聖書箇所 マルコの福音書1:22
1:22 人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。
「『権威』ということばについて」というテーマで、みことばに沿って見ていきたいと思います。
この箇所は、前の節を読むと分かるのですが、イエスが会堂(新約時代で言えば教会)に入って行き、そこでメッセージをされた時のことです。そして書かれていますように、その時に人々はイエスの教えに驚きました。それは、「権威ある者」のように教えられたからでした。
さて、今回は、「権威」ということばに着眼してみたいと思います。「権威」のことは、クリスチャン、ノンクリスチャンに関係無く、ある程度御存知だと思います。一家で言えば、家長の立場がそうです。また、学校のクラスでは担任の先生となり、政治の世界では首相であり、職場では立場にもよりますが、社長であったり部長であったりいわゆる自分よりも上の立場の人がまさしくそうであると言えます。また、教会においては牧師とか神父とか教師とか指導者の立場が権威に該当します。当然個々の人の立場によって権威は変わってきますが、いずれもそれぞれの権威に従っておられると思いますし、聖書的にもこのことが奨励されております。そうです。様々な権威がこの世には多く存在するのではありますが、聖書において、「預言者の権威」ということが一面言われておりまして、そのことについて話をしたいと思います。それに関して、この度はエレミヤの部屋のホームページのメッセージを紹介させていただきたいと思います。以下、エレミヤ牧師によるメッセージです。
【聖書箇所】マタイの福音書21:23-27
23 それから、イエスが宮にはいって、教えておられると、祭司長、民の長老たちが、みもとに来て言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか。」
24イエスは答えて、こう言われた。「わたしも一言あなたがたに尋ねましょう。もし、あなたがたが答えるなら、わたしも何の権威によって、これらのことをしているかを話しましょう。
25 ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか。」すると、彼らはこう言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。
26 しかし、もし、人から、と言えば、群衆がこわい。彼らはみな、ヨハネを預言者と認めているのだから。」
27 そこで、彼らはイエスに答えて、「わかりません。」と言った。イエスもまた彼らにこう言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。
以前から一つ疑問に思っていることがありました。それは、ルターは何の権威によってローマ法皇に反する言葉を語ったのかということです。別の言い方をすると、ルターは権威と秩序という面で罪を犯してはいないのかどうか?という疑問です。ルターは当時のローマ教会の問題を正しく認識し、教会への質問書を作成しました。それにより、偉大な宗教改革のわざが始まったのです。彼の働き、貢献の偉大さは、改めて言う必要もありません。もし、彼があえて教会の間違いを正さず口をつぐんでいたなら、今でも私たちはローマ・カトリックの間違えた教理の中にいたかも知れないのです。彼の業績は偉大です。しかし、私が問題にしたいのは、彼が偉大なのか?あるいは間違えていたのか?ということではなく、彼は教会の権威に従っていたのか?それとも権威を侵してしまったのか?ということです。彼はこの点で罪を犯したのではないでしょうか?
なぜならその当時、教会はローマ・カトリック教会しかなく、そのローマ・カトリックの権威の頂点は法皇だったからです。たとえ法皇が間違えていたとしても、神によらない権威はないので聞き従うべきだったのではないでしょうか?ルターはたしか、修道僧だったはずなので、当然法皇の権威の下にあったはずです。それなのに、このように法皇の語る教え、方針、方法と違ったことを公然と唱えて良いものなのでしょうか?どちらが正しいのか?間違えていたのか?と言うなら、私たちは皆、ルターが正しいことを知っています。しかし彼は教会に建てられている権威の流れに従ったのでしょうか?プロテスタント(反対する者)などという名前を付けられた人たちは、権威に従ったと言えるのでしょうか?
