聖書箇所 マタイの福音書12:36,37
12:36 わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開き(KJV:弁明)をしなければなりません。
12:37 あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」
「むだなことばについて弁明する日を心に留めて歩む」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。
上記みことばは、イエスさまがおっしゃったことですが、かなりきびしいなぁ、と個人的には思います。「人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開き(KJV:弁明)をしなければなりません」に関して、第一義的には、悪口をはじめ人を傷つけたり、そしったり、下品なことや恥ずべきことばを発したりするのはよろしくない、ということを言われているかもしれません。ですので、私たちはそういうことばを極力口から出さないように気を付けたいと思いますし、万が一発してしまった場合には、すぐに悔い改めていきたいと思います。けれども、主は単にそれだけを言われたのではないように思います。よく話をしていますように、聖書のことばには「奥義」と言われる類いのことがありまして、また、聖書は羊皮紙にもたとえられていますように、おもてにも裏にも文字が書いてある書物なので、ゆえに同じひとつのことばでも、二重、三重の意味合いをなす場合もありますので、そのことをも見ていきたいと思います。
たしかにこれらのきびしいことをイエスさまは言われたのですが、では、いったい誰に対して言われたのか?と言うと、その前を読むと分かるのですが、律法学者やパリサイ人に対して言われたのです。皆さまもご存知のように、彼らは聖書のことばの専門家でありました。今で言う、牧師や教師やメッセンジャーに相当する人たちです。そういった立場の彼らに対して、上記のことばが語られたのです。「人は~あなたのことばによるのです」と。なぜ、そのようなことを言われてしまったのでしょうか?以下、同じマタイの福音書同章のみことばがそのことを語っているのでは?と思います。
参照 マタイの福音書12:22‐24
12:22 そのとき、悪霊につかれた、目も見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが彼をいやされたので、そのおしはものを言い、目も見えるようになった。
12:23 群衆はみな驚いて言った。「この人は、ダビデの子なのだろうか。」
12:24 これを聞いたパリサイ人は言った。「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」
22節で、主が癒しのわざをなさいました。けれどもそれに対して、パリサイ人は、「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ」と言いました。いかがでしょうか?どう思われますか?正直なところ、はじめてこの箇所を読んだときに私個人はびっくりしました。「イエスさまの偉大なるわざに、なんというイチャモンをつけるんだ?!」と。でも、イエスさまはさすが神さまの御子ですよね~。そんな風に言われても全く意に介すことなく、その後、淡々と彼らに対して教えを語りました。その締めとして語られたのが、冒頭のみことばなのであります。
つまりここで言わんとしていることは、聖霊の働きを冒涜した罪についてのことです。そしてそのことをあえて口に出して言ったことが大きな問題なのでは?と思います。神の働きを悪霊の働きだ、と言うときに、神さまの前に、「むだなことば」という風に見なされてしまうのです。これに関して、ここでは癒しのわざについて取り上げられていますが、聖霊の働きを冒涜することは単にそれのみにとどまるわけではありません。簡単に言えば、正しい教えが誤りであり、誤った教えを正しいとすることも、そうだと思います。もし、そういうことを実行に移してしまうときに、後の世において「言い開き」(KJV:弁明)をすることになるのです。なぜでしょうか?その理由について述べたいと思います。
一例を挙げたいと思います。先ほども申し上げましたように、第二義的な意味合いとして、パリサイ人や律法学者のように、みことばを扱う奉仕者への警告としてこのことは語られているわけなのですが・・・たとえば、レムナントキリスト教会では、聖書のことばから艱難前携挙説が偽りであることを伝えています。でも、そのことに対して、「それはおかしい、艱難前携挙が正しい」とおっしゃる牧師さんがいらっしゃるそうです。艱難前携挙説が正しいと・・・もし、本当にその牧師さんがおっしゃるように、艱難前携挙説が正しければ問題は無いと思うのですが、しかしそうではない場合に・・・絶対に・・・とは言えませんが、異を唱えてしまったことが、もしかすると神さまの前に、「むだなことば」と見なされてしまう可能性があるように思うのですが、いかがでしょうか?もちろん私個人はそんなことは全く望んではいませんが、しかし神を恐れる者として、ひょっとすると・・・と思いましたので話をさせていただきました。それで、もし、艱難前携挙説が聖書の教えとは違っている、つまりクリスチャンは艱難を通るということが正しいとして・・・しかし艱難前携挙説を信徒の人たちにメッセージをする、というときに、どうでしょうか?そのメッセージを聞いた人たちはすっかり安心してしまって、艱難のための備えをしなくなってしまいますよね?そうすると結論として、反キリストを拝む方向となり、最悪永遠の命を落としてしまう可能性が大いにあり得ますよね?その究極として・・・そういうことを語った牧師や教師は、死後、「言い開き」(KJV:弁明)をすることが求められてしまうのでは?と思うのですが、いかがでしょうか?
