聖書箇所 マルコ7:24-30

 

7:24 イエスは、そこを出てツロの地方へ行かれた。家にはいられたとき、だれにも知られたくないと思われたが、隠れていることはできなかった。

7:25 汚れた霊につかれた小さい娘のいる女が、イエスのことを聞きつけてすぐにやって来て、その足もとにひれ伏した。

7:26 この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生まれであった。そして、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようにイエスに願い続けた。

7:27 するとイエスは言われた。「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」

7:28 しかし、女は答えて言った。「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」

7:29 そこでイエスは言われた。「そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」

7:30 女が家に帰ってみると、その子は床の上に伏せっており、悪霊はもう出ていた。

 

今回は、この箇所での神様の語りかけを、更に明確にとらえていくために、マタイ15:21-28を参照しながら、みていきたいと思います。

参考までですが、聖書は、第2ペテロ1:20に書かれているように、私的解釈を施してはならないと言われています。

つまり、その言葉のみからの解釈ではなく、別の聖書箇所を参照にしながら、その御言葉が語っていることを理解しなさいと言われています。

 

※私的解釈に関して、詳細をお知りになりたい方は、エレミヤの部屋のメッセージNo.9を御覧ください。

 

15:21 それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。

15:22 すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」

15:23 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。

15:24 しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。

15:25 しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。

15:26 すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。

15:27 しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」

15:28 そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。

 

 

まず、ここに書かれている、ツロとシドンの意味合いを見てみたいと思います。

ツロとは「岩、力」、シドンとは「魚釣り、たくさんの魚」を意味します。

岩は、弟子の歩みに通じることで、魚はクリスチャンのたとえというふうに考えていくと、ここでイエス様は、弟子やクリスチャンが大勢集まっている場所に行かれたことが理解できます。

 

25,26節を見ると、一人の女が、子供を悪霊から解放してくださるよう、イエス様に助けを求めています。

でも、イエス様は、すぐに彼女の要求に応じませんでした。

なぜでしょうか?

実は、この女性は、クリスチャンではないのです。

27節で「まず、子供たちに満腹させなければなりません」と、イエス様は言われているのですが、子供たちというのは、クリスチャンのことを指しているのではないかと思います。

なぜなら、そのあとに「子供たちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくない」と言われているからです。

パンは、御言葉やメッセージに通じることですが、基本的に聖書を読んだり礼拝のメッセージを聞くのはクリスチャンです。

犬は異邦人にたとえられているのですが、まず、クリスチャンが御言葉に触れることが大切だと言われているのだと思います。

実は、このことを通して、私たちに語っていることがあります。

マタイ15:24にそのことについて書かれています。

「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と、イエス様は言われました。

イスラエルや羊は、クリスチャンのことを指します。

ここで言われていることは、罪の中に死んでいるクリスチャン、分かりやすく言うと、神の民であっても滅びに向かっているクリスチャンのところに、イエス様は行くとおっしゃっているのです。

クリスチャンが滅びるとは、何とも衝撃的なことですよね。

今日、クリスチャンと名が付けば皆天国だとか、地獄は無いとかそのようなメッセージを聞いている人たちにとっては、寝耳に水かも知れません。

しかし、御言葉はそのように言っているので、素直に耳を傾けていきたいと思います。

この時も、イエス様は、伝道されていたのです。

伝道と言うと、私たちクリスチャンの今までの常識や感覚だと、神様のことを知らない未信者のほうに、ついつい目がいってしまいます。

でも、イエス様は、そうではなく、クリスチャンのところに向かわれたのです。

マタイ10章にも、そのことに類似したことが書かれているのですが、そこでは、福音を宣べ伝えさせるために12弟子を遣わしました。

そして、「イスラエルの滅びた羊のところに行きなさい」と言われました。

つまり、その時も、未信者のところではなく、神様を信じているクリスチャンのところに行くように命じられました。

このようなことから、クリスチャンだからといって、皆が救われているわけではないことが理解できるかと思います。

クリスチャンがまともに救われていない、それなのに、神様を知らない未信者の救いが優先されることは無いということを、ここで言われているのだと思います。

このことに関しては、使徒13:46に書かれているように、パウロがユダヤ人(クリスチャン)に対して「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。」とはっきり言われている通りです。