彼はローマ教会の語っている教理と全く正反対のことを声高に語ったのですから、教会の権威に従ったようには思えません。それでは彼はこの面で罪を犯したのでしょうか?もし、この面で罪を犯していないと言うなら、どのみことばが彼を弁護しているのでしょうか?これが私の疑問だったのです。
このことを考えていたとき、ある日聖書を読んでいて分かったことがあります。それは、「預言者の権威」ということです。パリサイ人がイエスに同じような質問をしている箇所があります。みことばを参照しましょう。
「何の権威によってこれらのことをしているのですか。誰があなたに権威を授けたのですか。」
彼らにはイエスが神の民の権威と秩序を乱す者、神の権威の代表権威である祭司、神のことばをあずかるパリサイ人、律法学者の権威を侵す者であると思えたのです。イエスは会堂の権威者である彼らと全く違うことを言っていたからです。それに対してイエスの与えた答えは興味深いものです。「ヨハネのバプテスマはどこから来たのですか。天からですか。それとも人からですか。」と言うように、預言者であるバプテスマのヨハネに関して、そして彼の権威に関して言及しています。
聖書の中ではそれぞれのシーンで、イエスの多くの異なる面について語られています。たとえばヨハネ3章でニコデモと新生について語られたとき、聖書はイエスの、「教師」という面について語っています。それはさりげなく書かれている次のようなことばにより分かります。「先生、私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。」「あなたはイスラエルの教師でありながらこういうことがわからないのですか。」(ヨハネの福音書3章2,10節)
さて、「権威」という事柄に関して聖書がイエスについて語った時、たとえばアロンのような祭司について、または、ダビデのような王に関しては言及しませんでした。かえって預言者であるバプテスマのヨハネについて述べました。このことは象徴的です。また、このマタイの福音書21章の構成を見ると、このイエスのことばの後、関連した例話が続きます。そして、最後の節にこのように書かれています。「群衆はイエスを預言者と認めていたからである。」(マタイの福音書21章46節)
私はここからこのような語りかけを受けるのです。イエスが肉体をもってこの地上におられたとき、王族の一人として生まれたわけではありません。また、祭司やレビ人の家に生まれ、その職業を継いだわけでもありません。人間的にはそれらの立場で来られたのではないのです。もちろん、これは人の前での話です。神の前では別です。イエスはこの地上で彼らに語られたとき、預言者という権威の下で語られました。それはなぜでしょう?イエスには神の子としての権威、真の大祭司としての権威もあったのに、なぜ、その権威についてここでは語られなかったのでしょうか?
私はこう思います。それはイエスが、彼の後に教会時代に遣わされる多くの預言者の模範となるためではないでしょうか?イエスは、「だから私が預言者、知者、律法学者たちを遣わす」(マタイの福音書23章34節)と言われました。これらの人たちも、同じ天からの権威の下で来るということを含んで言われたのではないかと思っています。
たとえばルターのような預言者です。彼は人からの権威の下でなく、神の権威の下で語ったのです。そして神がルターにその言葉を与え、権威を与えたので、彼のわざは神にあって成就したのです。イエスが来られたとき、純粋であるべき神の民、また、特にその指導者たちは大きく神の御心から外れていました。イエスはそれを正すべく神から命じられ、その通りに語ったのです。イエス個人の権威について見るなら、神のひとり子であり、真の大祭司です。しかし、それはイエスのみの特別な役割です。イエスの後にも神の民にその過ちを正すため語るべく、神によって遣わされる預言者の人々がいます。ここでは、その人たちによって立つ権威のことをも踏まえて、イエスは語られているのではないかと思います。
聖書に書かれている権威について、私は2種類の権威を見ます。1つはピラミッド型の権威です。すなわち神の民の王、そして、王の下に整然と定められた、1,000人、100人、10人の長たちです。そしてもう1つは、預言者という神からの直接の権威に従う職務です。預言者の特徴は、神から直接言葉をもらうことです。そこには人が介在しないのです。
旧約時代、この2つの権威はうまくバランスをとり、機能していました。イスラエルの王国の時代には、良い時代も悪い時代もありました。良い王も悪い王もいました。良い王、悪い王というとき、これは王個人の問題にはとどまりません。王が過ちを犯し、たとえばバアルを拝んだりすると、民全体にその過ちは及ぶのです。これは今の時代に置き換えてみても同じです。王、すなわち神の民の指導者たちが過ちを犯すとき、それは全教会に及ぶのです。
