聖書箇所 Ⅱコリント人への手紙1:18,19

 

1:18 しかし、神の真実にかけて言いますが、あなたがたに対する私たちのことばは、「しかり。」と言って、同時に「否。」と言うようなものではありません。

1:19 私たち、すなわち、私とシルワノとテモテとが、あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「しかり。」と同時に「否。」であるような方ではありません。この方には「しかり。」だけがあるのです。

 

「神様の前に信仰をはっきりと表明する」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

突然ですが、もし、この文章を読まれているあなたが、クリスチャンでしたら、「いまさら、なにをいうの?」と、おっしゃるかも知れません。

もう、すでに、クリスチャンになっているのだから、信仰を持っていることは、神さまの前にはっきりあらわしているでしょ!!と、言いたいかも知れません。

たしかに、おっしゃるとおりです。

ただ、本日、わたしがお話ししたいことは、そこから、さらに、一歩踏み出して・・・つまり、個々の人における主との正しい関係について、とても、えらそうな言い方で恐縮ではありますが、そんなことを語らせていただきたいと思うのです。

 

メッセージの前に・・・

この世において、ごく当たり前ですが、ご家族を紹介するときに、「私の弟です」とか「私の母です」とか、そんな風に言うと思います。

妹もいないのに、「この人は私の妹です」とか、兄がいるのに、「兄はいません」とか、そんなことを言う人は、ほぼ、いないと思います。

そのことと、同じように、私たちの霊の父、霊の夫である、キリストのことを、はっきりとそのように表明することは、とても大事なことです。

また、さらに一歩踏み込んで、それならば・・・その立場にふさわしい対応を取ることも大切です。

何を申し上げたいかと言いますと、とても失礼な言い方で申し訳ないのですが、あまりにも、建前で、「愛する天の父」とか、「天の父なる神様」と、そんな風に神様のことを呼ぶ人が多いので、このようなことを言っているのです。

一体、何が建前なのか?と、言うと、キリストに従っているようで、そうではないということです。

もっと、はっきり言うと、御言葉に従っている人は、あまりいないということです。

もし、私たちが、本当に、キリストの花嫁になるのでしたら、そのあたりのことは、正しくとらえないといけません。

 

話は本題とはズレてしまいましたが、信仰の歩みにおいて、「否は否」「しかりはしかり」としていくことは、とても大切です。

この世の中には、中間というものが多少なりとも存在します。

たとえば、アンケートで、分からない場合には、「どちらでもない」とか「△」のところにしるしをつけたりします。

「はい」か「いいえ」か、はっきりしなくても、特に誰からも、とがめられることはないですよね。

それから、分からないことやハッキリしないことについては、「保留」ということもゆるされます。

子供同士の会話で、「T子ちゃんのこと好き?」なんていうときに、「うーん、好きでも嫌いでも、どっちでもない」なんてことは、よくあることです。

しかし、聖書の中では、そのような、「中間」ということに相当することが見当たりません。

私自身、今まで、数十回、旧約と新約の通読を繰り返していますが、皆無と言っても、過言ではないように思います。

以前から、何度か話をしていますように、イエス・キリストを信じるか信じないか?救い主として受け入れるか受け入れないか?クリスチャンとして歩むのかそうでないのか?と、いうことからはじまって、信仰に関して、さまざまな選択があります。

そして、必ず、どちらかを選ばなければいけない、あるいは、選ばないと先に進まないという経験をされていたのではないでしょうか?あるいは、今も、されているのではないでしょうか?

 

そうなんです、わたしたちは、信仰の途上の中で、常に、選択があり、そして、はっきりしなければいけないのです。

実は、最近、この箇所を礼拝の中で学んだときに、神様の前に、否は否、しかりはしかりと、はっきりとしないことは聖書で忌み嫌われるということについて教えていただきました。

確かに、そうだなぁと、私自身もそのように思いました。

 

