聖書箇所 ヨハネ19:12-16

 

19:12 こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」

19:13 そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語でガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。

19:14 その日は過越の備え日で、時は六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」

19:15 彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」

19:16 そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。

 

19章では、イエス様がとらえられ、十字架にかけられるまでの一連のことについて書かれています。

イエス様をとらえてピラトに引き渡したのは祭司長や律法学者たちです。

祭司長や律法学者は今でいう牧師や教師、いわば御言葉を取り次ぐメッセンジャーのことです。

あろうことか、聖書の専門家、いわば御言葉を解き明かす立場の人たちが群集を煽動してイエス様を異端扱いし、当時の総督であるピラトに引渡して十字架につけたのです。

上記御言葉を読んで理解できるように、この当時のユダヤ人(神の民)は、神を冒涜する極みに達していました。

その結果、神のひとり子イエス・キリストを間違えて十字架につけて殺してしまったのです。

ことばは神であったと言われているように、イエス・キリストを殺したということは、御言葉を十字架につけたことと同じ意味合いです。

安息日ごとに、神様を賛美し、礼拝を捧げる人たちであるにもかかわらず、実質は12節や15節にあるように「この人を釈放するならあなたはカイザルの味方ではない」とか「自分を王だとする者はすべてカイザルにそむく」とか「カイザルのほかには、王がない」とか言っているのです。

いわば、聖書を読みながらも、御言葉を全く理解していなかったのです。

さて、ここに出てくる、「カイザル」という人を通して、神様の語りかけについてみていきたいと思います。

皆さんもご存知のように、カイザルは当時のローマの皇帝でした。

13節に裁判と書かれています。

つまり、イエス様を十字架につける際に、政治的なことが持ち出されたわけです。

カイザルにそむく者はとんでもない者、まして、カイザルという王がいるにもかかわらず、自分を王とする者を生かしておいたら大変だ、そんな者は排除すべき、それが正しい方法なのだと、そんなところでしょうか。

一見聞くと、確かに筋は通っています。

もし、イエス様のことを神様と認めないならばです。

12節にあるように、ピラトはイエス様に何の非も認めなかったので、釈放を呼びかけました。

ゆえに前章では、ユダヤ人たちに、「あなたがたがこの人を引き取り、自分たちの律法に従って、さばきなさい」とも言われています。

イエス様を正しく理解しなかった当時の人たちが、うまくイエス様の言葉尻をとらえて、何とか死刑に持ち込もうとしていたことをピラトは知っていたのではないでしょうか。

だからこそ、自分たちの律法、すなわち、聖書の律法によってさばきなさいと言われたのだと思います。

しかし、祭司長やパリサイ人をはじめとする群集は、自分たちには全く間違えが無い、この人(イエス様)が絶対におかしいという確信を強く抱いていました。

いわば多くの神の民が惑わされてしまい罪にまみれてしまったわけなのです。

そして、結果として、自分たちの王であるイエス様を殺してしまったのです。

このことは、今の終末を生きる私たちへの語りかけでもあり、再現する事柄であることを、どうか正しくご理解ください。

なぜなら、イエス様の公生涯の3年半は、艱難時代の型だからです。

今、キリスト教界では、しきりに、これからは大リバイバルの時だとか、クリスチャン携挙されるから特別備えなくても大丈夫とか、クリスチャンがあたかも艱難を通らないかのような教えを植えつけています。

しかし、聖書を普通に読むならば、クリスチャンは艱難時代を通ります。

特にここでは詳しくは触れませんが、再臨についてイエス様はこのように言われています。

参照 マルコ13:1-30

13:1 イエスが、宮から出て行かれるとき、弟子のひとりがイエスに言った。「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。」

13:2 すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」

13:3 イエスがオリーブ山で宮に向かってすわっておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに質問した。

13:4 「お話しください。いつ、そういうことが起こるのでしょう。また、それがみな実現するようなときには、どんな前兆があるのでしょう。」

13:5 そこで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。

13:6 わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそそれだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。

13:7 また、戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません。それは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。

13:8 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こるはずだからです。これらのことは、産みの苦しみの初めです。

13:9 だが、あなたがたは、気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対してあかしをするためです。

13:10 こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。

13:11 彼らに捕えられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。

13:12 また兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを死に至らせます。

13:13 また、わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。

13:14 『荒らす憎むべきもの』が、自分の立ってはならない所に立っているのを見たならば(読者はよく読み取るように。)ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。

13:15 屋上にいる者は降りてはいけません。家から何かを取り出そうとして中にはいってはいけません。

13:16 畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。

13:17 だが、その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。

13:18 ただ、このことが冬に起こらないように祈りなさい。

13:19 その日は、神が天地を創造された初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような苦難の日だからです。

13:20 そして、もし主がその日数を少なくしてくださらないなら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、主は、ご自分で選んだ選びの民のために、その日数を少なくしてくださったのです。

13:21 そのとき、あなたがたに、『そら、キリストがここにいる。』とか、『ほら、あそこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。

13:22 にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます。

13:23 だから、気をつけていなさい。わたしは、何もかも前もって話しました。

13:24 だが、その日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、

13:25 星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。

13:26 そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。

13:27 そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。

13:28 いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。

13:29 そのように、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。

13:30 まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。

特に30節の「これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません」という言葉に注目してください。

1-27節までのことが、すべて起こらなければ、この時代は過ぎ去ることはない、わかりやすく言うと、これらの事柄がすべて成就したあとに、キリストの再臨があるというふうに読み取れるのではないかと思います。