権威の構造がピラミッド構造である以上、どうしてもそのようになるのです。たとえばものみの塔、そしてローマ・カトリック教会を見て下さい。彼らの組織の統率は立派なものです。また、そこで従う人たちの服従も立派です。しかし、1つ問題があります。それはその王、すなわち指導者が間違えたとき、それを是正する方法が無いのです。もし、王や指導者に何か意見すれば、権威に逆らうことになるからです。
この誤りを、神はどのようにして正すのでしょう?神の方法は、どのようなものでしょう?王、そして神の民の誤りを正すために、神が用いた方法は預言者を遣わすことです。畏れ多くも王の面前へ出て行ってその誤りを正すとは、預言者は分を超えているのではないでしょうか?権威を侵してはいないでしょうか?しかし、そうではないのです。預言者は神から直接任命されているのでそれを語る権威、資格があるのです。バプテスマのヨハネがヘロデ王の誤りを正したように、預言者は神の民、そして王を正す権威を神から受けているのです。神の国の王、そして民に過ちがあるとき預言者を遣わし、そしてその預言者により過ちを正す、これが神の方法なのです。
さて私たちは今、新約の時代にいます。この旧約の原則、方法を新約の教会にも適用できるのでしょうか?私は適用できると思います。なぜなら旧約聖書の多くのことは、今の時代の私たちに教えを語るたとえだからです。イエスは、「私が預言者を遣わす」と言われました。これは新約の預言です。旧約時代の預言者に相当する器を新約の時代にも送ると言われるのです。
旧約時代、エリヤやエリシャといった預言者が神の民や王の過ちを正したように、新約時代にも、その働きを成す預言者を遣わすと言われるのです。たしかにこのイエスのことばは新約において成就しています。教会が間違えたとき、その間違えを正すため神は適切な器を送られました。すなわちルター、カルビン、ウェスレーなどです。彼らは旧約聖書で言う預言者とは性質は異なりますが、その時代の正しい神の御心をとらえ、忠実に神の民の王、すなわち指導者に告げました。その意味ではたしかに預言者の働きを成しています。
ペテロの手紙を見ると、旧約のにせ預言者は、今の時代のにせ教師に相当するようです。ですから今の時代には、旧約時代の預言者の働き、つまり神の民の誤りを正すという働きを教師が成すのではないかと私は思っています。
ですから私は、教会における権威と秩序を考えるとき、2つのことを注意することが必要だと思っています。1つはピラミッド型の権威と秩序の枠組みで、教会の中で自分が置かれた位置で権威に従うこと、自分の分をわきまえることです。そして、もう1つは神から直接与えられる預言者の権威を認めることです。多くのクリスチャンにとって、最初の権威を認めることは比較的楽です。しかし、難しいのは2つ目の預言者の権威を認めることです。
パリサイ人たちが、「何の権威によってこれらのことをするのですが」と問いただしたとき、彼らはイエスの権威に疑いを持っていました。彼らの目には、イエスが神からの権威を持っているとは思えなかったのです。エレミヤにしても、ミカヤにしてもそうです。人々はこれらの預言者が、神からの権威で語っているとは信じませんでした。この傾向は新約の時代においても同じです。ルターにしてもカルビンにしてもウェスレーにしても、その時代の多くの人々にとっては神から遣わされた器とは、必ずしも信じられていませんでした。ですから彼らは大いに迫害されたのです。
多くの人々にとって、神から真に遣わされた預言者の権威を正しくとらえることは難しいのです。ですから、私たちはこれらの失敗から教えを受けなければいけません。
1つは、神がたしかに教会に預言者を遣わすということを信じることです。神は教会の中に間違えがあったとき、それを見過ごしません。それを預言者、つまり神が遣わされたしもべを通して正します。ヒゼキヤはユダ国の偉大な王です。彼は、「全て父祖ダビデが行ったとおりに主の目にかなうこと」を行ったのです。「アシェラ像を打こわしモーセの作った青銅の蛇を打ち砕いた」のです。アッシリア王セナケリブが大軍をエルサレムに遣わしたときも主に頼り、信仰の大勝利を得ました。しかし、彼は間違いを犯しました。バビロン王が使者を遣わしたとき、「全ての宝庫、宝物蔵にあるすべての物」を彼らに見せたのです。そのとき預言者イザヤが主から遣わされ、彼の間違えを指摘するのです。彼は神の前に例外的に正しい立派な王でした。しかし、彼が正しいときに預言者が遣わされてくるのではないのです。
