聖書箇所 Ⅱコリント人への手紙4:1-4

 

4:1 こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、

4:2 恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。

4:3 それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。

4:4 そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。

 

「真理のおおいを取り除く」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

1節の「この務め」とは、2節に書かれているように「真理を明らか」にすることです。

なぜ、いまさら、真理を明らかにしなくてはいけないのか?と、疑問に思われる方が多いと思います。

毎週ごとの礼拝やミサで、聖書の言葉が読まれているし、それが解き明かされているのだから、それでいいじゃない!何が問題なの?と、おっしゃるかもしれません。

でも、パウロがこんな風に、わざわざ手紙を書いたということは、実際には、明らかにされていないパターンが多いから、このようなことを言われたのではないかと思います。

少し辛辣な言い方で恐縮なのですが、じつは、2節にありますように、悪巧みや神のことばを曲げていたりするから、こんな風に語られているのではないでしょうか。

このようなことに、同調されるかどうかはともかく、少なくとも、私は、この箇所はそんな風に理解しています。

さらに、ここでは、大事なポイントについて書かれています。

2節で「神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています」とパウロが語っているのですが、メッセンジャーや御言葉を語る教師の人たちは、「神の御前にどうあるべきなのか?」が、常に問われるのです。

人前も大事かもしれませんが、まず、神様の前に、正しくあるべきなのです。

そのように歩むなら、パウロのように、自ずと、人々にも自分自身を推薦できるのです。

神様の前に正しくするというのは、まさに、同節に書かれているように、恥ずべき隠れた事を放棄したり、悪巧みをしたり神のことばを曲解したりせずに、真理を明らかにしていくことです。

 

さて、テーマから少しズレてしまいましたが・・・

「真理を明らかにする」という務めに関して、まさに、このことは、真理のおおいを取り除くことに通じることを言われているのではないでしょうか。

このことは、3,4節にかかっていることなのですが、もし、いつまでも、真理のおおいが取り除かれないのであれば、死(永遠の滅び)に至ってしまうことを言われているのです。

先ほど、真理が明らかにされていないメッセージが多いということに関して話をさせていただきましたが、とても大変なことを神様は、パウロを通して語っているということについて気づいていただきたいのです。

真理におおいが掛けられたメッセージとは、2節で言われているように、「神のことばを曲げている」ことなのです。

たとえば、再三、申し上げていますように、その代表としまして、間違えた終末論やキリストの再臨に関するメッセージです。

クリスチャンは艱難を通らないとかキリストの再臨はすべてのクリスチャンにとってハッピーの時などです。

また、獣の国がヨーロッパだとか、終末はまだまだ先で自分たちにはまったく関係が無いとか、クリスチャンはさばかれないという教えとかも神のことばを曲げていることになります。

クリスチャンがさばかれないという視点に立ってメッセージを語るので、当然のことながら、神のおきてや定めや戒めを厳重に守っていくことについて、ほとんど語られることもありません。

これらの事柄は、ほんの一例です。

また、おおいを取り除くということは、たとえを理解することにも通じます。

聖書の御言葉はそのまま文字通りに読むところもありますが、ただ、大半は、たとえが用いられています。

イエス様ご自身がたとえによらないで話されることはなかったという記述もありますように、聖書の言葉は多くはたとえで書かれています。

たとえを理解しないと、神様が本来語ろうとされている御言葉の奥義や神様の御性質が分かりません。

と、言うことは、いつになっても、義の行ないに到達することがないということを言われているのです。

当時のパリサイ人や律法学者がまさしくその代表とも言える人々でした。

真理におおいが掛けられていたために、彼らは、イエス様を救い主と認められずに十字架につけて殺してしまいました。

もし、彼らが真理を悟っていたのなら、そのような過ちを犯したりはしなかったことでしょう。

もちろん言うまでもなく、彼らはクリスチャンでした。

しかも、「律法学者」と言われているように、聖書の言葉の専門家でもありました。

今で言う、牧師や教師の立場の人たちです。

こんなことを申し上げると怒る人がいるかもしれませんが、残念ながら、今の時代も牧師や教師と言われている大半の人たちが、真理におおいを掛けてしまっているのではないでしょうか。

「そんなことない!毎週すばらしいメッセージを語っている!!」と、おっしゃるかもしれません。

 

それでは、少し、質問させていただきたいと思います。

聖書は多くのたとえが使われていますが、その解き明かしは、されていますか?

