聖書箇所 ガラテヤ人への手紙1:4,5
1:4 キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。
1:5 どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン。
「自分を打ち捨てて主に従っていく」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。
ここでは、4節「私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました」とありますように、イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださったことについて書かれています。
しかも、神様の御心によって、このことが成されたのでした。
普通の、人間レベルでは、とても、考えられなかったり、信じがたいことなのですが、御子、すなわち、神様のたったひとり子であるイエス・キリストが十字架にかかり、命を落とすことを神様は、赦されたのです。
一見聞くと、人間的には、悲しい出来事なのですが、結果としては、キリストの十字架の死によって、多くの人々に救いをもたらすようになったのです。
ひとりの人の死、しかも、罪のまったく無いキリストの流された血によって、滅びから命へと移っていく人々が今日にも及んでいるのです。
こういったことから、私たちは、この世での信仰姿勢について、学んでいきたいと思います。
そう、キリストが十字架で血を流されて死なれたように、救いには、「犠牲」が伴います。
たとえば、福音書の中で、イエス様がマルタとマリヤの弟ラザロを死からよみがえらせたという有名な話があります。
たしかに、このとき、ラザロの肉体は病気になり、結果として死んでしまいました。
しかし、単に肉体が朽ちて死んだと、それだけのことを言われているのではなく、このことには、たとえの意味合いがあります。
聖書で言われている「病気」とか「罪」とは、霊的な病に冒されて罪に陥り、霊的に死んでしまうと、そのような意味合いがあります。
私たちは、誰もが、たとえ、どんなに立派なクリスチャンであっても、時として霊的に弱ってしまったり、罪を犯してしまったりします。
しかし、そのまま、罪に陥り続けていくなら、永遠の命は非常に危ないものとなってしまいます。
でも、それらの罪から何としても救うために、主イエスは、とても必死だということをラザロの病や死を通して語られているのです。
ラザロが病気であることをマリヤから知らされたとき、イエス様は、荒野に退いていました。
なぜかというと、その前に、ユダヤのエルサレムで石打ちにされそうになり、そこから逃れるためでした。
しかし、ラザロのことを聞いて、荒野になお二日間とどまったのちに、イエス様は「もう一度、ユダヤへ行こう。」と弟子たちに言われたのです。
このことをどう思われますか?普通の人なら、絶対にユダヤだけは避けたい!と、そんな思いになりますよね。
もしも私が、自分の命が狙われた場所に居合わせたとして、でも、何とか、そこから逃げることが出来たら、もう二度と、その場所には近付きたくは無いと考えると思います。
弟子たちも、こんな風にイエス様に言いました。
「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか」と。
でも、イエス様はラザロのところに向かわれました。
また、その時に、デドモと呼ばれるトマスという弟子は「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」と言いました。
何という、勇敢さでしょうか!!さすがは、イエス様の12弟子!!と、単に感心するのも良いことではありますが、それだけで終わらせてはいけないのです。
本当に、神様に従っていこう!と、そのように決意されているのでしたら、実は、これこそが、神の前にあるべき姿だということを、どうかご理解ください。
もちろん、こういったメッセージは決して万人向けではないことを重々承知の上で、お話させていただいている次第であります。
しかし、いいですか、もしも聞く耳があるのでしたら、よくよくご理解いただきたいのです。
先に申し上げましたように、「救い」については、「犠牲」がつきものであるということをです。
このとき、イエス様が、「いやぁ、ユダヤなんかに戻って石打ちにされるのはゴメンだ」と言って、ユダヤに行かなかったら、ラザロは助からなかったのです。
命の危険があるかも知れない、しかし、何としても、ラザロを助けたい!と、あえて、危険地帯に足を踏み入れたのです。
ここに、二つの教えがあります。
主は、私たちを救うのに、命がけであるということ、そして、私たちが主に従っていくのなら、そういった危険なこととは背中合わせであるということです。
もちろん、常時、危険にさらされるというわけではありませんが、本当に主に仕えていくのなら、肉体の命の危機を伴う働きにも少しずつ入っていくということです。
イエス様やこの当時の弟子たちだけが、危険な目に会っている、今の私たちには何ら関係が無い!なんて思っていたら、大きな間違いです。
2000年以上前に昇天されておられるので今は目には見ることはできませんが、イエス様は一人でも多くの人が滅ぶことの無いようにと、今でも、とても必死です。
そして、そのような「救い」に関する働きを、今の時代のお一人一人のクリスチャンに、もっと言うなら、主の弟子として歩んでいく人に、主は託されようとしておられるのです。
たしかに、そういった歩みや働きをしていくというのは、それ相応の自覚と覚悟を要します。
でも、今の時代も、これからも、そういったことをひっくるめて、主に従っていく人たちを主イエスは求めておられるという点についてもご理解いただきたいと思います。
主に従っていく歩みや働きを選んだからといって、突然命を取られるということは少ないと思いますが、一歩一歩従っていく中で、少しずつ、そういったことも想定内の歩みや働きに入っていくということです。
そして、主の言われているひとつひとつのことに忠実に従っていく人に神様は永遠の命を与えたいと思われているのです。
たとえば、このメッセージを読まれているあなたが、会社を経営する人だとします。
社員の中には色々な人がいます。