そして終末においては、クリスチャンや教会の背教(正しい教えを捨てること)が預言されていますので、よくよく気を付けていかなければいけないと思います。他にも挙げ出したらキリが無いと思います。でも、大事なことなのでもうひとつ例を挙げましょう。
このことも今まで何度か話していることですが、皆さまもご存知のように、聖書では同性愛のことを固く禁じております。しかしあろうことか、アメリカでは同性愛について異を唱えるクリスチャンのことを迫害したり、訴えたり、逮捕、投獄へと追い込んでおります。同性愛者がそのように扱われるのならともかく・・・聖書を片手にハンドマイクで「同性愛は非聖書的なのでやめましょう!」と言ったクリスチャンたちが逮捕され、投獄され、多額な罰金まで科せられてしまったそうです。うーん・・・何とも言えませんよね?でも、これも明らかに聖霊を冒涜する罪と言えるのでは?と思います。何しろ正しい人をそんな目に会わせたのですから。けれども結局のところ、こんな風に彼らを訴えたり、迫害したりした人たちは、悔い改めれば別として、そのままの状態で世を去ってしまうときに、それこそ神の前に「言い開き」(KJV:弁明)をしなければならなくなりますので、そのようなことは気を付けていかなければいけませんし、何が何でも避けていきたいと思います。
今回の要点をまとめますと・・・ひとつは人の悪口や陰口やそしりや下品なことや恥ずべきことばなど、神さまの前に良しとしないことばは極力慎んでいきたいと思います。そしてむしろ人の徳を高めることばを発していきたいと思います。もうひとつは、多くのクリスチャンを霊的に建て上げていくようなメッセージをみことばからまっすぐに語っていくことに努めていきたいと思います。これらのことを心がけていくときに、のちの日に神さまの前に悪い意味合いで「言い開き」(KJV:弁明)をする必要はなくなると思います。少し消極的な言い方ではありますが、神の御怒りのさばきから免れていくのではないかと思います。自分もそうですが、もちろんすべてがパーフェクトということはあり得ませんが、間違いや誤りに気付いたらその都度是正しながらも、常に正しい方向を示していくように心がけていきたいと思います。そうではなく、間違えているにもかかわらず、いつまでも意固地になってそのままでいるときに、死後、ろくでもないことになってしまう可能性がありますので気を付けていきたいと思います。
ちなみに、「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」(箴言18:21)ということも言われていますので、また、ヤコブ書にも「舌」に関して教師への警告や注意点が書かれていますので、そういうことも心に留めていきたいと思います。そして後の日にイエスさまから「生きている間、あなたはいったい何を語ったのですか?あの人もこの人も恵みから落ちていますけど、どういうことですか?」なんていう風にお咎めをもらうことのないようにしていきたいと思います。再度繰り返しますが、人の益となり徳となることや、霊的に建て上げていくものに目を向けて、実際に発していきたいと思います。そうしていくときに、「よくやった。良いしもべだ!」と神さまから誉れをいただけますので、ぜひそのことを目指していきたいと思います。
証
礼拝のメッセージの時にエレミヤ牧師が時折、「ことばも行いの一部です。ですから私たちは口の実を刈り取ることのないように気を付けていきましょう」ということを語っておられます。私も、「うんうん、たしかにその通りだなぁ」とうなずきながら聞いております。そして、人に対して発することばにはくれぐれも気を付けなければ・・・と思っております。
