聖書箇所 ヨハネ6:53-66
6:53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
6:55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
6:58 これは、天から下ってきたパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」
6:59 これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。
6:60 そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」
6:61 しかし、イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ、彼らに言われた。「このことであなたがたはつまずくのか。
6:62 それでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。
6:63 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。
6:64 しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。」――イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである。――
6:65 そしてイエスは言われた。「それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない。』と言ったのです。」
6:66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。
上記御言葉に書かれているようにキリストの霊を受けることはクリスチャンの信仰生活の根幹にかかわる部分です。
しかし実際には多くのクリスチャンはキリストの霊を求めないのが現実です。
聖霊のみが真の意味合いで生かすはずなのに・・・
それにもかかわらずです。
ちなみにヨハネの福音書は「聖霊」のことを中心に書かれています。
聖霊とはどのような霊なのか?そして、聖霊を受けることの意味合いについてのべられています。
イエス様の時代の時にも、キリストに従う多くの弟子がいました。
しかし66節にあるように多くは離れ去っていきました。
ですから弟子といっても、残る弟子とそうでない弟子がいることが理解できます。
なぜ、多くの弟子は離れ去ってしまったのでしょうか。
答えは簡単です。
真の意味合いでイエス様のことを御存知なかったからです。
キリストの弟子とは御言葉にとどまる人のことを言います。
口先ではなく真にイエス様を愛しているかがポイントです。
神様の目から見てそれはどのような区分をもたらすのでしょうか。
これも実に単純です。
祈り、御言葉に触れているかどうかです。
今もキリストに従う弟子は沢山おられます。
しかし、弟子であってもキリストを失ってしまった人がいます。
残念ながらそのことは永遠の命には至りません。
そのような失敗に陥らないためにイエス様が求めておられる弟子について学んでいきたいと思います。
具体的なことについて触れてみたいと思います。
ここに書かれているように人の子の肉と血を食べたり飲んだりすることが永遠に生きるといわれています。
それでは、人の子の肉、血という言葉について着眼してみたいと思います。
人間的に考えると人の肉や血を食べるとか飲むというのは何とも気持ちの悪いことです。
しかし単にそのように読むのは愚かなことです。
なぜなら聖書はたとえの書だからです。
まず人の子とはイエス・キリストのことです。
肉とか血という言葉で何かを思い出しませんでしょうか。
このことは聖餐に通じることです。
参照 Ⅰコリント11:23-26
11:23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、
11:24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
11:25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
11:26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。
パンとはキリストの体、すなわち肉を言います。
パンは御言葉にたとえられていることから、肉も同じ意味合いです。
杯のことを「わたしの血」と言われていますが、これは「ぶどう酒」に通じる言葉です。
ぶどう酒は聖霊にたとえられています。
ゆえに血も、聖霊を意味します。
つまり、私たちが永遠に生きるためには、御言葉と聖霊とは切っても切り離せないのです。
この二つ抜きにキリストとの正しい関係はありえないことを御理解ください。
私たちは毎週ごとの礼拝で聖餐式を行います。
でも単にそれだけで終わるわけではありません。
毎日、主からの聖餐を受けなければならないのです。
なぜならこの世を支配しているのはサタンであり、聖霊に触れていないとあっという間に神様から離れてしまうからです。
そのことを回避していくには、弟子として歩んでいくことが必須であることを御理解くださいますように。
繰り返すようですが、いつも祈り御言葉に触れていくことです。
更に見ていきたいと思います。
その前に・・・
今、このメッセージを読まれているあなたが弟子の歩みをしていないなら、ただちに弟子の歩みをされることをおすすめします。