そのことに関連した、ちょっとした証がありますので、紹介させていただきます。

たとえば、私の身近にこのようなクリスチャンがいます。

その人は、性格的には、白黒、かなりハッキリしたお方です。

あるとき、その方が、こんな風におっしゃっていました。

「教会に行って、メッセージを聞いても恵まれない」と。

私も、以前、その教会に所属していたので、どんなメッセージが語られているのかについては、何となく、想像はつきました。

また、セミナーにも来られた方で、艱難前携挙説のような聖書に書かれていない教えは信じていないし、ヤベツの祈りも受け入れていないとのことでした。

しかし、その教会では、艱難前携挙説やヤベツの祈り(同じことを繰り返す祈りなので、魔術の行為になります)を奨励していましたし、今でも、たぶん、そうだと思います。

そのまま間違えた教理を受け入れ続けることは、教会とともに滅ぼされてしまうことを説明して、その方に、「そういう教会からは、出たほうがいい」と言い、仮庵の祭りを行う(地下教会を作る) ことを御言葉に基づいて、おすすめしました。

ところが、「その教会を出るつもりは無い。いったいどこの教会に行くの?しかも、そこまでの信仰が無いから、地下教会を作るなんてことも無理。メッセージを聞くだけ聞いて受け入れなければいいんじゃないの?」と、おっしゃいました。

そのことに対して、このように言いました。

「私も、はじめは、そう思ったの。でも、聖書には、そういう教会とは、分離しなさいってハッキリと書いているの。そうでないと、いずれ、艱難時代のときに、反キリストを拝むことになってしまうの。反キリストを拝んだら、間違いなく、裁かれてしまうでしょ?そうすると、天の御国には、入れなくなってしまうと思う。そのことを理解したから、わざわざそこの教会を出て、今のところに行っているの」と。

また、礼拝のメッセージでこの箇所を学んで間もないときでしたので、教えていただいたことについて、御言葉に基づいて、「否は否」「しかりはしかり」と、きちんと神様の前に表明しないと、たとえ、間違えた教理に耳を貸さなくても、神(御言葉)に従っているとは見なされないということについても話をさせていただきました。

 

その方がおっしゃるように、既存の教会に属しながらも、教理だけは正しいものを受け入れていく、耳ではおかしな教理を受けながらも、心ではそれを否定していればいいと、人間的に考えると、そんなに悪いことのないように思えます。

でも、どうでしょうか?

それは、まさに、「否は、否」「しかりはしかり」という御言葉に、相反してしまうのではないでしょうか。

しかも、「荒らす憎むべき者が聖なる場所に立っているのを見たら、ユダヤにいる人は山に逃げなさい」とも、聖書には書かれています。

荒らす憎むべき者とは、反キリストのことを指しますが、反キリストが直接立たなくても、もう、すでに、アメリカ由来の反キリスト的、いわば、御言葉と反対の教えが既存の教会を席巻しつつあります。

ですから、もし、そのようなことを目の当たりにしたら、そこの教会を出て、仮庵の祭り(地下教会の集会)をしなければいけないのです。

また、イエス様は、このようにおっしゃっていなかったでしょうか。

「わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」と。

「否は否」「しかりはしかり」を表明しないということは、ある意味、人の前で、主を拒むことにも通じるのではないでしょうか?そのような私の考えは行き過ぎでしょうか?

 

そういうわけで、私たちは、神様の前に、ハッキリと信仰を示さなければいけないのです。

そうでないと、後の世において、神様から「知らない」と言われ、永遠の御顔から退けられてしまうからです。

このようなことは、今の時代、あまり言われないかも知れませんが、こういった点についても、私たちは恐れをもってしたがっていくようにしていきたいと思います。

私自身も、人様のことは色々と目についたり、言えたりしたとしても、わが身を振り返ってみると、もしも、いざ、決断に迫られたときに、正直、自信がありませんが、主に憐れみを求めて、実践していくようにできたらなぁと思います。

特に、艱難時代に入ると、度々、大切な選択に迫られると思いますので・・・ここでは、詳しく話しませんが、誓うことに関しては、細心の注意が必要だと思いますので、御心ではない別のほうを選択して、最悪、永遠の刑罰に入ることのないように、今から、そういった点においてもきちんと祈り求めて、正しく対応していきたいと思います。

 

本日も大切なことを教えてくださった主に栄光がありますように、主に感謝して。