聖書箇所 Ⅰヨハネの手紙3:23
3:23 神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。
「聖書に従って、隣人を愛する」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。
冒頭のみことばで言われているように、私たちクリスチャンは、「互いに愛し合うこと」が、とても大事なことだということについてはすでにご存知だと思います。それに関するみことばは聖書のあちこちに書かれていますよね。参照箇所をいくつか書いておきますので、よろしければお時間があるときにでも、ぜひ、聖書を開いて読んでみてください。
※参照箇所・・・マタイの福音書19:19, 22:39,マルコの福音書12:31,ルカの福音書10:27
まず、「愛」ということについて、少し話をしたいと思います。ちなみに多くの方がご存知かと思いますが、Ⅰコリント人への手紙13章には、「愛」について述べられています。そして4節には「愛は寛容」ということが書かれています。もしかすると前にもチラッと話したかも知れませんが、礼拝のメッセージの中で、「『愛は寛容』のところはKJV訳では、『被害に耐える』という意味合いがあります。そして場合によっては教会の人から被害を被ったとしても、それに耐える」ということをエレミヤ牧師がおっしゃっていました。「被害に耐える」なんて・・・この世で言われている「愛」とは、随分違うなぁと、思いませんか?でも、聖書で言われているのは、そういうことなんです。なので私たちが、もし、誰かから被害を受けたとしても、それをじっと我慢するなら、寛容をもって人に接しているという風に神さまから見なしていただけるのです。そしてこのことも、「互いに愛し合うこと」につながっていきますので、ぜひ、お祈りの中で実践していくように心がけていきたいと思います。
では、本題に入りたいと思います。繰り返しますが、私たちが「互いに愛し合うこと」は、とてもとても重要なことです。ズバリ言うなら、信仰の根幹に関わることで、つまりこのことをきちんと実践していくか否か?によって、後の世に御国を継ぐか?はたまた失敗するか?の分かれ道になってしまうのです。「互いに愛し合うこと」に関連するみことばがありますので、参考までにいくつか紹介させていただきます。
参照 ローマ人への手紙13:9
13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。
参照 ガラテヤ人への手紙5:14
5:14 律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。
参照 ヤコブの手紙2:8
2:8 もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行ないはりっぱです。
上記みことばは、パウロとヤコブが手紙の中で記したものです。また、イエスさまご自身も福音書の中で同じことを語っています。それこそふたり、または三人の証人によって言われていることですので、「互いに愛し合うこと」すなわち「隣人を愛する」ことがいかに大事なことかが分かりますよね。また、人やことばを変えて何度もこのように語り、はたまた「愛せよ!」と命令までしているということは、裏返せば私たちは、たとえクリスチャンであったとしても、隣人を愛することが難しい者たちであると、そんなことも言われているのではないかなぁと思います。たしかに聖書に書かれているのだから・・・しかもクリスチャンなら「隣人を愛する」ことは当然と言えばそうなのかも知れませんが、しかし、よほど意識して、隣人を愛することを祈り求めていかなければ人を愛することはできないのでは?ある意味、生まれつきの肉の力では不可能なのでは?と私個人の感覚としては思いますので、日々、このことを真摯に祈り求めていきたいと思います。そして本日のテーマに掲げましたように、また、ヤコブの手紙にありますように、「聖書に従って、隣人を愛する」ということについて話したいと思います。
今しがた、「隣人を愛しましょう!」ということについて語りましたし、たしかに人を愛するということは大事なことなのですが・・・しかし、ヤコブの手紙を読むなら、「聖書に従って」そのことを行っていくことにポイントがあるようです。細かい話なのですが、このところはKJV訳だと「聖書の律法によって」と書かれています。たしかに周りを見渡せば、クリスチャンだけでなく、この世の人も、人のことを愛しています。たとえば親御さんがご自分のお子さんに愛情を注ぐなんていうのも立派な愛だと思います。また、「友情」なんてことばもありますように、自分の親しい友人へ愛を示すこともあるでしょう。もちろんこういうこともすばらしいことですし、否定はしません。ただ、聖書で言われている「愛」に関しては、この世の人たちは知りませんし、持ってもいないことも事実です。つまり良し悪しは別として、この世の人たちは、この世のごくごく普通の方法で、人のことを愛するのです。しかし、私たちクリスチャンに関して、それで良いのか?と言うと、そうではありません。ハッキリ言ってしまうと、自分にとって都合の良い人だけを愛する、あるいは好き嫌いで判断して人を愛しているなら、この世の人とさほど大差がなくなってしまいます。このようなみことばがあります。「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。」(マタイの福音書5章46節)さらにその前の節には「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」ともあります。もし、私たちが「自分を愛してくれる者を愛する」だけで終わるなら、「取税人」と同等だという風に見なされてしまうのです。要は、この世の人と同レベルだということです。しかし、聖書でお勧めしているのは、「自分の敵を愛する」ことです。こんなことをこの世の人が聞けば、「とんでもない!冗談でしょ??」と、思うでしょうし、この世の人にとってこのことは、ある意味論外だと思います。でも、少し考えてみたいと思います。これはイエスさまが山上の垂訓で群衆と弟子に語られたことです。その中に異邦人、いわば未信者はいなかったわけです。と、言うことは、クリスチャンに対して語られたのです。そして今でもそうですが、基本的に聖書を読むのはこの世の未信者の人たちではなく、私たちクリスチャンですよね。