聖書箇所 マルコの福音書9:35

 

9:35 イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」

 

「『しんがり』となって仕えていくなら」というテーマで、みことばに沿って見ていきたいと思います。

 

上記みことばは、その前の節で道々弟子たちが、誰が一番偉いかを論じていたことに対して、イエスさまが言われたことばです。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」と。そして今回は、「しんがり」ということばを通して、神さまがこのようなことを語っているかなぁ?と思うことについて話をさせていただきたいと思います。

 

ところで、この世において、「しんがり」ということばは、恐らく、いや、ほぼ人気はないと思います。俗語ではありますが、いわゆる「びり」であります。意味合いとしては、「一番あと」ということです。たとえばかつての運動会で100m走という競技がありましたよね?6人位で走って、三位までの人は、赤とか黄色とか緑とか、いわゆる原色のリボンをもらえるのですが、4位以降の人は皆同色のリボンだったと思います。色はあまり目立たない薄いピンクだったと思います。なので、当然皆、原色のリボンをもらえるように、なおかつトップを目指して走るわけなのですが・・・しかし、私のように元々足が遅い場合は、なんとか「ビリ」にならないように、せめて5位にはなりたい!なんていう思いで一生懸命ダッシュするわけです。そうなんです。このような例が良いかどうか分かりませんが・・・申し上げたいことは、私だけにかぎらず、誰もが「ビリ」、いわゆる「しんがり」になることは、あえて好まないのでは?ということであります。

 

ところが、聖書では、真逆のことを言われております。「しんがり」になりなさいと。さらに、「みなに仕える者となりなさい」と。しかしこのことは、理由無しに言われているのではなく・・・もし、「先頭に立ちたいと思うなら」と条件が付いています。裏返すなら、イエスさまの言われたことをそのまま実践していくなら、「先頭に立つことが出来ますよ~」ということなのです。そして、もしかするとこのことが実際に実現するのは、現世、というより、来世、すなわち後の世においてなのでは?と思うのです。その理由について、以下のみことばを見てみたいと思います。

 

参照 マルコの福音書10:45

10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

 

皆さまもご存知のように、「人の子」とは、イエスさまのことです。御子であるイエスさまが、なんと!「仕えられるためではない」と、さらに「かえって仕えるためである」と言われました。そしてイエスさまはこのことばの通り、そのことを実践されて・・・さらにどうなったのか?と言うと・・・人々に嘲られ、ムチ打たれ、さいごは十字架に付けられて命を失いましたよね?ですから、この世において、少なくともイエスさまに関しては「先頭」になることはありませんでした。それどころか、さいごまで蔑まされた人生だったと思います。何ひとつ悪いことをしていないのに・・・逆に良いことしか行っていなかったにも拘わらず、「罪人」として地上での生涯を終えたのですから。しかし、後の世はどうなったのか?と言うと・・・人前ではどこまでもぞんざいに扱われたイエスさまではありましたが、けれども神さまから誉れを受け、神さまの右の座に着座されました。それだけでなく、すべての人の「王」となりました。しかも、世々、すなわち永遠にわたって、王国を治めるのです。

 

そうです。イエスさまはこの世では、常にしんがりとなってみなに仕え、その結果、「先頭」に立ったパターンであります。ゆえに、もし、私たちも来世、すなわち後の世においてイエスさまのように神の国を治めたい!神さまからそのようなことを任されたい!と思うのなら、イエスさまと同じような歩みをしていくことをおすすめいたします。そうするなら、全く同じ、とまではいかなくても、しかし、イエスさまと共に後の世を治める立場になれるのです。素晴らしいことですよね?ハレルヤ!

 

今回のポイントを述べます。この世においてもそうですが、しかしクリスチャンであっても、元々の私たちの性質はどちらかと言えば、「しんがり」よりも、「トップ」を好むかも知れません。しかし、聖書においては、逆説的なことを言われておりまして・・・「しんがり」となること、そして、みなに仕えていくことをおすすめしております。そしてこのことを少しずつでもお祈りの中で、聖霊さまの力によって行っていくときに、この世においてはどうか分かりませんが、しかし後の世においては、王国(神の国)をイエスさまと共に治める立場になれますので・・・もし、そうかも知れないなぁ、なんて思われましたら、ぜひ、実践してみてください。

 

かつてこういう話をエレミヤ牧師から聞いたことがあります。エレミヤ牧師が以前の教会にいた時のことですが・・・当時は牧師ではなく、信徒として歩みをしていたときのことです。すでに弟子として、献身の歩みはされていたそうですが、教会のありとあらゆる奉仕を忠実になさっていたそうです。特に日曜日は大忙しで・・・男手が少なかったという理由もあり、礼拝の日は、少数の兄弟と共に朝早くから教会に来て、必要な荷物を運び、また、夜は遅くまで、さいごの後片付けまでなさっていたそうです。また、集会の時に小さなお子さんの面倒も見ておられたそうです。あれもこれも、と、色々と奉仕をお願いされていたそうですが、しかし何ひとつ、文句も言わず、不平も言わず、反対に喜んでなさっておられて・・・しかもいつも忠実になされていて・・・その結果、どうなったのか?と言うと、その後、多少の紆余曲折はありましたが、主がエレミヤ牧師をレムナントキリスト教会の牧師に任命され、しかもそれだけではなく、終末の啓示の解き明かしやみことばのたとえの意味合いや奥義を紐解く働きに召してくださいました。そして多くの恵みや祝福にさらに入っていかれたそうです。しかも、そのことを通して多くの人が真理を見たり、救われたり、助けを受けたりしています。ですから、もしかすると、来世だけの話ではなく・・・今の話のように、この世においても成就する場合もあるのでは?とも思います。そして今もなお、エレミヤ牧師はしもべとして、神さまが与えてくださった召しに忠実に仕えておられます。

 

そうです。私たちもエレミヤ牧師のように、与えられた奉仕や召しにひたすら忠実に従っていくときに、同じようなことが約束されたり、起きてきたりするのでは?と思います。ですから、あのこと、このこと、と牧師からお願いされたり、おすすめされたりしたことや、あるいは神さまからダイレクトに「このことをしてみなさい」「これこれのことは、こうしなさい」という風に指示を受けたりしましたら、ぜひ、そのことに応じていきたいと思います。また、その時には、喜んで感謝してあらゆるすべてのことを、ぜひ、行っていきたいですよね!よろしければこういう点に関しても、ご理解いただけると幸いに思います。いつも大事なことを語ってくださる神さまに、栄光と誉れがありますように。