聖書箇所 ヨハネ10:16
10:16 わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。
「この囲い」とは、イエス・キリストのことです。
羊とは、皆さんも御存知のように、クリスチャンのたとえです。
「この囲いに属するクリスチャン」とは、ひたすら、聖霊の力に頼って歩んでいくクリスチャンのことを言います。
しかし、主はここで、「主の囲いに属さないクリスチャン」について言われており、そして、その人たちのこともご自身のところに引き寄せなければならないと語られています。
以前の私もそうだったのですが、クリスチャンというと一括り、すなわち一種類であり、すべてのクリスチャンがイエス・キリストに属していると思っていました。
でも、本日のこの箇所を読むと、キリストに属さないクリスチャンがいることが理解できますよね。
このことは、神様の前にどのような区分をもたらすのか、そのことに触れながら神様が私たちに語っておられることをみていきたいと思います。
イエス様が言われた「彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです」の言葉に語りかけを受けます。
世界には約20億人のクリスチャンがいます。
大きく分けると、カソリック、プロテスタントです。
更に、教団・教派に分かれます。
しかし、この世界をはじめ教会を統治されているのはイエス・キリストです。
イエス・キリストが教会の王であり、私たちの真の牧者です。
私たちが歩んでいくときに、常にこの視点に立っていかないと、ありとあらゆる混乱を招きます。
各教会にはそれぞれ、牧師、教師、指導者が配置されています。
いずれも主によって立てられた権威なので、これらの権威に従うことも大切なことです。
しかし、「わたしの声に聞き従い」と書かれているように、まずはイエス様の声に聞き従うことを最優先させることが大切です。
イエス様の声とは御言葉に従うという意味合いです。
そうすることによって、イエス様が牧会する群れに属し、その一員として、イエス様がなさったような働きに入っていくのです。
さて、「この囲いに属さない羊」、このことに目を留めていきたいと思います。
これは、とても大変なことです。
何が、大変なのかというと、クリスチャンと称しながらも、実質はイエス様がおられる場所ではない別の場所にいるからです。
「エエーッ、そんなことない、私の天の父はイエス様だし、私はイエス様の花嫁よ!」と、おっしゃるかも知れません。
本当にそうならよいのです。
しかし、必ずしも、そうではない人もおられますので、話を続けます。
参考になるかどうか分かりませんが、少し証をさせていただきます。
レムナントキリスト教会に行く以前、私は女性牧師が牧会する教会で、普通の信者としての信仰生活を送っていました。
いわば、群集の歩みです。
それはさておき、その当初は、弟子の歩みをしている今と比べると、とてもいい加減な信仰生活でした。
何がいい加減だったかというと、祈りにしても御言葉の読み込みにしても、とても表面的なものでした。
それでも、当時は、自分なりに一生懸命行っていたつもりでした。
でも、何か収穫があったかというと・・・
何ひとつと言ってよいほどに、実を結ぶことはありませんでした。
まさにその事実が、神様の御心からほど遠い歩みをしていたか、証明されます。
当時の私は未信者向けへの救霊の働きに一心に励んでいました。
このことは、人間的に考えると決して悪いことのようには思えませんでした。
パウロも異邦人のところに遣わされて福音を語ったことも事実だからです。
しかし、聖書をきちんと読むと、パウロははじめからそうしたわけではないことが理解できます。
まずは神様を信じるユダヤ人に神様はパウロを通して再三悔い改めを呼びかけました。
しかし、彼らは最後まで心をかたくなにして、福音を退けてしまいました。
そこで、仕方なく・・・と、申し上げたら御幣があるかも知れませんが、異邦人に宣べ伝えにいくことになったわけです。
このことはレムナントキリスト教会の礼拝のメッセージで学んだことですが、神様はとても義理堅いお方であって、順番をきちんと守ってくださるとのことです。
まずは私たちクリスチャンに福音を語ってくださり、その次に異邦人に語ってくださるのです。
もちろんケースバイケースではありますが、常に信者をさしおいて、未信者の人たちばかり優先して語ることは、ある意味神様の御心から外れた働きだったということを今となって理解するようになりました。