そうではなくて彼が問題を起こしたとき、それを指摘するため、時には矯正するため、預言者が遣わされるのです。預言者は堕落した教会にしか送られないと思ってはいけません。教会が10のうち9の正しいことをしているとき、その正しい9のことのためでなく、残りの1つのことのため、預言者が遣わされるのです。100のうち1つしか誤りがない正しい教会であっても、その1つを神が正したいと思ったとき、預言者が遣わされるのです。
もう1つは、預言者の働きは原則として多くの人には受け入れられないものだと知ることです。「私が先祖の時代に生きていたら預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう」と自信を持っていた律法学者、パリサイ人に対して、イエスは預言者を殺した者たちの子孫だと自分で証言していると言われました。自信を持っていても、いざ自分たちに預言者が遣わされたとき、正しく対応するのは難しいようです。
預言者を預言者として認めるのは難しいのです。外国から鳴りものいりでやって来たような有名な器、たとえばシンディ・ジェイコブスのような預言者なら、私たちはその言うことをすべて受け入れないまでも、少なくとも耳は傾けるでしょう。しかし、神が預言者を送るとき、いつもそのような鳴りものいりの方法を用いるとは限りません。そうではなく、神はある日、名も無いような兄弟、または姉妹を教会への神のことばを語る者として遣わすかもしれません。それを正しく見分けるのが難しいのです。
話を変えて、もし、ある人に神から教会への預言が来たならどうすべきでしょう?答えははっきりしています。それを吟味して、たしかに神から来たものだと確信できたら語ることです。聖書が預言者について記していることは、彼らがなにしろ語ったということです。歌わないカナリヤに価値が無いように、語らない預言者には何の意味もありません。もちろんすべてのことは秩序をもってすべきなので、秩序を乱したり、語るのを許されていないところで語ったりすべきではありません。しかし、許された範囲の中では語るべきなのです。なぜなら歌わないカナリヤはあっても、語らない預言者はありえないからです。
語ったことの結果はあまり楽しいものではないかもしれません。エレミヤやエゼキエルのように、また、ルター、カルビン、ウェスレーのように、非難されたり迫害されたりするかもしれません。聖書に度々書かれているように、預言者の歩みは十字架を負う歩みなのです。
以上、エレミヤ牧師によるメッセージですが、いかがでしょうか?「預言者の権威」についてもご理解いただけましたでしょうか?ちなみにレムナントキリスト教会は小さな群れなのでそれこそ知る人ぞ知る、という感じではありますが、しかし終末に関しての啓示が神さまからポツポツと示されています。そういう意味合いでは、それこそ預言者の働きの一端を担わせていただいております。そして、このようなことを申して良いか分かりませんが、内容はどちらかと言えば、ネガティブなものが多いです。たとえば、全てではないにしろ公のほとんどの教会の教理が崩壊するとか、キリスト教会やクリスチャンが背教に向かっているとか、クリスチャンは艱難時代を通るとか、です。少なくとも、キリスト教会やクリスチャンの繁栄に関しての示しは、今のところ、ほぼゼロと言ってよいほどです。けれども、主からそのように示された以上、今回のメッセージではありませんが、それこそ語る責任があると思っておりますので、礼拝のメッセージやホームページやニュースレター等で、お伝えしています。そして反応はどうか?と言えば、稀に喜んでくださったり歩みを変えていく方もおられますが、しかし大半の人々には受け入れられなかったり、あるいは「もう、ニュースレターは送らないでください」なんて言われたりすることもあります。かつて悪霊のリバイバル集会のビデオを販売したときには、ペンテコステ系のクリスチャンからの反論もあったそうです。
そんな風に、ウェルカムされることはほとんど無いのですが、しかし神さまから語るように示されたことは、たとえ人々から反感を買っても、あるいは相手にされなくても、何らかの方法で伝えるようにしています。エレミヤ牧師が語られていましたように、たしかに十字架を背負う歩みではありますが、しかしそのような中でも、神さまが助けてくださり、導いてくださっていますので、これからも続けていきたいと思います。いつも大切なことを語ってくださる神さまに栄光と誉れがありますように。
レムナントキリスト教会
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