明らかに、聖書には、天の御国を受け継ぐクリスチャンだけでなく、さばかれるクリスチャンについて対比して書かれているのですが、そのようなことに関して、語られていますか?

神の愛だけが強調されていませんか?神様に愛されることだけでなく、私たちが神様を愛すること、すなわち、戒めをきちんと守ることや公義(さばき)についてもきちんと語られていますか?

キリストの再臨は背信のクリスチャンのさばきの時だということが言われていますか?

クリスチャンは艱難時代を通るので、そのための備えをしましょうということについて、語られていますか?

 

失礼な言い方かもしれませんが、もし、上記のような事柄が、まったく語られていなかったり、あるいは、その逆が語られたりしていましたら、聞いているメッセージに関して、御一考されたほうがよいと思います。

はっきり言いますが、そのようなメッセージは、真理におおいが掛けられたものであり、御心はまったくありません。

それどころか、3節に書かれているように、「滅び」(永遠の刑罰)へと直行してしまいますので、要注意です。

余計なお世話かも知れませんが、そのようなメッセージや教理からは、ただちに、離れていくことをおすすめいたします。

もし、そのような御心に反したメッセージを吟味無しに、あるいは、喜んでこれからも受け入れ続けていくなら、4節に書かれているようなことが実現してしまいます。

「この世の神」とは、言うまでもなく、サタンのことです。

「そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。」とは、具体的には、どのようなことを言われているのかというと、下記、御言葉を見ていただけると分かりやすいと思います。

 

参照 Ⅱテサロニケ人への手紙2:10-13

 

2:10 また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。

2:11 それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。

2:12 それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。

 

真理を拒んでいくときに、悪の欺きや惑わす力が、神によってゆるされてしまうのです。

それは、恐ろしいことです。

11節には、「彼らが偽りを信じるように」と、書かれていますが、このことは、まさに、4節の「栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしている」の言葉に符号すると思います。

このことから、真理のおおいを取り除くというのは、永遠のいのちを得るためには、必須であるということを、ぜひ、ご理解いただきたいと思います。

また、1節に「勇気を失うことなく」とありますが、パウロの時代だけでなく、今の時代も、真理が明らかにされていない、いわゆる、悪い時代の中で、あえて、真理を解き明かすということは、勇気が要るという点に関しても、とらえておいていただきたいと思います。

牧師や教師をはじめ、多くのクリスチャンは真理に対しておおいが掛けられているために、真理を明らかにしたために、批難や批判や中傷をされたりするかもしれませんが、主が啓示を開いてくださったのなら、勇気を出して、信仰をもって、きちんと語っていきたいと思います。

前章(Ⅱコリント人への手紙)にも、「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」とありますので、ぜひ、真理のおおいを外して、勝利の栄冠を受けていきたいと思います。

 

エレミヤの部屋のHPのメッセージを読みはじめた頃、とても衝撃を受けました。

それまで、たとえの意味合いを理解することについてまったく無知だったからです。

そして、奥義をちゃんと悟るか否かによって、永遠の行き先まで変わってしまうことを知ったときには、「これは、何が何でも、聖書の御言葉を正しく理解しなければ!」と、思いました。

それから、半年後に、教会に導かれ、その一ヵ月後には弟子の歩みに入らせていただき、今日に至っていますが、その確信は、日ごとに強まるばかりです。

かつての聖書の読み方や理解の仕方を今でも続けているなら、終末や再臨に関してのとらえも頓珍漢でしたでしょうし、獣の国に関しても、いまだにヨーロッパと思い込んでいたり、クリスチャンは艱難に会わないということを盲信し続けて、当然そのための備えもしていなかったと思います。

でも、このことは、地上にいるあいだはともかく、のちの世において、天と地との差をもたらすということについて、のちのち理解したときには、背筋がぞっとしました。

弟子の歩みをする前までは、そのことすらも気がつかなかったのですが、実際に、歩みをしてはじめてみて、こういったことについて、正しくとらえていくこともできました。

このことは、主の憐れみだと思いますし、そのことに感謝して、これからも益々、積極的に奥義を悟っていきたいと思います。

本日も主が大切なことを語ってくださり、感謝でした。

益々主の御名があがめられますように、主に栄光がありますように。