語らないと言うのなら、言葉は良くないかも知れませんが、単なる自己アピールをしているのに過ぎないのでは?それってこの世の人となんら変わりがないのでは?と、私個人はそのように思いますし、神さまもそのようにしか見なしてくださらないのでは?と思います。
ですから、「福音」を語るというときは、よくよく気をつけなければいけないのです。本人はきちんと語っているつもりであっても、「御言葉」からズレてしまったことを語るときに、人を恵みから落としてしまうなんていうこともあるからです。そうすると、どういうことになってしまうのかと言うと、いくら本人は良いことをしていると思っていても、結果としては「神さまからの怒り」を買ってしまうことになるのです。たとえばいつもよく例を挙げていますように、耳にはいくら良くても「艱難の前にクリスチャンは携挙されるから大丈夫」ということを語ったらどうなるでしょうか?かつての私もそうでしたが、それによって艱難の前に備えなくなくても良いということにならないでしょうか?あるいは、「そのままの君でいいんだよ。何も変わる必要は無いからね」なんて聞けば、悪いことをしても悔い改める必要は無いと思うのではないでしょうか?また、「地獄なんて無いんだよ、それはあなたの心の中にあるものだよ、しかも神さまは愛のお方だから、もしあったとしても人を地獄に行かせることなんかしない」と言われれば、神さまを恐れなくても大丈夫、誰も地獄に行く人なんていないのだから・・・ということにならないでしょうか?こういうことはたしかに人受けは良いかもしれません、場合によっては賞賛されるかもしれません、でも聖書に書かれていないようなことを語っていくときに、神さまからの御怒りを買うことになり、そのことを最後まで悔い改めないなら、死後、入れると思っていた「天の御国」でないところ、つまり「火の池」の裁きを受ける可能性がありますのでくれぐれも気をつけていかなければいけません。「こんなはずでは?」と、その時になってからでは、「時、すでに遅し」ですので、恐れをもって語っていかなければいけません。
今のキリスト教会では、このようなことはあまり言われていないかも知れませんが、もし、私たちが神さまに向けて福音を語っていくなら、多少なりとも犠牲を払う必要があることは肝に銘じていてください。さっきから申し上げているように、「神さまの愛」だけを中心に語っていくのなら、あるいは福音とはあまり関係の無いような暮らしの向き等、すなわちこの世的なことを主体に語っていくのならほとんど関係の無いことですが、御言葉に基づいて真理だけを語っていくときに、多少なりとも人々から嫌がられたりします。いいえ、反対にほとんどの人たちからは受け入れてもらえないということを承知の上で語っていく覚悟が必要なのです。そういうことに関して私自身の証が参考になるかどうかは分かりませんが、ここ2年半ほどニュースレターを配布していたのですが、つい最近何人かの方から拒否されてしまいました。当人たちと直接話したわけではないのですが、「自分たちの考えに間違いが無い、だから読む必要は無い」ということでした。ニュースレターにはエレミヤ牧師を通して神さまからの数々の貴重な警告が語られているのですが、それには「同調できない」ということでした。そのことを聞いて多少なりとも残念には思いましたが、「真理」というのは、それだけ受け入れられづらいものなのだなぁということを感じた一つの出来事でした。ニュースレターは若干の未信者の人たちにも読んでもらっているのですが、今回拒否をしたのは、いずれもクリスチャンでした。でも、御言葉に基づいて語って、それでもなおかつ拒否されるのなら、ある意味、私の心の中ではスッキリとするものがありました。それこそ聖書に書かれていないようなメッセージを毎回送って、それで非難をされるのなら神さまの前に不名誉なことですが、正しいことを語って、それでもなおかつ拒否されるのなら、本望だと思いました。いいえ、それどころか、かつての弟子たちが正しいことを語って人々から迫害を受けて喜んだ時のように、私にもそんな感覚が少しばかりありました。
そうなんです、神さまに向けて語っていくというときに、「しもべとしての恥」というのもセットでついてくるという点については正しくとらえておきたいと思います。そうでないと、「なぜ、こんなに素晴らしいことを語っているのに!」というジレンマを抱いてしまう可能性があるからです。でも、まったくそんな風に思う必要は全く無いのです。きちんと語って、それでも理解しない、反発してくる、それはそれで、逆にそんなことはほとんど意に介さずに伝えていくことにポイントがあるのです。さっきも申し上げたようにキリスト教会が背信のゆえに現実はほとんど受け入れてもらえないかも知れませんが、神さまの前にはそれで「OK」なのです。ですからメッセージや証を通して福音を語る時がありましたら、毎回毎回、神さまに向けられたものを語っていくように心がけていきたいと思います。たとえ人々には受け入れられなかったり馬鹿にされたりしたとしても、私たちの心の隅々までご覧になっている神さまはきちんと語っていく人を公正に評価してくださり、ちゃんと報いてくださいますので、そのことを信じて語っていきたいと思います。ぜひ、こういう点についても見ておいていただけたらと思います。
今日も大切なことを語ってくださった主に心から感謝いたします。
レムナントキリスト教会
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