聖書箇所 ヨハネ11:1-4

 

11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。

11:2 このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。

11:3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」

11:4 イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」

 

「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」

ヨハネ11:25

この御言葉は、かなり有名です。

特にイースターを通して、ご存知のお方が多いのではないかと思います。

 

さて、本日の箇所では何を言われているのでしょうか。

同章の25節の御言葉と関連付けながらみていきたいと思います。

 

4節を読むと分かるように神の子であるイエス様は色々な方法を通してご自身の栄光や御業をあらわされました。

それは神様の御業を通して一人でも多くの人がイエス・キリストのことを信じるためであります。

「多くの人」と表現しましたが、これはクリスチャンのことを指します。

「ええっー、どうして?クリスチャンならみんなイエス様のこと、信じているでしょう」と言われるかも知れません。

確かに、そうかも知れません。

でも、少し考えていただきたいのです。

信じると言っても、一様ではないことをご理解いただきたいと思います。

ここで聖書が言われる真に御言葉を信じている人についてご一緒に考えてみたいと思います。

クリスチャンはイエス様が神様のひとり子であり救い主であることを御存知です。

しかし、イエス様のことを信じるのと知っているのとでは、少し意味合いが異なります。

実は、多くの人が信じているようでいて、その実、そうではないのです。

なぜ、そのようなことが言えるのかというと・・・

今の時代の多くのクリスチャンは聖書を読んでいますし、御言葉を知っています。

でも、実践しているかというと・・・

ずばり言ってしまうと???です。

たとえば、「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい」と、聖書に書かれていても、平不満をしょっちゅう言っているクリスチャンは案外多いように思います。

何一つ実践していないとは申し上げませんが、御言葉を実践しようと神様に祈り求めている人は非常に少ないように思います。

確かに、御言葉を知ることは大切なことです。

しかし、御言葉というのは実践してみてはじめて効力を発揮するものです。

分かりやすく言うと、その人の内側に生きて働くものになります。

聖霊の力を祈り求めて実践していく中で、御言葉の意味を理解し、信じて心に受け入れていくようになります。

そして、そのことを何度も繰り返し行っていくうちに、神様の律法が心の板に刻まれていくのです。

逆説的に申し上げると信じて受け入れている人は、自ずと御言葉を実践していく人に日々造りかえられていくわけです。

しかし、そうではないのなら、キリストを知ってはいても、信じていることにはならないのです。

 

さて、上記の御言葉の中には「死」とか「病気」という言葉が出てきます。

生きていると時折私たちは体調を崩し風邪をはじめ、病気になったりします。

そして、最悪、死に至ってしまうことがあります。

しかし、このことはあくまでも肉体のことにかかわることです。

聖書では、もう一面のこと、つまり霊的なことについても言われていることに目を留めていただきたいと思います。

そしてむしろこのことに比重が置かれていることについて正しくご理解ください。

なぜかというと、たとえ肉体が朽ちてしまっても霊は永遠に生かされるものであり、地上でどのように歩んだかによって霊の行き先が永遠に決定付けられてしまうからです。

行き先について、今更言うまでもないかもしれませんが、天の御国か火の池のどちらかです。

今まで何度かこのことについて語らせていただきましたが、私たちは天の御国を受け継ぐように、神様から創造されました。

 