また、それと共に、みことばを扱う奉仕者や働き人への警告に関しても学びを受けております。先日、詩篇を通して、「神々の真ん中でさばきを下す」というテーマでエレミヤ牧師がメッセージをされていました。その時に、良い奉仕には良い報いを、しかし正しくないなら罰が下る、ということを話されていました。さらにそれに関して、当時の律法学者やパリサイ人に対して主は「ゲヘナ行き」を宣告されたことも言われていました。せっかくですので、エレミヤ牧師がメッセージされていた一部を紹介したいと思います。
【テキスト】詩篇82篇
82:2 いつまでおまえたちは、不正なさばきを行ない、悪者どもの顔を立てるのか。
ここでは教師の問題、さばかれる判断基準について言われています。それは不正であること、間違えていること、そして悪者どもの顔を立てることです。教会で正しくない人が正しいとされていることに、神は怒りを覚えています。「悪者どもの顔を立てるのか」とは、悪いほうに加勢していることを言っています。本来、神の前に正しくないのに、牧師や教師によって、正しいとされています。一例を挙げるなら、「そのままの君でいい」とか「福音の総合理解(みことばを決して行う必要は無いという教え)」がそうです。これって悪者が甘やかされている、ということと符号します。悪者がえこひいきされ、あれもこれもOKになっています。しかしこれは神さまの前にはNGです。
82:5 彼らは、知らない。また、悟らない。彼らは、暗やみの中を歩き回る。地の基は、ことごとく揺らいでいる。
「彼ら」とは、「教師、神々」のことです。これから教師が悟らない時代に入ります。そして「暗やみ」とは、艱難前携挙説とか、獣の国がヨーロッパという教理のことです。「地の基は、ことごとく揺らいでいる」とありますように、教会の土台が揺らいでいきます。たとえば、キリストはペテン師だったとか、キリストは神ではない、ということが教会で言われるようになるのでしょう。
82:6 わたしは言った。「おまえたちは神々だ。おまえたちはみな、いと高き方の子らだ。
教会の中で、牧師や教師が神のような位置に立ってしまうことを言われています。そしてこのことは偶像崇拝、器崇拝に通じます。たとえ教師が間違えていても、それが絶対になってしまうのです。
82:7 にもかかわらず、おまえたちは、人のように死に、君主たちのひとりのように倒れよう。」
「人のように死に」と書かれているように、必ずしも、神の子として死ぬとはかぎりません。もしかしたらこの世の人と同じように死ぬ可能性があり、御国を継がない可能性もあります。つまりみことばの奉仕を忠実に行わないと、さばかれる可能性があります。今は、「神の家」がさばかれる時なので、気を付けたいと思います。神のことばを優先しないときに、危ない所に入ってしまう可能性があるので気を付けていきたいと思います。ですからポイントは、牧師や教師の言うことを鵜呑みにせずに、自分で判断することです。「あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。」と主が言われている通りです。
以上のことをエレミヤ牧師がメッセージされていたのですが、私もわずかながらもみことばを扱う奉仕者として、気を付けていかなければいけない、と思いました。日常の会話もそうですが、しかし聖書では特にみことばを扱う働き人への警告に関してもあちらこちらでポツポツと言われていますので、神さまが言われていることをきちんと伝えていくように求めていきたいと思いました。今回の箇所もそうですし、エレミヤ牧師のメッセージを通しても最近学びを受けましたので、ぜひそのように心がけていきたいと思います。いつも大切なことを語ってくださる神さまに栄光と誉れがありますように。
レムナントキリスト教会
お問合わせ
Tel
E-mail koukanojisan★yahoo.co.jp
(★の箇所を@に変換してください)
天皇家は万世一系のダビデ王朝の末裔である!警告の角笛シリーズ エレミヤ著