聖書箇所 Ⅱペテロの手紙2:21

 

2:21 義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。

 

「聖なる命令にそむかない」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

世の中でも、「義」ということばはあります。たとえば「正義」ということばがそうです。現実はともかく、世の人も「悪」と「正義」のどちらがよいか?と聞かれれば、「正義」と答えるはずです。聖書でも、ことさらに「義」ということばが使われています。本日のことばで、あるみことばを思い出します。Ⅱテモテの手紙には、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」とあります。「矯正と義」とあるように、ここでも「義」ということばが使われています。「義」とはつまり、私たちを矯正へと導くためのものだということが分かります。

 

さてさて、「義」はたしかに良いものですし、私たちクリスチャンは「義」へと召されているのは事実ではあります。ただし、そこで問題があります。そのことを本日のみことばは言っているのです。それは、「義の道を知っていながら~」ということばです。「その聖なる命令にそむく」とあるように、知っているにもかかわらず、「そむく」ことに問題があるのです。この世の異邦人、すなわち神さまを知らない人はある意味仕方がないと思います。神さまのことも、聖書のことばも知らないのですから・・・もちろんそういう人たちも、いつの時か神さまを知ってイエス・キリストをご自分の救い主として受け入れて、信仰を持てればと思いますが・・・それはさておき、クリスチャンと称している人たちが、「聖なる命令にそむく」ということに大きな問題があるのです。ちなみにこの章の中で、バラムのことについて書かれています。参考までに見てみましょう。

 

参照 Ⅱペテロ2:15,16

2:15 彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。

2:16 しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の気違いざたをはばんだのです。

 

こちらの節では、バラムの罪について書かれています。どんな罪かと言うと、「不義の報酬を愛した」ことの罪です。バラムについては旧約聖書に書かれています。その箇所を読むと分かるのですが、彼はモアブの王バラクからオファーがかかりました。どんなことで声をかけられたのか?と言うと、「イスラエルの民を呪って欲しい。あなたを厚くもてなすから」というものでした。その時のバラムの反応はどうだったか?と言うと、はじめは、「たといバラクが私に金や銀や金の満ちた彼の言えをくれても、私は私の神、主のことばにそむいて、事の大小にかかわらず、何もすることはできません」と断ったのですが(この態度はたしかに立派です。ゆえに見習うべきなのですが)、しかし結果として、バラクの要求をバラムはのんだのでした。

彼の足は、その要求に従うためにバラクの家にむかっていました。そして、16節に書かれているように、それをとどめるために、それこそ、ものを言うことのないろば(ろばは聖霊のたとえ)が、人間の声でものを言って、バラムがしようとしていることをやっと阻んだのでした。

 

そう、預言者バラムは、「たといバラクが~」と言っていたように、彼は何が正しいのかを知っていたのです。にもかかわらず、そのことに従わなかったのです。いわば「聖なる命令にそむいた」のです。「聖なる命令」を知っていたにもかかわらず、しかし、背いてしまったのです。これって、どう思いますか?もちろん良くないことですよね。だからと言って他人事に思えますか?少なくとも、私は自分に大いに関係があると思っています。私事で恐縮ではありますが、差しさわりの無い範囲で話したいと思いますが・・・私はあることに関して、主から何度も、いいえ、何十回、何百回と、同じ警告を受けていました。もちろん全く耳を貸さなかったわけではありませんでしたが、色々と理屈をこねて従うのを拒否していました。それこそ聖書には、細かいことって書いていませんよね。たとえば煙草がダメとかギャンブルがダメとか・・・それと同じように、自分がしていたことも、特に具体例として書かれていなかったので、「神さまはそう語っているかもしれないけど、気のせいなんじゃぁないかなぁー、まぁ、いっかー」みたいな感じに流していました。でも、心の奥底では「ひょっとするとNGなのでは?」という思いがあり、それは日ごとに強まり、ジレンマともなり・・・そしてやがて、具体的なこと、はっきり言うと、ありとあらゆる災いを通して「ダメ!」ということが分かりましたので、不承不承ではありましたが、聞き従うことにしました。むろん、私みたいにいつまでもごねていてはダメなことはひと言申し上げておきますね。ですから、もし、あることで、ジレンマを感じたり、疑問に思ったりしたことがあったら、それがまたどんなに些細なことであっても、もしくは聖書には具体的に書かれていないことであっても、すぐに神さまに祈って聞いてみてくださいね。神さまは憐れみ深いお方なので、真剣に求めていく人には誠実をもって対応してくださり、教えてくださいますので・・・

 

自分の体験を通して申し上げたいことは、聖書に書かれていることもそうですが、神さまから示しを受けたり、教えていただいたりしたことに対して背くと、ろくなことにならないのです。それこそ、「それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです」という風に神さまに見なされてしまうのです。もっと言うなら、クリスチャンとして見なされなくなってしまうのです。そしていつまでも心を頑なにしていくときに、ありとあらゆる災いや困難に巻き込まれたり、はたまた最後まで悔い改めないなら、滅び(火の池)に入ってしまうのです。「そんな大げさな!」と思うかもしれませんが、そうとは言えないと思います。なぜ、そんなに深刻なのか?と言うと、御教えに聞き従わなかったり、悔い改めを拒否し続けていくときに、霊的に正しいこととそうでないこととの判断ができなくなったり、そのことがもとで別の方向に引っ張られてしまったりして、結果として、命に至る細くて狭い道から外れてしまうのです。見えるところでも、ろくなことはないのですが、しかし、もっとも恐ろしいのは、霊的に盲目にされてしまうことではないでしょうか?しかも神によって、盲目にされたら、逃れようがないではないですか?そうなってしまう前に、きちんと従っていきたいですよね。あるいは、万が一、最悪な状態にまで陥ってしまったという場合は、ひたすら神さまに憐れみを求めて助けていただくようにしていきたいと思います。たかが、「戒め」と思うかもしれませんが、「聖なる命令」とは神さまご自身を指しますので、「聖なる命令にそむく」とは、そのまま神さまを拒否することにつながってしまいますので、くれぐれも気をつけていきたいと思います。エレミヤ牧師がメッセージの中で度々言われていることですが、どんなみことばでも守る人に恵みや祝福がありますので、そして、聖書の教えはこのことを一貫して語っていますので、どんな場合でも、ぜひ、みことばを尊重し、実践していきたいと思います。それに加えて、神さまがその時々に語る声にもきちんと応答していきたいと思います。「不法がはびこるので、多くの人たちの愛が冷たくなる」とか「多くの人々がキリストの十字架を敵として歩んでいる」ということが聖書に書かれているように、たしかに今の時代はクリスチャンがだんだんとみことばを守らなくなっているかもしれませんし、それがなんだか普通のような感じがしますが、しかし、そのままだと天の御国は危なくなってしまいますので・・・私たちにあっては、きちんと守って、後の世を受け継ぐ者にふさわしい者とされていきたいと思います。