私たちが艱難時代を迎える際に、14節にあるように「荒らすべき憎む者」が立つことが理解できると思います。

話はヨハネの福音書に戻ります。

ローマの皇帝カイザルは、これから擁立するであろう反キリストの型でもあります。

そう、「荒らすべき憎む者」とは反キリストのことを言われているのです。

表面的には、そうは見えなくても、神様の目からみて、多くのクリスチャンが明らかに背信の道を歩んでいます。

そして背教が極みに達した時に神の赦しの下、反キリストが擁立されるのです。

「反キリスト」というくらいですから、宗教にかかわることだと理解できるのではないでしょうか。

いわゆる政治の下で宗教指導者が権力を得ていく、そして、反キリストが制定した法律に従わない者は、かつてのイエス様のときと同様、排除していこうという流れになっていくのだと思います。

反キリスト、つまりキリストに反逆する人が制定する法律なのですから、当然御言葉に反することだということは想像できます。

ゆえに、正しく御言葉に従うクリスチャンが艱難に遭遇するという風に考えるのは正しいのではないでしょうか。

御心を行うクリスチャンが御言葉に従わないクリスチャンから攻撃を受ける時代に入っていくわけです。

艱難前携挙説を盲信している人たちにとってはとても信じがたい話かも知れませんが、そのようなヨタ話や嘘・偽りの教理に騙されている場合ではありません。

参照 Ⅱテモテ4:3,4

4:3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、

4:4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。

義人がかろうじて救われるとか神の家からさばきが始まると御言葉にもあるように、神様を知らない未信者だけでなく、クリスチャンも神様の前により分けられる時代に入りつつあることをどうか正しくご理解ください。

そして、ポイントは、そのような事態に遭遇したときに、たとえば周囲のクリスチャンに、カルト扱いをされたり、議会へ引き渡された場合に、どちらに従うのかどうかです。

人を恐れるあまり、人が定めたおきてに従うのか、あるいは御言葉につくのか、いずれかの選択をしなければいけません。

ある意味、反キリストが擁立するのは、私たちの信仰の真価を問うためのものでもあるからです。

揺り動かしがきても、押し流されずに御言葉にとどまるのか、あるいは信仰を捨てるのかを試るものとして、背信のクリスチャンのために神様が予めご計画されているものだということです。

その時が来ても慌てふためくことのないように、その都度正しい選択ができるように、ぜひ、今から備えをしていきたいと思います。

今までのメッセージの中でも何度か申し上げている通り、主の弟子として歩んでいくことをおすすめします。

常に祈り、御言葉に触れ、御心を行っていく歩みにどこまでも徹していくことです。

御言葉にも絶えず祈りなさいとか身を慎み用心深くしていなさいと言われています。

このことをきちんと実践していくなら、たとえ艱難の時に入っても、驚いたり慌てたりすることは無いと思います。

多少なりとも、心が揺り動かされたとしても、正しく対応できるように、聖霊がその時に必要なすべてのことを思い起こさせてくださると思います。

イエス様が十字架の死に至るまで神様に忠実であられたように、私たちもイエス様の歩みに連なる者となっていかれるのではないでしょうか。

ぜひ、そのことを信じて歩んでいきたいと思います。

反キリストが擁立して、かつてないような今後もないような苦難のときがあると言っても、3年半です。

わずかとは言えないかも知れませんが、それが永遠に続くわけではありません。

しかし、まかり間違えても、その間、キリストを否定してしまって恵みから落ちることがないように気をつけていきたいと思います。

また、今の時代においても、何らかの機会において、たとえば人からクリスチャンなの?と、問われたときに、イエス様が主であり、イエス様にこそ救いがあることを、はっきりと口で告白できるように祈り求めていきたいと思います。

反キリストが制定した法律に背いたゆえに、結果として人から訴えられて窮地に立たされることもあるかも知れません、場合によっては肉体の命を失う可能性もあるかも知れません、しかし、最後まで御言葉に従って得るべきもの(永遠の命)をゲットしていきたいと思います。

 

今から二年前のことです。

夢の出来事か幻かは定かではありませんが、「艱難時代のために備えていきない」という主からの語りかけを受けました。

すでに弟子の歩みに入っていたのですが、その時点ではさほど深刻に艱難時代のことについて考えていませんでした。

しかし、主からの語りかけを受けてから、多少なりとも考えるようになりました。

そして艱難時代に関しての祈りを積んでいく中で、このような問いかけも受けました。

「私のためにあなたは命を捨てるのか?」という言葉です。

そのことについても、ぼんやりとしか考えていませんでした。

恐らく、殉教はできれば避けたいと、そんな風に思っていたからです。

でも、聖書をよく読むと、いえ、それほど読まなくても、答えは明白だと思いました。

なぜなら、主がまず私たちのために死んでくださったからです。

また、「私のために命を捨てる者はそれを得る」とも言われています。

実際に殉教できるかどうかについては、いざ、そのときが来てみないと分かりませんが、御言葉からも、すぐに結論を出すことが出来ました。

艱難時代について、このことも入ってみないことには分かりませんが、日ごろ、どのように歩んでいくかが、ますますポイントになっていくのではないかと思います。

その時になって、どんな風になるのか、もしかするとペテロのように3度、いえ、それ以上にイエス様のことを否定してしまうかも知れませんが、そういったことを回避できるように主にあわれみを祈り求めながら、艱難時代の備えをしていきたいと思います。

肉体の命を主に捧げることも大切なことかもしれませんが、生かされている間、日々、自分の思いや考えにも死んでいかれるような訓練も積み重ねていきたいと思います。