聖書箇所 コロサイ人への手紙1:17,18

 

1:17 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。

1:18 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。

 

「御言葉を中心とする」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

 クリスチャンならご存知のように、「御子」とはイエス・キリストのことです。そして17節にありますように、イエスさまは万物、すなわち人類や地球や宇宙をはじめとする、ありとあらゆるものよりも先におられ、すべてのものをご支配されておられるのです。こういった概念は未信者の人は持っていません。が、しかし、昨今クリスチャンの間においても、一部「進化論」を唱えているということも耳にしたことがありますので、徐々に薄れつつあるのでは?と思います。

 

 17節に続いて18節では、イエスさまが教会の頭であり、死者の中から最初に生まれ、すべてのことにおいて第一となられた、ということについて書かれています。こうしたことも、クリスチャンの間では常識ではありますが、しかし現実、特に今の時代、真の意味合いでこのことばを理解されている方もかなり減ってきたのではないかなぁ?と思います。こんなことを申し上げたら心外かもしれませんが、教会の王は本来キリストのはずなのですが、そうではない教会が年と共に増えていっているように思います。なぜ、そのようなことを言うのかと言いますと、以前私が行っていた教会もそうですが、建前はともかく、実際は御言葉から外れたメッセージが語られていたからです。たとえばクリスチャンが艱難を通らずにその前に挙げられるとか洗礼を受けてクリスチャンになったら皆天国とか、そういうことが語られていました。こういったことは、たしかに耳には心地良いのですが、御言葉であるイエスさまのことを完全に無視しているのでは?つまりキリストを王としていないのでは?という風に私個人としては思います。

 

 さて、もし上記のようなことにお心当たりがありましたら、注意が必要だということを申し上げたいのです。

たしかに聖書で言われているように、今は恵みの日、救いの時であります。しかし霊的な視点でキリスト教会の現状を見るなら、かつては教会の真ん中におられたイエスさまが、だんだんと教会から追い出されつつあるように思います。黙示録でこのような御言葉を読んだことはないでしょうか?

 

見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

 

 信じられないことかも知れませんが、教会の主人であるイエスさまが戸の外、つまり教会の外におられるのです。

 これは深刻なことだと思いませんか?こんな例が良いかどうかわかりませんが、もし、あなたが犬と一緒に暮らしているとして、家族はあなた以外の人が誰もいなければ、その犬は当然、あなたのことを主人として頼りますよね。でも、その犬があまりにも言うことを聞かないので主人であるあなたは意を決して、犬の飼育を放棄することにしました。もちろんこういうことはおすすめできることではないのですが、やむを得えずということが仮に許されるとして・・・そうしたらその犬はどうなるでしょうか?2,3日、あるいは1週間くらいは生き延びたとしても、水もエサをもらえないために餓死してしまうのではないでしょうか?

 

 イエスさまと教会の関係も同じようなものなのでは?と、思うのですが、いかがでしょうか?もし、私たちがあまりにも御言葉にたてをつくなら、いくら神さまを信じている、イエスさまを受け入れていると言っても、イエスさまもいつの時にか愛想をつかして出て行ってしまうのではないでしょうか?そして単にイエスさまがいなくなるだけならともかく、イエスさまがいないということは、まともな教えを受けられないために、そこにいる牧師や信徒の人々が霊的に死んでしまうのではないでしょうか?そしてその時とばかりに、教会にはイエスさまの代わりとなるものがおのずと座してくるのではないでしょうか?そう、もし先程話しましたように、艱難を通らない教えを迎合していくとき、まさに義を喜ばずに不義を喜んで受け入れ続けていくときに、イエスさまの代わりに「反キリスト」が教会に君臨するようになっていくのです。このような御言葉があります。

 

参照 ヨハネ2:18,テサロニケ2:1012

2:18 小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。

2:10 また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです

2:11 それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。

2:12 それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。

 

ヨハネの手紙2:18では、もう、すでに多くの反キリストが現われていると言っています。このことから「反キリスト」とは、御言葉とは反対のことばかり言っている教師や牧師のことを言われていることが分かります。また、テサロニケ人への手紙2:1012では、真理である御言葉、すなわちイエスさまを拒否する人たちの末路について書かれています。そういう教会にはイエスさまは、もう、おられないのです。いくら立派な会堂があって、そこで毎週礼拝がおこなわれていたとしても、また場合によっては大勢の信者さんが集まっていたとしても、です。

