聖書箇所 Ⅱコリント人への手紙3:5

 

3:5 何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。

 

「神から任命される」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

当然のことですが、この世の仕事は、人が任命します。

たとえば、いま、職場を探しているとしましたら、自分が就きたい職種の会社の面接に行きます。

採用されたら、そこで働くことができます。

ただ、面接を受けたからといって、すべての人が採用されるわけではなく、採用側の条件を満たす人だけが選ばれます。

 

このことは、世の中のことですが、さて、教会の神の働きについて、自分をはじめ、案外、勘違いしている人が多いと思いますので、ご一緒に学んでいきたいと思います。

どこの職場で働くか?たしかに、このことも大切なことかもしれませんが、神の働きは、クリスチャンにとって、とても大切なことです。

わたしたちクリスチャンが、神の働きや奉仕について、見落としてはいけないことが、本日の御言葉から学ぶことができます。

 

「私たちの資格」という言葉ですが、少し、分かりづらいですよね。

6節以降には、「務め」という言葉が使われていますが、要するに、神の働きのことを言われているのです。

そして、「私たちの資格は神からのものです」と書かれているように、神の働きは、人からではなく、神ご自身が任命されるということを知っていただきたいのです。

はじめに話しましたように、世の中の仕事は、人が決めるのですが、神の仕事、いわば、神の働き、務めは、神様が決めるのです。

そして、もし、神様からの任命を受けたなら、分かりやすく言うと、神様から声をかけていただいたなら、応答していくことが大事なのです。

 

さて、「神が任命される」というふうに申し上げましたが、果たして神様は、すべてのクリスチャンに声をかけられるのかというと、そうではないのです。

さっきの職場の話ではありませんが、神様も、ご自身の条件に見合った人を選ばれます。

「そんな、理不尽な!」とか「不平等じゃないか!!」と、思うかもしれません。

以前のわたしも、多少なりとも、そんな風に思っていました。

でも、神様の方法は、そうではないということを知っていただきたいのです。

例を挙げるなら、シモン(後のペテロ)とその弟アンデレが、その代表といえるのではないでしょうか。

みなさまもご存知のように、彼らは、ガリラヤ湖のほとりで漁師をしていました。

イエス様は、彼らが湖で網を打っているのをご覧になられて、「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」と、声をかけられました。

そして、彼らは、網を捨てて、すぐにイエスについていきました。

これは、わたしの想像ですが、ガリラヤ湖のほとりでペテロやアンデレのように、漁師をしている人たちは、他にもいたと思います。

「彼らをご覧になられて」といわれているように、おそらく、イエス様は、ペテロやアンデレをはじめ、そこにいたお一人一人を同じようにご覧になられたのだと思います。

しかし、イエス様の目に留まったのは、この二人の兄弟だったのです。

このことに語りかけを感じないでしょうか。

ペテロやアンデレのときと同じように、主は、今でも、クリスチャンお一人一人の歩みをご覧になられておられます。

だれが、どんな風に、歩んでいるのか?そのことをいつも観察されているのです。

なぜ、そんなことをする必要があるのかと言うと、このときのペテロやアンデレのように、今の時代も、主に従って歩んでいく人を探しておられるからです。

そして、「この人!」と、思う人に、神はご自身の方法で、声をかけられるのです。

 

では、どんな人がイエス様に声をかけられるのか?について、わたし自身の証をまじえながら、お話ししたいと思います。

 

何度か、話していますように、わたしは神様と信仰から数年間、離れていたことがありました。

しかし、主の奇跡的な介入や不思議な力によって、わたしは、ふたたび、神様と信仰に立ち返ることができました。

そのときに、「せっかく神様がわたしを憐れんでくださって、立ち返らせてくださったのだから、きちんと歩んでいこう!」と、心に堅く決意しました。

具体的には、何をどうしたらいいのかは分からなかったのですが、もう、神様を悲しませるようなことはしたくない、中途半端な歩みはしたくない、イエス様を二度と失いたくないと、心の中は、そんな思いで、いっぱいでした。

はじめの一年くらいは、これといった変化は特にありませんでした。

でも、あることを契機に、礼拝だけでなく、平日のお祈り会や祈祷会にも参加するようになり、神様と接する時間が以前に比べて多くなっていきました。

お祈り会や祈祷会、それに加えて、時々、家庭集会にも参加させていただいたりして、自分なりにとても充実したクリスチャン生活を送っているなぁと、思っていました。

でも、時を経ていくうちに、「何かが違うのでは?」と、思うようになりました。

もちろん、教会で祈ることは、良いことですし、そのことを通して、自宅でも、祈る習慣というのが、少しずつ身につくようにもなってきたのですが、それと同時に「このままの歩みで、本当に天国に入れるのか?」という疑問が浮上し、そのことは、だんだんとわたしの内側で大きくなっていきました。

クリスマス会や復活祭、ペンテコステ礼拝等についても、若干、疑問がありました。

と、言うのは、聖書には、そういった行事に関して一切記述がありませんし、本当に、そういったことを神様は喜んでおられるのかなぁ?と、少しばかり、真剣に考えるようになりました。