実は、大半のクリスチャンが、神様のことばを正しく理解しない、あるいは、きちんと聞こうとしない、はたまた、御言葉を曲げてしまっている、すなわち真理を信じない、御言葉を受け入れないために、滅んでしまうことを言われているのです。

たとえば、神はどこまでも愛だから人を地獄に落としいれることはないとか、地獄は存在しないとか、クリスチャンは艱難を通らずにその前に天に挙げられるとか、聖書には全く書かれていないそのような教えを鵜呑みにしてしまうと永遠の命は危ないと思います。

特に終末は、キリスト教界に、世的なものを通して、ありとあらゆる嘘・偽りが入り込んできています。

そして、残念なことに、大半のクリスチャンは吟味もせずに、そのようなものを安易に受け入れてしまっています。

イエス様の時代、つまり旧約の終わりの神の民がイエス・キリストを正しく受け入れられず、十字架につけてしまい、結果として滅ぼされてしまいました。

新約の終わりの時代のクリスチャンも聖書とは逆のことを信じ、最後まで御言葉を拒否してしまいキリストの再臨についての正しい知識を得られずに、永遠の命を失ってしまうことが考えられます。

ゆえに、真理に目を向けて歩みを正し、真の意味合いで神様に立ち返っていくように呼びかけていきなさいとの語りかけを、この箇所を通して教えられました。

 

本日の要点をまとめます。

福音は、まず、クリスチャンに伝えられていくことです。

しかし、クリスチャンが心を頑なにしてしまって、受け入れない場合、救いは異邦人にいってしまうことをご理解いただきたいと思います。

ここに書かれている女性のように、たとえ異邦人であっても、御言葉に対して素直に応答していく人に祝福や恵みや助けが与えられるのです。

かつて、パウロがユダヤ人に対して福音を語った時に、反対され、口ぎたなくののしられました。

その時に、「これからは異邦人のほうに向かいます。なぜなら主は私たちにこう命じられているからです。『わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである』」と、言われました。

ただし、基本は、神の民であるクリスチャンに御言葉を宣べ伝えていくことが優先されるべきです。

聖書の御言葉は、すべて真実ですし、成就します。

ぜひ、神様に恐れをもって、主の御前にへりくだって御心をとらえて、正しく行っていきたいと思います。

 

今まで、伝道というと、未信者をターゲットに考えていました。

そして、実際のところ、大半の教会が、神様を知らない人に伝道しましょうという教えが広まっているかと思います。

私も、しばらくは、そうではないかと思っていました。

なぜかと言うと、神様を知らないことこそが、最大の罪だと思っていたからです。

でも、御言葉を通して、基本は、クリスチャン向けに伝道をしていくことにポイントがあることを、教えられました。

今、教会では、午前の礼拝で使徒の働きを学んでいます。

メッセージを通して、伝道に関して、いくつか教えられたことがあります。

ます、18節ですが、イエス様はこのように言われました。

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

この箇所を通して、エルサレム、ユダ、サマリヤは、異邦人の都ではなく、神の民の中心地であることを教えられました。

クリスチャンのところに遣わされて、神様の働きをしていくことを理解しました。

また、使徒2章の40節でペテロは、「この曲がった時代から救われなさい。」と言われています。

すなわち、この時代は、全体がおかしい、このままでは滅びるから例外的に救われなさいと言われているのです。

旧約時代のノアの箱舟の時と同じことを言われているのではないかと思います。

つまり、クリスチャンに対して救われなさいと呼びかけていくことの大切さについて教えられました。

クリスチャンが滅びに向かっているということは、キリスト教界や多くのクリスチャンにとって受け入れがたい事かも知れません。

でも、聖書が語っていることなので、御言葉を尊重し、従っていきたいと思います。