聖書箇所 マルコの福音書8:31

 

8:31 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。

 

「多くの苦難の後に受け継ぐ『天の御国』」というテーマで、みことばに沿って見ていきたいと思います。

 

上記みことばは、イエスさまが弟子たちに語られたことです。「三日の後によみがえらなければならない」とは、皆さまもご存知のように、「復活」のことを言われております。そして実際にこのことは起きましたよね?イエスさまはマグダラのマリヤに最初に現われ、ご自分の弟子たちをはじめ、多くの弟子たちの前に姿を現わしました。そしてその後、昇天されて天の父なる神の右の座に着座されました。けれども、これらのことの前に、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、」ということが言われています。そうなんです。ここで理解出来ることは・・・イエスさまはこの世での人生を謳歌されて栄光を受けられたわけではありません。そうではなくて・・・「多くの苦しみを受け」とありますように、あらゆる苦難に満ちた生涯でした。しかも、「殺され」ともありますように、最後は十字架に付けられて殺されてしまいました。でも、その後に待ち受けていたのは何だったのか?と言うと、神さまからの誉れとか勝利の栄冠とか天の御国でした。そして、私たちも後に「天の御国」を受け継ぐ、というときに、この世においての歩みの中で、「苦しみ」や「苦難」が許されてしまう、という面を冒頭のみことばにおいて語っているのでは?と思います。同じようなことが使徒の働きにもありますので、よろしければ見てみましょう。

 

参照 使徒の働き14:22

14:22 弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみ(KJV:試練、苦難)を経なければならない。」と言った。

 

このことばはパウロとバルバナがルステラとイコニオムとアンテオケで宣教された時に言われたことです。そして、「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」ということを言われていますが、このことばはイエスさまが言われたこととかなり似ていると思います。言い方は少し異なりますが、しかしここでも、「多くの苦しみ(KJV:試練、苦難)」ということが言われています。イエスさまお一人が、苦しみや苦難を受けてそれで万事OKなのではなく、パウロたちもイエスさまと同じような歩みをされていたことが分かりますよね?しかも、「経なければならない」とあります。ちなみにこのところは英語で、“must”という単語が使われています。要は、「苦難や苦しみは必須ですよ~」ということを言われております。このことばからも・・・私たちが望もうと望むまいと、しかし、「天の御国」を本気で目指そう!というときに、残念ながらこの世においては、「苦難」や「苦しみ」ということを考慮したり、視野に入れて歩んでいかなければならないことが理解出来ます。

 

では、イエスさまやパウロたちが受けた「苦しみ」とか「苦難」とは一体どういうものだったのでしょうか?そのことを理解するために、もう一度冒頭のみことばを見てみたいと思います。

 

8:31 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。

 

「長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、」のことばにひとつの語りかけを私個人は受けました。細かい話ですが、「捨てられ」のところは、KJV訳では「拒絶する」「退ける」とあります。そしてこの記述を通して、イエスさまがお受けになった苦しみについて私たちはある程度の答えを得ることが出来ると思います。長老、祭司長、律法学者たちから拒否される、という苦しみです。彼らはどういう人たちなのか?と言うと、牧師や祭司等、要は聖職者の立場の人々でした。こういう人たちから、イエスさまは数々の苦しみを受けられたのでした。しかも、「律法学者」とか「牧師」というのは、メッセージをする立場の人たちですよね?ゆえに聖書のことばや教えに詳しいわけなのです。そういう意味では、イエスさまと同じく、みことばのプロなのです。そんな風に見ていくと、だったらイエスさまのことを拒否する必要なんてないじゃない?それどころか、両者共にプロなんだからさぁ、退けるどころか仲の良い一致があるんじゃないの?と思われるかも知れません。

 

それでは、どうして?と思われるでしょう。なぜ、そういうことが許されたのでしょう?同じみことばを扱う立場でありながら、しかし一方は苦しめられ、もう一方は苦しめる立場だったのでしょうか?それは受けている霊が両者共に違っていたからなのでは?と思います。不思議ですよね?同じ聖書を読みながら、霊が違うなんてことがあり得るの?しかもみことばを扱う奉仕者は皆、聖霊を受けているはずでしょう?と思われるかも知れません。かつて私もそう思っていました。牧師のようにみことばを扱う奉仕者は全員聖霊を受けていると・・・しかし、イエスさまを拒否する、ということから、そうではないことが分かりますよね?本当に彼ら、律法学者や祭司長たちがイエスさまと同じく聖霊を受けているのでしたら、イエスさまを歓迎することはあっても、拒否したり、苦しめることは無かったと思います。けれども、もし、彼らが聖霊以外の別の霊、すなわち悪霊を受けていたのなら、あり得ると思います。ちなみにヨハネの福音書の中で、イエスさまはパリサイ人たちに対して、「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。」(ヨハネの福音書8章44節)とおっしゃっていました。このことからクリスチャンと言っても、はたまたみことばを扱う奉仕者であっても、聖霊だけではなく、悪魔、つまり悪霊からの人もいる、ということをご理解いただけると思います。

 

そうなんです。とても信じがたいことではありますが・・・イエスさまとパリサイ人や律法学者たちの間で、霊の対立、すなわちぶつかり合いが起きていたのです。そしてイエスさまは神さまの御子なので当然聖霊を受けていたわけなのですが・・・しかし結果として聖霊以外の別の霊、すなわち悪霊を受けていた人たちから苦しめられたのです。そう、このことからひとつご理解いただきたいことがあります。同じみことばを扱う立場であっても、しかし聖霊ではない別の霊、すなわちサタンとか悪霊を受けている、というときに、御霊によって歩んでいるクリスチャンのことを迫害する立場に回ってしまう、ということなのです。ゆえに正しく主に着くクリスチャン、イエスさまのように御霊によって歩んでいるクリスチャンは苦難を受ける、ということになるのでは?と思います。パウロたちにしてもこのことは然りと言えます。

 

私たちがイエスさまをはじめ、かつての12弟子やパウロのような歩みをしていくときに・・・大なり小なり同じような目に会う、要はイエスさまがお受けになったような苦難や苦しみが許されてしまう、ということは概ねご理解いただけましたでしょうか?しかしそうではありまして・・・パウロたちもお勧めしていましたように、私たちがイエスさまと同じような目に会ったとしても、そういった苦しみや苦難を乗越えていくことに御心がありまので・・・そしてきちんと全うするなら、その後には「永遠の命」や「天の御国」が約束されますので・・・もし、そういった状況が許されたとしましても、途中で投げ出してしまうことなく、諦めてしまうことなく、神さまの御心をきちんと行って永遠の命を得ていきたいと思います。よろしければ、このようなこともご理解いただけると幸いに思います。いつも大事なことを語ってくださる神さまに、栄光と誉れがありますように。