証になるかどうかわかりませんが、まだ私がレムナントキリスト教会に行く前のことでした。私がレムナントキリスト教会へ転会する前に通っていた教会でのことです。

ある方がおられて・・・その方も、もうそこの教会には通っておられないようですが、ある日このようなことをおっしゃっていました。

「この教会には聖霊がいない」と。

そこはペンテコステ派の教会で聖霊の賜物、特に異言のことを強調していた教会でした。また、礼拝以外にもいくつかの集会を持っていて、特に祈りにおいて比重を置いていました。牧師をはじめ献身者、信者の方も、とても信仰熱心な方が多数集まっている教会でした。ですから「聖霊がいない」という言葉を聞いたときには、正直、信じられませんでした。でも、それからしばらくしてエレミヤの部屋のホームページに書かれているメッセージを読んでいくうちに合点がいきました。以前話したかもしれませんが、ある時礼拝の中で、牧師が艱難前携挙説のことを推進するメッセージを語っていたときに、私の体の一部にしびれが走りました。もう、そのときには、その教理がおかしなものであることを理解していたので、ふと、「これは神さまが喜んでいないんだなぁ」と、いくらメッセージを語っていても聖書に反することを語るなら、聖霊の働きは無くなっていくんだなぁということ霊において理解し、また、かつて「聖霊がいない」と言っていたのは、本当のことだったのだということを理解しました。もちろんそこの教会の牧師は意識してキリストを追い出しているわけではありませんし、神さまのことを崇めておられましたので(今でもそうだと思います)、一見なんら問題がないように思うのですが、しかし神さまの目から見るとそうではなく、イエスさまを教会から追い出している、という風に見なされていたのだと思います。そうですよね、普通、教会の牧師や神父の立場の人は神さまにお仕えしていきたいという志の中で働きを担っているのですから、特別意識して「神さまを追い出してやろう!」なんて、悪意を持った人たちは、ほぼ皆無だと思います。しかし、結果としては・・・神さまに逆らってしまっていると、そのように神さまからは見なされてしまうのです。そして本人たちも、まさか反キリストが席巻しているだなんて、夢にも思っていないと思います。でも、御言葉に従わなかったり、御言葉に書かれていないようなことばかりを語っていくときに、意識しようとしまいと、キリストを追い出してしまうと、そのような結末になってしまいますので、くれぐれも気をつけていきたいと思います。

 

 それこそ艱難のための備えを今はしていかなければいけないのに、その逆が語られているのですから恐ろしいことです。そして自覚するうんぬんは別として、こういうことが積み重ねっていくときに、「救われるための真理への愛を受け入れなかった」という御言葉が、悪い意味合いで成就してしまいますので、ぜひ真理の御言葉に立っていきたいと思います。先程見た黙示録において、イエスさまの声を聞くのなら、イエスさまは共にいてくださいますので、ぜひそうしていきたいと思います。

 

 聖書では、これから背教が起こることや獣の国が台頭していくことやアメリカを主導に迫害や困難や艱難に入っていくことについて書かれていますけど、それは決して神さまが気まぐれに起こすのではなく、教会やクリスチャンの背信のゆえに、ゆるされていくのだということについても、正しく認識していきたいと思います。では、あっても、正しく御言葉にくっついていくなら困難や艱難においても神さまからの不思議な守りや助けがありますし、祝福や恵みに入っていきますので、まったく恐れる必要はないと思います。また、聖書に「手足が長すぎたり、短すぎたりしてはいけない」とありますように、御言葉の言われている範囲を超えないように、また、反対に御言葉以下にならないように気をつけていきたいと思います。たとえばカソリックで言われているように、「地獄は無い」とか「煉獄があるから大丈夫」という教えは御言葉を逸脱していると言えます。また一方、カソリック、プロテスタントの両者において、終末のことや神のさばきについて語らないことは、御言葉以下にしていると言えます。ですからどこまでも、御言葉にとどまっていくことができるように祈り求めていき、歩んでいきたいと思います。そうでないときに、反キリストにあっけなくやられてしまい、神の怒りのさばきを招き、結果として永遠の命を失ってしまいますので、気をつけていきたいと思います。ぜひ、そういう点に関してもみておいていただきたいと思います。

本日も大切なことを語ってくださった神さまに栄光と誉れがありますように!!