ただ、ざっと区分するなら、勤怠の良く、すべてのことに忠実な人、一方、週に3回は遅刻をし、経営者に反発ばかりする人に二分するとします。
一年に2度、ボーナスを出すとして、前者の人には沢山与えたいと思いますが、後者の人には、あまりあげたくないと思いますよね、それどころか、折を見て、辞めてもらいたいと、そんな風に考えるのではないでしょうか。
そんなことと比較して良いかどうかは分かりませんが、神様も私たちに対して同じ思いなのではないでしょうか。
ちなみにクリスチャンには、2種類のタイプがいます。
神様の御心よりもどこまでも自分の思いや考えを優先して信仰生活を送っている人、厳しい言い方ですが、こういうタイプの人は、ろくに聖書を読んでいなかったり聖書の正しい教えや知識に精通していなかったり、あまり祈らないタイプのクリスチャンではないでしょうか。
過去の私も、そんな一人でしたので、何もえらそうなことは言えないのですが、たとえば、クリスチャンは艱難を通らないとか裁きは未信者だけとか、いのちがけでキリストに仕えていく必要は無い、もっと自分を愛することに一生懸命になりなさいなどという教えを盲信しているようなクリスチャンです。
神中心とは、ほど遠い、どこまでいってもいわゆる自己中心的な信仰を持ったクリスチャンです。
もっと言うなら、神様の御心を行わない、あるいは行おうとしないクリスチャンです。
群集の歩みにとどまるなら、このようなクリスチャンになってしまいます。
一方のクリスチャンは、常に、主の声に聞くクリスチャンです。
なおかつ、その声に何とか応答しようとして歩むクリスチャンです。
自分の思いや考えは色々ある、しかし、まず、神様がどのように語っているか?について、常に聞く態度のあるクリスチャンです。
こういうタイプのクリスチャンは聖書の読み込みが日課となっていたり、毎日、きちんと祈るクリスチャンではないかと思います。
色々と勘違いや間違いや捕らえ違いや失敗はつきものであっても、しかし、その都度、主にきちんと聞いていくので、途中で軌道修正をしながらも、最終的には、主の目に叶った歩みや働きをしていけるようになります。
こういった歩みは、まさに、弟子として歩んでいるクリスチャンといえます。
さて、後の世において、神様は、どちらのクリスチャンと永遠に一緒に過ごしたいのかと言いますと、わざわざ答えを言わなくても、分かりますよね。
自分自身の思いや考えを打ち捨てて、場合によっては肉体の命が危なくなっても、そのようなものをすべて投げ捨てて主に従っていこうとする人に御心がありますし、そのような人だけが、後の世に恵みや祝福に入り、神様からの誉れや栄光を受けられるのではないかと思います。
そうしていくときに、5節の「この神に栄光がとこしえにありますように」の御言葉が成就していくのではないかと思います。
ぜひ、主の言われている「救い」の働きについて正しくとらえ、イエス様がたどった足跡に倣っていき、後の世において、大いなる報いを得ていきたいと思います。
証
本日の、たった2箇所の御言葉ではありますが、今回、このところから、主の大事な語りかけを色々と受けることができましたので、その一部をメッセージさせていただきました。
私自身、弟子として歩みながらも、まだまだ、自分の思いや考えが強い者ですので、そのようなものに死ぬことができるように、そんなことを、日々、祈りながらも、苦戦しています。
ただ、5節に「栄光」という言葉が使われていて、その前の節とのからみを通して、神様の言われる栄光というのが「死」であるという風に理解させていただきました。
レムナントキリスト教会の礼拝のメッセージの中で、エレミヤ牧師から、聖書は逆説的なことが多いということを教えていただいていますが、歩みや働きを進めていくなかで、本当にそうだなぁということを強く感じています。
人間的に考えるなら、世の中で成功することこそが、「栄光」「誉れ」と、そんなイメージがありますが、聖書は、そうではなく、後の世において、永遠の命をゲットした人こそが、勝利者だということをくり返し語っています。
それこそ、「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」とイエス様が言われたように、やはり、永遠の命を獲得できなければ、クリスチャンと言っても、大失敗ということなのでしょう。
そういったことひとつ取っても、この世の成功を求めるのなら、永遠の命の獲得は難しい、あるいは、出来ないということが理解できるのではないでしょうか。
話は突然変わりますが、最近、朝方に夢を見ました。
夢の中で、私が、主に何かを嘆願していたようだったのですが、主が私にこのように言われました。
「いつも私を中心にしていなさい」と。
しかも、何度もくり返し、そんな風におっしゃったのです。
ふと、自分は、「イエス様」と言いながらも、まだまだ、自分の思いや考えに固執しているのでは?そういったことに、死んでいないのでは?と、いうことを示されたように思いました。
もちろん、キリストのために、命も差し出すということも、ある程度は自分の中では想定しながら歩んではいるのですが、今、置かれている立場や状況の中で、まずは、一歩ずつ、主に従っていくことが大事なのでは?ということを教えられました。
小さなことから、ひとつひとつ、主に従っていくことを積み重ねていく中で、のちにおいて、大きなこと、いわば、命を失うということについても従っていく力が自ずと培われていくのでは?と、思いました。
自分の思いや考えをはじめ、どんなことであれ、「死ぬ」とか「失う」ということは、人間的には、マイナスのイメージがあるのですが、神様の目には、尊く、なおかつ、そういうところにあえて御わざをあらわされるのでは?という語りかけを本日の御言葉をはじめ、メッセージや証を執筆していく中で感じましたので、そのことも、書かせていただきました。
聖書にも、「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」という厳しい御言葉がありますが、わずかでも、そのことに準じて歩みや働きをなせたらなぁと思います。
本日も大切なことを語ってくださった主に栄光と誉れがありますように。
レムナントキリスト教会
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