聖書箇所 ガラテヤ人への手紙4:19

 

4:19 私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。

 

 

「キリストの福音をたしかなものとする」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

「子どもたち」とは、ガラテヤの教会の信徒の人々のことです。

この章のはじめから読むと分かるのですが、ガラテヤの教会の人々は信仰に対して熱心な方たちでした。

ところが、17節でパウロが言われているように、福音の恵みから、はずれてしまう方向へと引っ張られていきそうになりました。

 

参照 ガラテヤ人への手紙4:17

4:17 あなたがたに対するあの人々の熱心は正しいものではありません。彼らはあなたがたを自分たちに熱心にならせようとして、あなたがたを福音の恵みから締め出そうとしているのです。

 

「福音の恵みから締め出そうとしている」とは、本来の福音から、ずらしてしまうという働き人がいるということです。

このとき、どんなメッセージが語られていたのか分かりませんが、今で言うなら、神の愛だけがやたらと強調されていたり、さばきの面について語られていなかったり、イエスの名の他にも救いがあるとか、行いによって救われるなど、御言葉に書かれていないようなことが語られているメッセージのことを言われているのではないかと思います。

同じガラテヤ人への手紙に、やはり、似たようなことが書かれています。

 

参照 ガラテヤ人への手紙1:7

1:7 ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。

 

ここでも、同じようなことが言われています。

「キリストの福音を変える」とは、教理を変質させて、滅びへと向かわせる働きのことを言っています。

このことは、レムナントキリスト教会の礼拝の中でも学んだことですが、単純に聖書に書かれていることを信じれば救われるにもかかわらず、別のものを持ってきて、信仰を取り去っていこうとすることです。

それこそ、カソリックで言われている「行いによって救われる」とは、その代表とも言えます。

このことは、「福音を信じれば救われる」ことと、大きく外れています。

まさに、「別の福音」です。

ですから、別の福音に引っ張られてしまうことがないように気をつけていかなければいけません。

そして、このことは、決して他人事ではなく、自分をはじめ、そういう人が多いから、このようなことが書かれているのだと思います。

また、このことも礼拝の中で教えていただいたのですが、敵であるサタンは、ひとりでも多くの人を何とかして福音の恵みから落とそうと必死に働いています。

ですから、パウロが、あえて、「あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」ということを言われているのです。

救いに関して、根本的なことがひっくり返されたり、間違いやすいから、救いの根本について、何度も何度も、くり返し語っていく必要があると・・・そんなことを言われているのだと思います。

また、多くのクリスチャンがキリストの救いから外れてしまう可能性がある、だから、気をつけなさいと、そんな風に語られているように思います。

そして、特に終末は、変な霊が働くため、メッセージを語る大半の牧師や教師がおかしくなるので、どんどん福音が曲げられていくと、そのようなことも言われているのではないかと思います。

もし、福音の恵みから外れてしまうなら、天の御国は、危ないものとなってしまいます。

せっかくクリスチャンとして新生して、毎週ごとに礼拝に行き、奉仕を行っていたとしても、御国を受け継げない可能性もありえますので、気をつけていきたいと思います。

同じガラテヤ人への手紙に、「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。」と書かれているのですが、ここでも、クリスチャンが別の福音にそれやすいということについて、言われていますので、くれぐれも気をつけていきたいと思います。

聖書で言われている御教えに、ぜひ、堅くとどまり続けていきたいと思います。

そして、重荷を持たれる方は、パウロのように、一人でも多くのクリスチャンが、キリストの福音から外れてしまうことのないように、そういった手助けを導きの中で行っていくようにしていきたいと思います。

くり返すようですが、今は、多くの偽教師、偽預言者の時代ですので、きちんと聖書を読んで、正しく御言葉にとどまっていきたいと思います。

 

クリスチャン生活を送って、随分年数を経ていますが、時折、私自身も、ガラテヤの人々のように、危うく救いから落ちそうになることがあります。

「信仰」とは、実際は、「キリストの福音を信じる」だけであって、よくよく考えてみると、とても単純なことなのですが、見えない敵の働きによって、何か複雑なものにさせられてしまうという、そんな罠に陥ったり、陥りそうになることが時としてあります。

でも、先日、礼拝の中で、人を惑わそうとする悪しき霊の働きがあるということを学び、そういったものから絶えず守られるように、まじめに祈り求めていこう!と思いました。

残念ながら、クリスチャンの背教のゆえに、私たちを恵みから落とそうとするあらゆる敵の働きは益々ゆるされていきますが、正しく、聖書で言われていることにとどまっていかれたらなぁと思います。

本日も大切なことを語ってくださった主に栄光と誉れがありますように。