特別何も起きていなときには大きな問題はないのですが、試練や困難に遭遇したときに・・・
そのときになって信仰が覆されてしまい、結果としてキリストの再臨に正しく対応できなくなり、悪い意味合いで裁かれてしまうからです。
少し証をさせていただきます。
私自身、2年前までは群集の歩みをしていました。
その時は、イエス様を信じていればそれで良いと確信を持っていました。
それなりに祈り、聖書も読んでいたので、特別問題は無いと思っていました。
でも、そのことに徹していたかというと、それは別でした。
祈りの時間も不足していましたし、祈る内容についてもほとんど的外れなものばかりでした。
聖書の読み込みもポイントからズレていました。
さきほど申し上げたように聖書はたとえの書なのですが、文字通りにしか読んでいませんでした。
なので、読んでいても神様が言われていることについてほとんど理解することはありませんでした。
御心にかなった歩みとはほど遠いどころか全く方向がズレていました。
しかし、レムナントキリスト教会に導かれ弟子の歩みをはじめてから一変しました。
心の根底にあるものがひっくり返されるようになっていきました。
真理とはどのようなものであるのかについて少しずつ理解できるようになり、御心にかなう歩みや働きにも徐々に入っていかれるようになりました。
また、今の時代に起きていることや終末の特徴についても学ばせていただき、その中で具体的な再臨への備えもすすめられるようになりました。
祈りについても、御心の祈りとそうでない祈りについても教えられました。
聖書に「絶えず御霊によって祈りなさい」とあります。
以前はその意味が理解できませんでしたが、今では分かるようになりました。
確かに祈ってみないと御心なのかどうかは分からないことが多いのも事実ですが、繰り返し祈っていく中で御旨に叶うとりなしがどのようなものであるかについて理解するようになり、そのことを実践していく中で神様の栄光や御業を拝するようになりました。
弟子として歩んでいく時に歩みや働きに必要なすべてのことを教えていただけます。
主の弟子にとどまっていくなら、イエス様がすべての面において真の教師となってくださいます。
また、後ほどメッセージでも触れますが・・・
弟子としての歩みを徹していく時に人から嫌われたり後ろ指を指されてしまうことも事実です。
神様のことと、この世のこととは両立は残念ながら不可能だからです。
ここ2年間、御言葉に立って真実を何人かのクリスチャンに伝えました。
たとえば、人にではなく神様に頼ることや艱難前携挙説がおかしいことや時代が曲がっているゆえに正しく歩まないと滅んでしまう等・・・
私の言い方にも問題はあるのかも知れませんが、受け入れていただけず、挙句の果てにはそのようなことをきっかけにほとんどの人と仲たがいしてしまいました。
このことは人間的に考えると悲しいことではあります。
でも不思議なことに、霊的には感謝や喜びや平安に満たされています。
使徒たちも主の御名のゆえにはずかしめられることを喜びとしたということが聖書に書かれていますが、本当にそうなのです。
悪いことをしてその報いを受けるのは当然のことですが、御心に沿った歩みをして悲しむのなら幸いなことだと思いますし、これからもそのような歩みを目指していきたいと思います。
祈りや御言葉のために時間を割くようになり、聖霊にある喜びや平安に包まれ、勝ち得て余りある信仰生活を送らせていただいています。
以前からこういった歩みを求めていたのですが、このことを主が実現してくださっていることに日々、とても感謝しています。
話は御言葉に戻りますが・・・
主の弟子として最後まで残ることに御心があります。
そのことについて、いくつかポイントをまとめてみました。
終末は背教が起こり、多くの人が信仰を捨てるので、ある意味御言葉に堅く立っていくのは困難とも言えます。
しかし、そうではあってもキリストに従う人に御心があります。
困難なゆえに、人間的に不利なこともあると思います。
艱難時代に入ると更に理不尽に思えることばかりだと思います。
御言葉に従ったために人から迫害されたり悪口を言われたりカルト扱いされたりするかも知れません。
しかし、そのようなことを承知の上でキリストに従う人を神様は弟子として扱ってくださり、勝利を取らせてくださいます。
そのような人がキリストの勇士と見なされます。
一見多くのものを失うように見えても、周囲の状況に左右されずにキリストに従う人は苦難の時に守られます。
聖書の御言葉は私たちにとって必ずしも都合の良いものばかりではありません。
実際には従うことが困難なことのほうが多いのかも知れません。
でも、祈りを通して私たちがこのことに正面から向き合っていくのなら・・・
この世においても勝利者となり後の世においては神様から誉れを受けるようになります。
最近レムナントキリスト教会の礼拝ではローマ人への手紙について学んでいます。
その中で教えられたことがあります。
キリストと苦難を共に受ける人は主と共に栄光を受けるということです。
後の世において誉れを受けるわけですが、苦難を共にしていく時にこの世においても、私たちが神様の栄光を見られることが理解できると思います。
命に至る道は細いといわれているように真理の道は決して広くはありません。
この世においては苦難の連続かも知れません。
しかし、この箇所で言われているように、いつもキリストの肉である御言葉に堅くつき、血である聖霊の力を祈り求めてキリストに従い、後の世において朽ちることのない栄冠を受けていきたいと思います。
レムナントキリスト教会
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