また、教理に関しても、すべてがすべてというわけではありませんでしたが、「ん?おかしい!聖書に書かれていないのでは?」と思うことも出てきました。

はじめの頃は、特に、真剣に祈っていたわけではありませんが、「真理とは何ですか?」と、次第に、疑問をぶつけるようになっていきました。

それから、しばらくして、何気なく、インターネットで教理に関することを検索していましたら、突然、エレミヤの部屋のホームページのメッセージに導かれました。

ひとつずつ順番に読んでいくなかで、わたしの心の内に抱いていた疑問が、次第にクリアーになっていきました。

そこには、背信のクリスチャンに対する警告が書かれていたのですが、すべてのことが御言葉から語られているメッセージでしたので、どれもこれも、合点がいきました。

読めば読むほど、「うん!その通りだ!!」と、うなずくものばかりでした。

そして「もし、神様の導きで赦してくださるなら、わずかでも、この警告の働きの一端を担っていきたい」と、思うようになりました。

弟子の歩みに関してのメッセージも書かれていて、もしも御心なら、弟子としての歩みができるようにと、祈ってみました。

すると、しばらくして、レムナントキリスト教会に行くようにとの、示しを受けました。

ただ、人間的には、今まで行っていた教会やそこにいる信徒の方たちと離れたくなかったので、多少なりとも迷いが無くもなかったのですが、思い切って決断して、主の示しに従ったことは、良い結果をもたらすことになりました。

さらに、その一ヵ月後には、弟子の歩みにも入ることができました。

人間的には、知恵や力や能力をはじめ何も持ってはいないので、ただ、「神様に仕えていきたい、神様が言われている働きをしていきたい」と、そのように、表明して祈っただけですが、主がそのことをいつくしんでくださり、あわれんでくださり、こんなわたしにも、声をかけてくださいました。

このことは、今でも、日々、感謝しています。

 

何を申し上げたいのかというと、「神様に仕えていきたい」と、思っている人に、主は声をかけられるのではないかと思います。

どうでしょうか?

神様は、何ひとつ、難しいことを、わたしたちに要求されていないことがお分かりになるのではないでしょうか。

極端なことを申し上げるなら、小学校に上がる前のお子さんでも、できることなのです。

たとえば、わたしは、過去、こんな風に思ったことがありました。

クリスチャンホームでないと、はたまた、家族の理解を得られないと献身の歩みは無理だと。

でも、それは、単なるわたしの人間的な考えや思い込みに過ぎませんでした。

聖書をよく読むと、献身の歩みのポイントについても、単純明快に書かれていることが分かります。

たとえば、このような御言葉があります。

 

わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。」

 

この言葉は、イエス様が言われたことです。

そうなんです、イエス様に仕えたい、従いたい、と、そのように決意しているなら、イエス様についていくべきなのです、イエス様と共にいるべきなのです。

仕えたいのに、従いたいのに、遠慮していてはダメなのです。

そのように思われているのでしたら、ペテロやアンデレがすぐに網を捨てて、ついていったように、わたしたちも、そうするべきなのです。

たとえ先のことは何も分からなくても、間髪を入れずに、まずは、従っていくことにポイントがあるのです。

そのあとのことについては、お一人一人のことを、神様がすでにご存知ですので、必要な助けや導きを与えてくださったり、方向を示してくださったりしますので、何も心配する必要はないのです。

 

たとえば、こども時代のことを思い出してみてください。

こどものときは、すべて親に任せっきりではなかったでしょうか。

その日に食べるものや着るもののことで、何か心配したことがあったでしょうか。

親が、自分のこどもに必要なものはすべて知っていて、前もって備えてくれていたので、何ら、心配する必要はなかったのではないでしょうか。

人間の親ですら、そうなのですから、まして、天の父である神様は、ことさら、わたしたちにそのようにされるのではないでしょうか。

 

ですから、わたしたちが、神様の働きを担いたい、神様に従っていきたいと、思われたときには、そのことをすぐに神様の前に表明していくことをおすすめいたします。

また、神様は、わたしたちが、本当に従っていくつもりがあるのかどうか?について、心の根底にあるものを見られていて、そうしていくつもりのある人には、声をかけられます。

そのように、決意されない、あるいは、表明されないのでしたら、残念ながら、主からの声がけは、期待しないほうがいいと思います。

そのことは、どうか、ご理解ください。

そして、神様からの声がけに応答していく人には、必要なすべてのことを備えていてくださいます。

主に仕えていくための環境をはじめ、その人の霊的なたてあげに必要な賜物や知恵や力や助け、はたまた、訓練や叱責や懲らしめなど、懇切丁寧に指導してくださり、とこしえの義の道(永遠のいのちに至る道)を歩ませてくださいます。

いかがでしょうか?

ぜひ、主から声をかけられるように歩み、声をかけていただいたときには、即座に応答していき、永遠のいのちを獲得していきたいと思います。

また、地上においても、神様の栄光を見たり、祝福や恵みを大いにもたらしたりもしますので、ぜひ、おすすめいたします。