聖書箇所 マタイの福音書16:26
16:26 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。
「『永遠の命』は重みのあるもの」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。
このみことばは、とても有名なので、ご存知の方が多いと思います。
生きていると・・・クリスチャン、ノンクリスチャン問わず、多少なりとも、「あれが手に入ったらなぁ」とか「これがうまくいくといいのになぁ」なんてことを思うことがありますよね?そんな私にも、そういった部分は若干なりともあります。そうなんですよねぇ。ごく普通に生活をしていると、時として、ふと、そんな思いが内側からわいてくる、なんていうことはごく、自然に起きてくると思います。しかし、聖書ではどう言っているのか?と言うと・・・「たとえ全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう」なんてことをズバリ、語っております。ダイヤやサファイヤの指輪、ティファニーのネックレス、ブランド物の鞄や靴や服、高級車、マイホームなど、世の中には魅力的なものが多数あるのではありますが・・・しかしどれもこれも「まことのいのち」(永遠の命)にかなうものは無いのですよ~、ということを言われているのです。
しかしながら、私をはじめ、大多数の人は・・・そう、たとえクリスチャンであったとしても、人の心はどちらかと言えば、目に見えるものにうばわれやすくなっているのでありまして、なかなかこの、「まことのいのち」に目が向けられない、というのが現実なのであります。そうなんです。「まことのいのち」というのは、のちの世で受けるものでありますので、当然この世には存在しておりませんし、まして、目に見えるものでもないので、頭ではわかっていても、しかしこの「重み」とか「価値」に関して、見出すのはなかなかむずかしいのであります。
さて、今回は、クリスチャンをターゲットに、改めてこの「まことのいのち」について話をさせていただきたいと思います。昨今、クリスチャンと名が付けば皆、間違いなく天国へ行ける!ということが言われているようですので、このようなことを聞いても、「何を今さら?」と首をかしげる方もおられるかと思います。しかし、聖書を読むかぎり、「まことのいのち」(永遠の命)を得るのは、決して簡単なことではない、ということを当教会では聖書のあちこちの箇所を通して理解しています。そしてそのことを前提に話をしていきたいと思います。
ちなみにKJV訳では、「まことのいのち」のところは、“soul”(魂)とあります。このように表現されている、ということは、わたしたちは「肉体」と「魂」の両方から成り立っている、ということが言えますよね?もちろん両者共に大事だと思うのですが、しかし聖書は、どちらかと言えば、「魂」のほうに比重を置いていることがわかります。そして、もし、「まことのいのち」(魂)を損なってしまったら、何の得もない!ということを言われているのです。
そう、いくら成績が良くて一流大学を卒業して、また、一流企業に就職をして、マイホームも持っていて、裕福な暮らしをすることができたとしても・・・これはごく一般的なことですが・・・そのほか、教会で大きな働きをし、多くの人を救いへと導き、立派な会堂もあり、信者の数も多かったとしても・・・もちろんこれらはどれもこれも良いことではあるのですが・・・しかし、そうだとしても、もしも、「まことのいのち」を損じてしまったらどうでしょうか?そして聖書はこういうことが起きる、ということを前提に語っておりますので・・・そう、たとえクリスチャンであっても、しかし、「まことのいのち」をミスする人がいるから、気を付けなさい!ということを前もって警告として言われているのでは?と思います。
以前、何かの本を読んだときに、「あらゆるものを犠牲にしても、しかし天国をあなたの住まいにするようにしてください」ということが書かれてありました。つまり、上記のことばにもありますように、全世界を得る、なんていうものとも、比べられないほどに、「まことのいのち」は優ったものなのですよ~、と言われているように思います。ですから、多少の困難があったとしても、ゲットすべきものなのです。そして、聖書の一面の真理に、クリスチャンは永遠の命をゲットしてなんぼのものである、ということも言えると思います。もし、そのことを失敗してしまったら、いったいなんのためのクリスチャン生活だったのか、わけがわからない結論に終わってしまうのです。そして、このことばかりは、後悔してもしきれないので、真剣に考えていきたいと思います。
また、パウロが書いた手紙の中に、「賞を取れるように走りなさい」ということが書かれているのですが・・・ちなみに、「賞」とは、クリスチャンがのちの世で受ける「栄誉」とか「誉れ」のことを言われていると思うのですが・・・そしてそれはもしかすると、「永遠の命」のことをも言われているのかもしれませんが・・・
たとえば、マラソンで、途中までいくら先頭で走っていても、さいごのスパートで何人もの人に抜かれてしまったら、賞は取れませんよね?クリスチャン生活も、それと同じことが言えるのでは?と思います。いくら色々と学びをしたり、教えを受けたりしても、しかし、さいごまで「まことにいのち」に向かって歩まないのなら、残念ですが、「永遠の命」を得るのはむずかしいと思いますが、いかがでしょうか?そう、たとえこの世ではうまくいかなったり、欲しいものが手に入らなくても、しかし、「まことのいのち」にこそ価値があり、そしてこれは非常に重いものでありますので・・・なんと言っても、「永遠」のことですから。ゆえにこの世のことにあまりにも引張られてしまって、損なうことのないように気を付けていきたいと思います。
さいごに「まことのいのち」(永遠の命)を得るためにはどうすればいいのか?について、簡単に話をしたいと思います。そのヒントがマタイの福音書7章に書かれています。
参照 マタイの福音書7:21
7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
「天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです」とありますように、神さまの御心を行う人が、そのまま天の御国に入るのです。ですから、ぜひ、神さまの御心を祈り求めて、そのことを実践していく歩みをしていきたいと思います。そしてくりかえしますが・・・「まことのいのち」(永遠の命)は、神さまの前に非常に重みがあるものですし、のちの世において、天と地ほどの差をもたらしますので・・・それこそ、ゲットできなければ、「永遠の忌み」(地獄、火の池)に入ってしまう可能性がありますので・・・よろしければ、このようなこともご理解くださると幸いに思います。
レムナントキリスト教会
お問合わせ
Tel
E-mail koukanojisan★yahoo.co.jp
(★の箇所を@に変換してください)
天皇家は万世一系のダビデ王朝の末裔である!警告の角笛シリーズ エレミヤ著