聖書箇所 マルコ9:25-27
9:25 イエスは、群衆が駆けつけるのをご覧になると、汚れた霊をしかって言われた。「おしとつんぼの霊。わたしが、おまえに命じる。この子から出て行きなさい。二度と、はいってはいけない。」
9:26 するとその霊は、叫び声をあげ、その子を激しくひきつけさせて、出て行った。するとその子が死人のようになったので、多くの人々は、「この子は死んでしまった。」と言った。
9:27 しかし、イエスは、彼の手を取って起こされた。するとその子は立ち上がった。
ここでは、汚れた霊について書かれています。
25節に書かれている汚れた霊とは、悪霊のことです。
ここに書いているように、話ができなくなったり、聞こえなくさせたりします。
このように、悪霊は、私たちを束縛します。
信仰生活を送っていく上で、このことは、大なり小なり、個々に関わってくることです。
特に御心の働きに入っていく時に、霊的な圧迫が押し寄せてきたりします。
何か、霊によって、グーッと縛られているような感覚になることはないでしょうか?
このことは、よくあることです。
霊的な圧迫によって、働きが妨害されることは多々あります。
具体的には祈りに集中できなくなったり、やる気を失ったり、感情的に不安定になってしまって、場合によって働きがとどめられてしまいます。
このことに関連しての証をさせていただきます。
私は、もともと口下手なので、人前で話をすることに特に抵抗を感じます。
レムナントキリスト教会に来て、1年半位たちますが、その間、礼拝やセミナーの時に証をする機会がありました。
多少なりとも、証のために祈るのですが、直前になると、どうしても否定的な思いになったり、不安になったりします。
単に苦手とする部分だけなのかなぁと思っていたのですが、ある時、霊的な圧迫ということについて礼拝のメッセージを通して教えていただき、きっと、このことも当てはまると思い、その都度、霊的な圧迫から守っていただけるようにと祈るようになりました。
すぐに、解消されたわけではありませんが、このことを繰り返していくうちに、以前に比べて少しずつ、霊的な圧迫を感じなくなってきたように思います。
このように、特に私たちの思いや感情に働くことが多いように思います。
そして、結果として、思うような働きができなくなってしまうことがあります。
また、悪霊の特徴は、とにかく、しつこいことです。
神様の働きをとどめるためには、これでもかーっというほどに、攻撃してきます。
そのことに対応しうるためには、29節に書かれているように、祈っていくことです。
ただし、心の中に罪があると、残念ながら、悪霊の力から解放されるのは難しいので、罪があったら、祈って、聖霊に触れて、きよめられていくことが大切です。
また、1,2分程度の祈りではダメです。
新改訳聖書の注・引照に、祈りのあとに、断食という言葉が追加されるものもあるとあって、悪霊が完全に追い出されるには、ある程度の祈りの時間が必要であることが理解できます。
とにかく、祈り、聖霊に触れて、解放を求めていくことです。
根気よく祈る、このことは、悪霊を追い出すだけではなく、私たちが信仰生活を送っていく上でのポイントになります。
また、信じて祈り求めていくことも大切です。
23節で、イエス様が、信じる者には、どんなこともできるのですと言われているように、神様の力をどこまでも信じて祈っていくことに御心があります。
私たちは、つい、過去の経験や自分の思い込みや価値観によって、神様の力を小さく見てしまうことがあるかと思います。
特に、人間的に見て、不可能だと思うことについては、ここに書かれている父親のように、不信仰になってしまうことがあるのではないでしょうか。
敵であるサタンは、そのような人の最も弱い部分を利用して、主に助けを求めさせないように仕向けてくることをご理解いただきたいと思います。
サタンは、私たちを神様から遠ざけるために、常に否定的な思いを持ち込んできます。
でも、たとえ、サタンがそのように語ってきたとしても、そのことには一切耳を貸さずに、ひたすら、主に祈っていきたいと思います。
すぐに祈りに答えられなくても、繰り返していくことがポイントです。
27節にあるように、イエス様の力が働くときに、倒れていた人も、あっという間に、立ち上がれるからです。
この箇所から、悪霊が実在すること、このことを理解していただきたいと思います。
そして、実際に私たちの身近にいて、常にクリスチャンの歩みを崩すことに躍起になっています。
その目的は、私たちを滅びに至らせることです。
さっきも申し上げたように、とにかく、執念深く、手を変え、品を変え、あらゆる方法を用いて、私たちの信仰を奪おうと必死です。
それにもかかわらず、サタンのことについて、理解しようとしないクリスチャンがいます。
サタンの存在すら否定しているクリスチャンもいるのです。
しかし、このことは、恐ろしいことであり、非聖書的だと言えます。
サタンがいないなどというのは、惑わしとも言えると思います。
聖書をきちんと読んでいくと、イエス様の生涯は、常にサタンに追いかけられていたといっても過言ではないからです。
また、それはある意味、神様に赦されていました。
そのことと同じように、主に堅くついていこうとわたしたちが歩んでいくのであれば、敵の存在は決して無視できないというよりも、常に意識すべきだと思います。
なぜかと言うと、そのことによって私たちの真の信仰が試されるからです。
敵から攻撃を受けて、そのような中でも、最後まで信仰を捨てずに従っていくのかあるいはひいてしまって主を否定して信仰を捨てるのかどうかです。
そこまで、大きなことにならなくとも、ポイントポイントにおいて、試みはあります。
私たちは、つまずき、倒れされることもあるかも知れません。
あるいは、敗北の連続であったりもします。
しかし、主が十字架の死に至るまで、従い、勝利を取られたように、最後まで、主を従って勝利者として歩んでいきたいと思います。
レムナントキリスト教会
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