参照 ヨハネ 3:16

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 

話は元に戻しますが、霊的に死んでしまうことについてどのようなことを言われているのか、考えてみたいと思います。

霊的に死んでいるとは、罪に入ってしまっていることを指します。

人の陰口を言ったり、万引きをしたりするのも罪ですが、罪とは「的外れ」という意味合いもあります。

もし、私たちが、あまりにも的外れな歩みをしていると、やがて、霊的に枯渇してしまいます。

では、なぜ、的外れになってしまうのでしょうか。

はっきり言います。

それは、信仰を持っていても、キリストから離れてしまっているからです。

さきほど話をしましたように、御言葉を知ってはいても、実践していないからです。

教会に行き、礼拝を捧げ、奉仕をしていても、何かが違うとか霊的に満たされないと思われておられましたら、要注意です。

いくら一生懸命行っていても、御心の働きからズレていたら、残念ながら何も実を結ぶことはありません。

それでは、その原因について、調べていきたいと思います。

私たちの歩みや神様の働きは、「油」と密接な関係があります。

油とは、御霊の油注ぎとも言われている聖霊の力のことです。

聖霊がその人の内側で働くか否かによって歩みや担っている働きの結果は全く異なります。

また、聖霊の働きは、祈りに関係します。

つまり、祈り求めていかない聖霊の力は与えられないのです。

祈りを実践しているかどうかが、霊的に生かされるのか、死んでしまうのか、はたまた、御心をおさえた働きをしていくのか否かに分かれるのです。

かつての私もその一人だったので、偉そうなことは申し上げられないのですが、このことを理解していないクリスチャンが多いのではないかと思います。

信仰を持って歩み、神様の働きを担っていく、それ自体はとても尊いことです。

しかし、それが人間的なものや人の思いや考えで築いていくものであれば、空しいのです。

本人が身を粉にしてあくせく頑張っていても、残念ながら神様の前には死んだも同然でしかないのです。

反対に聖霊の働きを祈り求めて行った働きは何らかの方法で実を結んだり、神様の前に残る働きになっていきます。

また、聖書の御言葉を正しく理解できるようにもなります。

御言葉を正しく理解することによっても、神様の御心を行うことにそのままつながります。

聖霊の油は、私たちが真剣に求めていくことによって、イエス様が無限にお与えになります。

このことを信じて祈り求めていかれることをぜひおすすめします。

 

また、私たちは、もともとの罪「原罪」があるゆえに、日々、罪を犯してしまいます。

そして、いつの間にか、罪に浸り続けてしまい、自分ではどうにもならない状態にまで陥ってしまうこともあります。

しかし、唯一、聖霊の力だけが、そのような罪の力からも解放してくださいます。

4節に「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです」と書かれているように、たとえどんな罪の中にいても、聖霊の力が働くときに、罪から解放されていきます。

そしてこのことは神様の栄光を見事に反映させます。

ただし、このことも祈り求めていくことが必須です。

罪は、私たちが思っている以上にとてもしつこいものだからです。

敵であるサタンは、絶えず、私たちを世に引っ張り込もうと、罪の支配から脱出させないようにと仕向けてくるからです。

敵は、私たちが悔い改めることを非常に嫌がるのです。

なぜかというと、私たちをいつまでも罪の中にとどめ、そして最終的には永遠の命を奪うことを目的としているからです。

つまり、ちょっとやそっと祈ったぐらいでは、なかなか離れならないことをご理解ください。

「罪から解放された!イエス様が勝利を取ってくださった!」と、確信が持てるまで祈り続けることをおすすめします。

もし、自分の力ではどうにもならない罪に束縛されていましたら、即、実践されることをおすすめします。

神様は誠実なお方です。

どんな罪を犯していても、私たちが心から悔い改めていくなら、必ず助けてくださいます。

 

霊的な病や罪、これらのものは、肉体の病気と違って、目に見えるものではありません。

しかし、このことを放置しておくことは御心ではないことをご理解ください。

最悪、永遠の命を失うことになってしまいます。

また、私たちのもともとの性質は神様に反逆しやすい者であるということも正しく認識してください。

霊的に非常に病みやすいということ、つまり、神様の前には病人であることを素直に認め、何をするにしても聖霊の力を祈り求めていきたいと思います。

もし、少しでも傲慢になって、自分はどこも問題は無い、何も悪くない、完璧であるという思いになったら要注意です。

逆に、そこから、様々な霊的な病や問題を引き起こしてしまいます。

そして、悔い改めていかないなら、最悪、滅んでしまいます。

単に肉体が滅びるだけならよいのですが、霊的な滅びの行き先は「火の池」です。

ぜひ、私たちのすべての罪のために死んでくださったイエス様を恐れかしこんで、神様の御声に聞き従って歩み、後の世において勝利の栄冠を受けていきたいと思います。


上記御言葉は、有名な箇所です。

イエス様は死人(罪人)を生かしてくださるお方であることは、真のことだなぁと、私自身も日々の歩みの中で体験させていただいています。

私も、しょっちゅう罪を犯してしまい、神様との間に平安を失うことが多々あるからです。

そのたびに下記御言葉を思い出します。

「私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。」

申命記30:19

悔い改めないと、大変だぁ、呪いに入っていってしまう!・・・

そのような危機感を覚えてから、ようやく、罪からの解放、悔い改めへのお祈りをします。

また、自分の力では対処に及ばないような罪についても、信仰を持って祈り求めました。

先のメッセージでも語らせていただいたように、罪はとてもしつこく、なかなか自分の思いから離れずに、しばらくの間、苦しんだこともあります。

でも、数日、数ヶ月・・・と、あきらめずに、祈り続けました。

その結果、神様の不思議な方法で、徐々に解放されていくようになりました。

私の心の内側には根をおろしている罪がまだまだありますが、イエス様がどんな罪からも必ず解放してくださることを信じてこれからも祈っていきたいと思います。

また、今まで、助けを求めるまで時間がかかっていましたが、上記メッセージにもあるように、罪を示された時点で、即実行に移していかれたらなぁと思います。

「罪」というと、聞こえはよくありませんが、罪から解放されること、これこそが神様の栄光をもっともあらわしているのではないかなぁと、自分自身を通して、最近つくづく感じています。

本日の箇所を通して、罪を素直に認め、悔い改めていくことの大切さについても改めて教えられ、感謝でした。