聖書箇所 マルコ11:1-6
11:1 さて、彼らがエルサレムの近くに来て、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づいたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、
11:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村にはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。
11:3 もし、『なぜそんなことをするのか。』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます。』と言いなさい。」
11:4 そこで、出かけて見ると、表通りにある家の戸口に、ろばの子が一匹つないであったので、それをほどいた。
11:5 すると、そこに立っていた何人かが言った。「ろばの子をほどいたりして、どうするのですか。」
11:6 弟子たちが、イエスの言われたとおりを話すと、彼らは許してくれた。
1節
イエス様は弟子たちに、用事を頼んでいます。
人間的な視点から考えると、誰でも良いのではないかと思います。
しかし、ここで、あえて、イエス様は弟子を使いに出しています。
このところに、語りかけを感じます。
特に、ここ一番という、大事な奉仕、たとえば教理にかかわることや教会のたて上げに関しても弟子が用いられています。
つまり、大切な奉仕は、弟子の歩みをしていく人が担っていくことが理解出来ます。
Ex:メッセージ 5,000人の食事の用意 少年は魚を持っていましたが、イエス様はその少年には話しかけませんでした。
参照 ヨハネ6:8,9
ちなみに弟子というのは、キリストから教えられる、そして、教えられたことをそのまま行うという意味です。
でも、中には聞くだけで、実践しない人もいます。
しかし、言われたことを、忠実に行っていく人に御心があります。
このことは、私たちの人間の社会や家庭おいても、当てはまることではないかと思います。
頼まれたことをいつも言われたとおりにきちんとこなしている人に、仕事を任せたり、用事をお願いしたりしますよね。
イエス様も、御心に沿った歩みをしている人に目を留めておられ、そのような人に、御自身の働きを任されます。
2-4節
イエス様は、すべて先々のことまでご存知です。
私たちは、一寸先どころか、瞬時のことすら分からない者であります。
そして、つい、見えるものを頼みとしてしまいがちです。
しかし、ヘブル書で言われているように、信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
つまり、目に見えるものは、望みではないことが理解出来ます。
また、見えていないゆえに、先々のことまで、思い煩ってしまうことがあります。
しかし、神様はすべてをご存知なので、どこまでも、主を信じて、何でも、言われたことを行っていくことにポイントがあります。
たとえば、絶えず祈りなさいとか、喜んでいなさいとか、感謝しなさいと御言葉に書かれているのなら、素直に行っていきたいと思います。
そうしていくことによって、平安を得たり、実を結んだりします。
5,6節
主が言われたことは、必ず実現します。
ここに書かれている弟子たちのように、イエス様が言われたように行っていくのなら、必ず、そのことは実現します。
このことに限らず、すべての御言葉は、必ず成就します。
天地が滅びても私の言葉は滅びることが無いといわれている通りです。
この世界にも、数多くの占い師や預言者はいます。 Ex:ノストラダムス等
そして、現実、当たることもあります。
ただし、100%当たるわけではありません。
大半はハズレているように思います。
この世の預言者や占い師の言っていることと、聖書、つまり神の言葉を比較する価値が無いことは言うまでもありません。
何を言いたいのかと言うと、この世のすべてのものが偽りだとしても、聖書の言葉だけは真実であるということです。
聖書を読んで理解できることは、今は明らかに終末であり、これから神の民であるクリスチャンの裁きが始まることです。
実際に、聖書は、終末に向けて、そして、クリスチャンの裁きについて、語られています。
たとえ、キリスト教界をはじめ、大半のクリスチャンが艱難は通らずに携挙される、信じていれば裁かれないと言っていようとも、御言葉だけに真実があることを理解して頂きたいと思います。
繰り返しますが、律法の一画がすたれるよりも天地が滅びるほうがたやすいと言われているように、神様の言葉は、すべて正しく、一つ一つのことは、必ず成就することを覚えていて欲しいと思います。
御言葉である神様を恐れ、慎んで御心を行い、神様の怒りの裁きから逃れていきたいと思います。
証
私は、聖書の御言葉はすべて真実だと信じています。
それは、自分にとって、都合の悪いものや心に苦いものであったとしても、そのように信じています。
いつの時のことか、はっきりと覚えてはいませんが、神様の知恵によって生きていきたいと思ったことがありました。
そして、あるとき、そのことに関連した御言葉をいただきました。
そして、神を恐れることが、知恵を得ることだと理解しました。
なるほどーっと、思いました。
思い返すと、傲慢になっているときは、人間的、つまり肉の思いになっていることが多いことに気づきました。
そのような時は、些細なことでカチンときたり、人を裁いたりしてしまいます。
しかし、神様を恐れること、このことによって、まずは、自分の至らなさ、無力さ、罪深さを嫌というほど知らされ、認めざるを得ない心境にさせられます。
そして、そのことによって、神様の前にへりくだり、結果として、悔い改めへと導いていただけることを理解しました。
このことは、人間の思いや考えで、出来ることではありません。
聖霊の導きと助けを祈り求めていくことによって、可能となります。
そして、そのことを実践していくことによって、神様を恐れ、へりくだること、このことこそが、神を知ることであり、知恵を得ていくものであることを少しずつ理解できるようになりました。
このことは、ほんの一例ですが、御言葉を重んじることの大切さを改めて学ばせていただきました。
レムナントキリスト教会
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