聖書箇所 マルコ8:15

 

8:15 そのとき、イエスは彼らに命じて言われた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」

 

この箇所では、メッセージを受けていく留意点について、書かれています。

 

この章では、パンという言葉が度々出てきています。

 

パンは、御言葉のたとえです。

しかし、ここにパン種という言葉が書かれています。

パン種とはどういう意味なのでしょうか?

このことについて少し考えてみたいと思います。

ここで、イエス様は弟子たちに「パン種に気をつけなさい」と、言われています。

気をつけなさいということは、決して良い意味ではないことが理解できるかと思います。

 

旧約聖書にも、パン種という言葉が使われています。

そのことについて書かれている箇所を参照してみることにします。

 

出エジプト 12:19 七日間はあなたがたの家にパン種があってはならない。だれでもパン種のはいったものを食べる者は、在留異国人でも、この国に生まれた者でも、その者はイスラエルの会衆から断ち切られるからである。

 

この箇所を見ても、パン種は、良くない意味として使われていることが理解できます。

しかも、パン種のはいったものを食べる者は、イスラエルの会衆から断ち切られるとあります。

これは、恐ろしいことですね。

イスラエルの会衆とは、神の民のことです。

すなわち、神様の民と見なされないということです。

分かりやすく言うと、クリスチャンでありながらも、神様と断絶している状態のことです。

もし、私たちが罪の中に入り込んでしまっていたら、当然、神様との間に平安を失ってしまいます。

そのように考えていくと、パン種とは、罪のことと関係しているのではないかと思います。

 

御言葉とは、本来、命を与えるものです。

正しく語っていく時に、人を生かし、真理の道へ導くものです。

でも、残念なことに、必ずしも、そうだとは言えないのです。

神のことばは、すべて純粋と言われているように、すべての御言葉は、真実ですし、人を義の道へと導いて下さいます。

しかし、御言葉は、扱う人によっては、人を不義の道へと追いやってしまうものに一変してしまうのです。

私たちが毎週毎の礼拝や特別な集会や聖会等で聞くメッセージについて、よくよく吟味する必要があることをここでは言われているのです。

どのような教えを受けるか、そのことはとても大切なことです。

なぜかと言うと、受けるメッセージが、すべて、神様から来たものだとは限らないからです。

 

ここでは、イエス様が、パリサイ人のことについて、取り上げています。

当時のパリサイ人というのは、聖書の教えに詳しい人たちでした。

教師、指導者、今で言うと、牧師の立場の人たちです。

その人たちに向かって、イエス様は、「おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。」とか「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするからです。」と、言われました。

何とも、辛辣な言葉です。

もし、牧師の立場の人が、イエス様から直接このようなことを言われたら、とてもショックだと思います。

しかし、当時の指導者は、このように言われたのです。

そして、今の新約の指導者の中にも、該当する人たちが存在することを言われていると思います。

なぜ、そのようなことを言われてしまうでしょうか?

このことに関しては、「彼らが、わたしを拝んでもむだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから」とか、「目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか」と、イエス様が弟子たちに言われたことに通じるかと思います。

このことに関しては、メッセージする立場の人である牧師や教師が、耳がありながら、直接、神様の声を聞かない、ほとんど祈らずに、単に人から聞いたものを伝えているだけに過ぎなかったり、あるいは、目がありながら、聖書を正しく読むことができないことを言われているのだと思います。

つまり、神様の言葉をさしおいて、人から受け入れられやすいことのみを強調して語っていたのだと思います。

神様の愛のことばかり強調し、もう一面の裁きのことについてなおざりにしていたのではないかと思われます。

たとえば、一度、神様を信じれば、皆、天国ですよとか、地獄は存在しないとか、信じてさえいれば、行いはしなくても、悔い改めなくても、今のままでも大丈夫、艱難時代の前に、クリスチャンは、天に挙げられるので備える必要は無い等です。

一見聞くと、耳障りがよく、心に安心感を得られるような教えです。

しかし、残念ながら、聖書を正しく読むと、このようなことは、一切書かれていないことが理解できます。

そして、こういった聖書には無い教えのことを、パン種だと言われているのだと思います。

メッセージ全体が、すべて罪あるものではなく、むしろ、大半は正しいことが語られているかも知れません。

でも、わずかのパン種が全体をふくらませてしまうように、ほんの一部であったとしても、偽善的な教えによって、場合によっては、最も大切な永遠の命が危なくなってしまう場合があるのだということを私たちはよくよく理解すべきだと思います。

もし、実際の食事で、少量であったとしても、体に悪い成分が入っている食品を毎日食べ続けていたら、体調を崩し、いつの日にか、最悪、命を失ってしまうかも知れません。

霊的な食物についても、同様のことが言えるかと思います。

聖書的に根拠の無い教え、そのようなものに、くれぐれも警戒しなさいと、この箇所を通して主は語ったのだと思います。

耳によいこと、本当に聖書に書かれているなら問題は無いと思います。

しかし、そうでないなら、注意が必要だと思います。

エレミヤ28章に、以下のような御言葉があります。

 

「平安を預言する預言者については、その預言者のことばが成就して初めて、ほんとうに主が遣わされた預言者だ、と知られるのだ。」

 

神様から来た良い教えは信仰の土台をたてあげます。

しかし、そうでないものは、歩みを崩してしまいます。

私たちが、毎週、何気なく耳にしているメッセージですが、単に聞くだけではなく、どのような教えについても、聖霊によって、聞き分け、なおかつ、御言葉と照らし合わせて御自身の目で確認しながら、吟味して受けていきたいと思います。

 

弟子の歩みをしていく中で、メッセージの作成をはじめ、御言葉にかかわる奉仕に少しずつ携わるようになりました。

昨年の10月から、礼拝の中で、預言の奉仕をしています。

今、エレミヤ牧師のメッセージを通して、御言葉に関する奉仕は、レビ人、つまり、弟子の歩みをしている人が担うことについての学びをしています。

上記メッセージにもあるように、御言葉は、人を生かすものではありますが、正しく扱わない時に、人を滅びへと向かわせてしまいます。

ゆえに、単に、奉仕をこなせばいいという考えでは、危険だということを理解しました。

旧約聖書には、度々、全焼のいけにえという言葉が出てきます。

全焼のいえにえとは、聖霊の火で焼かれたものを言います。

レビ記612節に、「祭壇の火はそのまま燃え続けさせ、それを消してはならない。かえって、祭司は朝ごとに、その上にたきぎをくべ、その上に全焼のいけにえを整え、和解のいけにえの脂肪をその上で焼いて煙にしなさい。」と、書かれています。

この御言葉から、時間をかけて祈り、御言葉を日々読み込んでいくことの大切さを教えられました。

以前は、奉仕のことで、あまり祈りに時間を費やしていませんでした。

でも、預言の奉仕をしていくようになってから、そのことで少しずつ祈るようになりました。

また、このことを通して、他の奉仕に関しても、祈りを優先することが、わずかでも、身についていくようになりました。

これからも、祈り、聖霊の力によって、一つ一つの働きを成していかれたらと思います。