ですから今の時代においても、目には見えないイエスさまが私たちクリスチャンに対してみことばを通して同じことを語っているのです。裏返すと、もし、私たちがこういったことをなんの躊躇もなくいつも実践できているとしたら・・・わざわざ語る必要なんてないですよね。でも、現実は、クリスチャンであっても、隣人を愛するのが難しかったり、はたまた敵を愛することがなかなかできないから、あるいはそういった境地になるのが難しいから、こういうことをあえて語っているのでは?と思います。そう、自分に良くしてくれる人や都合の良い人だけでなく、反対に敵となるような人、たとえばはじめに話をしたように、自分に被害を与えるような人のことをも愛しなさい、祈りなさいというのが、聖書で言われていることなのです。自分の思いや考えはさておき、しかし、もし、そのことを実践していくのなら、本日のみことば「互いに愛し合う」ということを全うできるのです。しかもローマ人やガラテヤ人やヤコブの手紙に書かれているように、「隣人を愛する」ことは、律法全体を守ることになるのです。主は最後の晩餐で弟子たちにこんな風におっしゃっていましたよね。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」と。ここでも重ねて「互いに愛し合いなさい」と主はおっしゃっています。しかも、互いの間に「愛」があることによって、「主の弟子」であることを、すべての人が認めるということまで言われているのです。反対に、いくら奉仕をしている、賛美をしている、はたまたメッセージや証や預言をしている、あるいは賜物を用いて働きを担っている、と言っても、「愛」がないなら、あるいは敵対関係があるのなら、残念ながら人の前にも、神の前にも、「弟子」とは見なされなくなってしまうのです。絶対にそうだ!とは、申しませんが、しかし、もし、神さまに「弟子」と認めなれない場合、天の御国は危ないのでは?と思いますので、くれぐれも気をつけていきたいと思います。
余談ではありますが、単に弟子としての訓練や働きや各種集会に参加をしている人が「弟子」なのではなく(もちろんこれらは尊いことではあります。それ自体、批判しているわけではありません)、やはり御心を行う人、そしてヤコブの手紙で言われているように、「聖書に従って、隣人を愛する」という最高の律法を守る人が、「イエスさまの弟子」なのでは?と、思います。先ほどの「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈る」ことは、ほんの一例ではありますが、その他にも、「隣人を愛する」ということに関連して、聖書は様々な角度から語っていますので、日々みことばを学んで、そのことに則して隣人を愛していくようにしていきたいと思います。「最高の律法」とまで言われているので、最後まできちんと行うなら、天の御国は、ほぼ確実なのでは?と思いますので、ぜひ、お祈りの中で実践していきたいと思います。逆に、理不尽なことをされたり言われたり、被害を被ったなどという理由で(仮にこちら側にはほぼ落ち度がなく、あるいは正当であったとしても)、いつまでも人を赦さなかったり、はたまた敵対心を持ち続けていくときに、御国は危ないものとなりますので気を付けていきたいと思います。
証
前にも話したかも知れませんが、もともと私の内側に「愛」なんてものはありません。メッセージの中でも書きましたように、生まれつきの肉の性質はこんなものです。でも、聖書には、「神が私たちを愛してくださったのですから、私たちも互いに愛し合うべきです」なんてことが書かれているのでそのことに心を留めて、日々、わずかながらも「互いに愛し合えるように」ということを祈り求めています。そして本日のテーマで「聖書に従って」ということに関して、私自身が主から示されたことがありますので、話をしたいと思います。
この世の人でもそうしていらっしゃるように、人に対して親切にする、困っている人を助ける、そういうこともとても大事だと思いますし、可能なかぎり、それが成せるようにと思ってはいますが・・・それはそれとして、イエスさまがおっしゃっていたことですが、「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です」ということをスタンスにしています。どのようなことか?と言うと、クリスチャンなら誰でもそうだと思いますが、それこそ死後、火の池には絶対に入りたくない!と思っているので、自分をはじめ、他の人々がそうならないようにととりなしをさせていただいたり、そのことに関連してわずかながらも働きをさせていただいています。私自身も、「あの人が地獄へ行かないように」とか「あの人のああいうところが良くないけど、神さまの憐れみによって悔い改めて黄泉から引き上げていただくことができますように」なんていう風にとりなしていただけると、とても嬉しく思いますし、助かりますので、他の人に対しても、わずかながらもそのようにさせていただいています。当然、祝福や恵みのこともお祈りしますけどね。たしかにこの世で祝福を受けることも大事かもしれませんが、ではあっても、一番大事なことは、やはり死後の行き先なので、常にそのことに焦点をあてて人のことを愛するように心がけています。それこそイエスさまの願いはみことばにも書かれているように、「すべての人が救われて真理を見る」ことなのですから、私もほんのわずかでも、主に倣うようにさせていただいています。傍から見れば、人が火の池に行かないように祈るなんて縁起でもないとか、真理を見て救われて悔い改められますようになんてことは余計なお世話とか傲慢だとか、そんな風に見られるかも知れませんし、はたまたそれが「愛」だなんて思えないかもしれませんが、私自身はこういうことも、聖書で言われている「隣人を愛する」ことの一面の真理なのでは?という風に理解しています。優しいことばをかけたり、親切に接していくこともすばらしい愛だとは思いますが、でも、その人のために親身になってとりなしをしたり、場合によっては一時的に傷つけることになっても死後、千載の悔いを残すことのないように、必要に応じて真理を語ったり接したりしていくことも大事なのでは?と思っていますので、主にあってこれからもこういったことを続けていけるといいなぁと思っています。いつも大切なことを語ってくださる神さまに栄光と誉れがありますように。
レムナントキリスト教会
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