クリスチャンなんだから、救われているんだから、クリスチャン向けに何を語るのか?!と、おっしゃるかもしれません。
しかし、このことも後になって気づいたことですが、神様の目から見て、ほとんどのクリスチャンがまともに救われていないのが聖書の語られている事実です。
実際に、私もその一人でした。
詳細についてはここでは語りませんが、その当時は、そのことにも全く気がつきませんでした。
聖書の読み方についても、群衆の歩みにとどまっていたため、たとえの意味合いや御言葉の奥義を理解する力もありませんでしたし、そもそも聖書は未信者を含め、すべての人に書かれている書物であるというふうに誤解していました。
クリスチャン向けに書かれているものであることですら認識していなかったのです。
教会では、「神様を知らない人にイエス様のことを伝えていきましょう、未信者の人に伝道していくことこそ私たちクリスチャンの使命です」と、盛んに豪語していたので、そのことにも何の疑問も持つことはありませんでした。
今にして思うと、神様の御言葉よりも、牧師が語ることをはじめ、人が言うことを単に受け入れていた信仰に過ぎませんでした。
しかし、数年前に、あることをきっかけにエレミヤの部屋のホームページ出会うことができました。そこで、真理に触れ、数年間通っていた教会に別れを告げました。
そして、弟子の歩みをするようになり、以前の私は、まさに「主の囲いに属さないほかの羊」の一人だったというふうに、理解しました。
そのような私のことをイエス様が憐れみをもって、御自身の囲いにお招きくださいました。
偉そうなことは言えませんが、このことに感謝して、別の囲いにおられる一人でも多くのクリスチャンが主の囲いに来られるような働きをわずかでも担っていかれたらなぁと、何らかの方法でお手伝いさせていただけたらなぁと思っています。
以前の私のように、もし、この文章を読まれているあなたが、神様の言葉よりも、人の教えや考え、あるいは教理の本を優先して歩んでいるのでしたら、それはとても危険なことです。
なぜなら、そのようなことは混乱と混濁だけを単に招くものであって、いつまでも真理に到達しないからです。
もちろん、人が語ることが聖書の言われていることと完全に一致しているのであれば、全く問題はありません。
しかし、御言葉と人の語る言葉がぶつかるのであれば、ぜひ御言葉を優先してください。
また、人の言葉には間違える可能性があることも、どうかご理解ください。
ですので、はじめに申し上げたように、神様が何と語っておられるかを常に聞いてことが大切です。
祈りを通して聖霊の声を聞いて歩んでいくことに御心があります。
何にしてもきちんと祈っていくことがポイントです。
弟子の歩みをしていく中で教えられたことですが、常に御霊によって祈っていくこと、祈りながら御言葉を読むこと、神様の召命に従って歩んでいくこと、これらのことに徹していくことがキリストの囲いに属する羊と見なされていくのではないかと思います。
このことは、ある意味すべてを主に捧げて神様にお仕えしていくことに通じていきます。
献身の道を自ら選択していくときに、主の囲いに自ずと入っていかれるようになります。
そして結果として神様の栄光や御業をその都度見たり体験したりするようにもなっていきます。
もし、主の囲いに入っていないと思われましたら、ぜひ、主の囲いに入ることをおすすめします。
主の囲い以外の場所は、非常に危険です。
なぜかというと、この地上において、真にキリストにつながっていないなら、後の世において永遠に退けられてしまう可能性が大いにあり得るからです。
主に招かれましたら、ぜひ、その御声に素直に耳を傾けていきたいと思います。
御声に応答した結果、人から変に思われたり、迫害を受けたりすることもあり、必ずしも人間的には喜ばしいことばかりではないかもしれません。
聖書に書かれているように、キリストにあって苦しみを体験することにもなります。
しかし、たとえそうではあったとしても、後の世においていただく重い栄光とは取るに足らないものですので、ぜひ、そのような選択をされることをおすすめします。
ペテロやヨハネやヤコブをはじめとする12弟子のように、いつもイエス様と寝食を共にし、御国を受け継ぐにふさわしい歩みをしていきたいと思います。
レムナントキリスト教会
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