聖書箇所 マルコ13:9,10
13:9 だが、あなたがたは、気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対してあかしをするためです。
13:10 こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。
ここの9節からの箇所については、3,4節で弟子たちが質問したことについて、イエスが弟子たちに対して語られています。
主の弟子として歩む、このことを自らの意志で選択し、主に従ったあゆみをしていくことは、とても尊いことだと言えますし、祝福や恵みも大いなるものであると思います。
特に、霊的なことに関しては、群集の歩みでは味わうことの出来ないこと、たとえば、御言葉の奥義に関する理解が深められたり、祈りを通して、主と密接に交わる機会が増えてくるので、互いの信頼関係も築かれていきます。
このことは、たしかに、人知を超越した計り知れないものです。
弟子の特権ともいえると思います。
しかし、人間的な視点に立つと、必ずしも喜ばしいことばかりではありません。
むしろ、主に従うがゆえに、苦難もつきまとうことが多いと思います。
この章は、艱難時代についての記述です。
そして、9節には、とらえられることについて言われています。
このことは、人間的に考えると、辛いでしょうし、悲しいことです。
はっきり言って、「こんな状況になるのは嫌だ」と誰しもが思うと思います。
私自身も積極的には、このようなことは、望むことではありません。
でも、主がこのように言われているのだから、こういったことも、想定しておく必要があるかと思います。
また、このことについては、理由も書かれていることを見落としてはなりません。
むしろ、その理由が、大切なので、見ていきたいと思います。
彼らに対してあかしをするためであると、イエス様は言われています。
この、彼らというのは、総督や王たちのことです。
会堂とは教会を指すので、具体的には、教会の偉い人、牧師や神父のことを言われているのだと思います。
いずれもクリスチャンです。
今のキリスト教界の常識から考えると、クリスチャンがクリスチャンにあかし(弁明)をするというのは理解しがたいことかも知れません。
なぜかというと、大半のクリスチャンは、聖書について正しい理解を持っていないので、時代が見分けられず、はたまた艱難など通らないと思っているからです。
むしろ、聖書について、きちんと語るクリスチャンを異端呼ばわりしたり、カルト扱いをしたりして、なれの果ては、訴えて、最悪死に至らせてしまうのです。
そのようなクリスチャンが真実を知るためのきっかけとして、正しく歩むクリスチャンがとらえられ、その時こそ、イエス様のことを証する機会になるとそのように言われているのです。
いつの日かそういう日がくるかも知れない、それでも私に従ってくるのか、そのことを、弟子として歩む一人一人に主は問われているようにも思えます。
最悪、主のために、命を捨てる覚悟はあるのか?すべての人に憎まれても、主を選ぶのか?そのようなことだと思います。
昨今、永遠の命が、ずいぶん軽視されているように思えます。
クリスチャンの裁きについて語られているメッセージが激減しているようにも思います。
神は愛だから裁かれないとか、一度信じれば、天国行きは確定等、聖書を超えた教理によって、クリスチャンに根拠も無い安心感をどこまで与えて続けています。
一口に言うと、狭い門が、知らない間に広い道にすりかえられています。
このことは、クリスチャンを滅びに至らせるための、敵の仕業のなにものでもありません。
そして残念ながら、こういったことを指摘すべき立場である弟子たちは、これから迫害されていくことが聖書には明確に記されています。
でも、もし、主の御名のゆえに迫害されるなら、その人に神様の栄光があらわされていうことにもなるので、決して落胆したり卑下したりする必要はありません。
聖書的には、むしろ、喜ばしいことなのです。
そのような人は、主の証人として、ますます用いられていきます。
まさに10節に書かれているように、こういった時にこそ、福音を宣べ伝えるチャンスだとも言えます。
一見、人間的には、不幸に見えるようであっても、しかし、神様は、そのようなことを通して、すべてを益と変えてくださいます。
すべてのことに、神様のご計画があるので、このことを今からきちんと理解し、たとえ周囲の人に迫害されても、むしろそのことに甘んじて、主に堅くつく歩みをしていきたいと思います。
証
弟子の歩みをはじめてから、一年半が経とうとしています。
弟子として歩むこと、このことを決意すること自体は、それほど難しいことではありませんでした。
でも、継続していくことが大切であり、そのことは、困難であるように思います。
なぜかというと、敵は常に滅びに向かう広い道を提供してきますし、広い道を歩んでいる信徒を横目に見ながらの歩みなので、始めてみると思った以上にとても険しく感じることが多々あります。
また、本日のメッセージの箇所でも言われているように、いずれ、迫害されることが預言されています。
迫害されたり、とらえられたりと、自分にとって、不当なことがふりかかってきた時が、大きな勝負どころと言えるのかもしれません。
そのように考えていくと、日々の弟子としての歩み方が問われてくるように思います。
すでに戦いは始まっていますし、主の勇士としての歩みを目指すなら、常に戦いの連続であることは、ありとあらゆる箇所の御言葉によって、証明されています。
最近、御霊に感じることがありました。
主は、喜んで、捧げる人を愛してくださるという御言葉があり、聖霊の喜びに満ち溢れて戦いに出ていくことがとても大切なのではないだろうかと思いました。
同じ戦うのであれば、強いられてでもなく、嫌々でもなく、すべて主に喜んで捧げていかれたらなぁと思います。
そうしていくときに、主の御業や栄光を見ていくことにつながるのではないだろうかと思いました。
聖霊の力によって、日々新たにされ、主を盾として、最後まで勇士としての戦いを全うできたらと思います。
主に土台を築いていただくことによって、艱難時代も、思い煩うことなく、御霊の導きによって乗り越えていかれるのだと思います。
レムナントキリスト教会
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