聖書箇所 ヨハネの黙示録6:2

 

 

 

6:2 私は見た。見よ。白い馬であった。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。

 

 

 

「教会&クリスチャンの二つの運命」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

 

 

聖書の中には「馬」ということばが所々使われています。本日の節もそうですが、黙示録6章の中で複数の「馬」が出てきます。「白い馬」「赤い馬」「黒い馬」「青ざめた馬」と4種類の「馬」が登場します。この「馬」ということばは、いったい何を指すのでしょうか?一般的に「馬」と聞くと、ポニーちゃんとか、かつての戦国時代に戦いの手段として使われていたとか、そんなことを連想しますよね。ただ繰り返し申し上げているように、聖書はたとえの書なので、そのこともみていきたいと思います。聖書で言う「馬」とは、たしかに戦いにも用いられていますが、たとえの意味合いとしては「教会」とか「勇士」のことを言われています。ここでは主に「教会」という意味合いで使われています。そしてこの4種類の馬は、それぞれ色が異なります。「色」に関してもたとえの意味合いがあります。「白」は、「義」をあらわします。「赤」で連想するのは「火」です。「火」は霊的なたとえですが、この場合悪い霊を指します。「黒」は「罪」をあらわします。「青」と言うと「青銅」ということばが思い浮かびますが、「裁き」をあらわします。なのでこの4種類の馬、すなわち4つの教会の中のうち、神さまの御心があるのは「白い馬」だけだということが分かります。「白い馬」とは、神の義に溢れた教会、つまり御心を行う教会です。しかし他の教会は悪い霊や罪にやられていたり、あるいは裁きに会うということが理解できます。

 

 

 

そう、そして本日の箇所ですが、この白い馬、つまり神さまの義をまとった教会にいる人は、「弓を持っていた」とあるように、戦いに召されていることが分かります。さらに「冠が与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った」とあるように、勝利に召されていることも言われています。「冠」ということばですが、最近礼拝のメッセージを通して、クリスチャンが後の世に受けるのは「義の冠」だということを学びました。ちなみに「義」とは、ギリシャ語で「法律的、律法的に正しい」つまり「神の教えをよく守る」という意味だそうです。ですからこのことを通しても「白い馬」が、神さまの教えをよく守る、つまり御心を行う教会だということが分かります。このような教会やクリスチャンに対して神さまは、戦いを通して勝利を得させると約束されているのです。ちなみに「勝利の上にさらに勝利を得る」のところは、KJV訳では「征服する、武力で奪う」とあります。これは何を言っているのか?と言うと、この世において神が言われた戦いに勝利するなら、後の世において主イエス・キリストと共に王国を治めるということを言われているのではないかと思います。それに関して、他の聖句をみてみたいと思います。

 

 

 

参照 ヨハネの黙示録6:9-11

 

6:9 小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。

 

6:10 彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」

 

6:11 すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい。」と言い渡された。

 

 

 

9節に「殺された人々のたましい」と書かれています。この人々は、「神のことばと、自分たちが立てたあかし」のために殺された人々です。つまり最後まで正しくみことばについたために、殉教した人々のことを指します。なので先ほどの「神が召した戦い」とは、ある意味、神さまのみことばを正しく解き明かしたり、神さまが成してくださったみわざについて語ることを言われているのではないかと思います。そして11節「彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた」とあるように、彼らには義の衣が与えられました。「神のことばと、自分たちが立てたあかし」、つまり彼らは「神のことば」と「神のあかし」の働きに召された人々です。このことを通して分かることは、これからの時代、特に艱難時代において、正しくみことばを解き明かす人や神さまが成してくださったあかしを伝えていく奉仕者は、殉教の可能性があるという視点で奉仕や歩みをしていく必要があるのでは?と思います。言わんとしているのは、イエス・キリストのことばに堅くとどまるクリスチャンは戦いを挑まれるということです。そして正しいクリスチャンに戦いを挑むのは誰なのか?と言うと、サタンに用いられる人々です。具体的に言うなら、この世の神さまを知らない異邦人もそうかもしれませんが、霊的に惑わされたクリスチャンが正しいクリスチャンを迫害したり法廷に訴えたり、はたまた死罪に追い込んでいくと思われます。さらに言うなら、「白い馬」以外の「赤い馬」「黒い馬」「青い馬」に乗った人たちがそうするのでは?と、思います。そのことに関して、他にも所々記述がありますので参考までに紹介しておきます。

 

 

 

参照 ヨハネの黙示録11:7,12:11,12,17

 

11:7 そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す

 

12:11 兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

 

12:12 それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」

 

12:17 すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った

 

 

 

 

 

こちらの箇所も少しみたいと思います。

 

 

 

11:7 そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す

 

 

 

「彼ら」とは、神に召された預言者です。ここでも彼らが神さまについてあかしをすることが分かります。でも、あかしが終わったら、「獣」すなわちサタンによって動かされた国の人たちから戦いを挑まれ、殺されます。これからもそうかも知れませんが、今の時代においてもみことばを正しく解き明かしたり、あるいは主イエス・キリストのみわざについて証をする働きがあります。そしてそのことを通して真理を見る人々もいます。が、しかし一方サタンによって動かされている人々からは、それらの働きはいずれ猛反発を受けるようになるでしょう。「彼らと戦って」のみことばが、まさにそのことを語っています。続いて「彼らを殺す」とあるように、正しいクリスチャンを死に渡すことについてこのみことばは預言しています。次をみます。

 

 

 

12:11 兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

 

 

 

先ほど見たように、たしかに正しくキリストに着くクリスチャンは困難に会ったり、はたまた殉教したりする可能性もあり、この世においては一見敗北したかのようですが、「小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った」とあるように、キリストによって「彼」、すなわちサタンの力に勝つのです。もっと言うなら、イエスさまが十字架でサタンに勝利したように、この時もキリストのことばとあかしを携えているクリスチャンはキリストにあってサタンの働きを打ち砕くことに成功するのです。ハレルヤ!「彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった」ということばにも語りかけがあります。このことはイエスさまが十字架で御自身を捧げられたことに通じることです。イエスさまのあかしのために、あるいはみことばのために、たとえ「死」に渡されたとしてもそのことを最後まで堅く守るなら、勝利できるのです!!

 

 

 

12:12 それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」

 

 

 

「天とその中に住む者たち」とは、天的な教会、つまり神さまのおきてや定めをきちんと守る教会やクリスチャンのことを指します。彼らに対して神さまは「喜びなさい」と言っています。そう、最後までキリストのことばを守るなら、神さまから誉れや祝福を受けるのです。しかし、それに続いて「しかし、地と海とには、わざわいが来る」と書かれています。「地」とは、「この世に着いた教会」つまり「天的な教会」とは真逆な教会のことを指します。俗悪な教会やクリスチャンには、「わざわい」がもたらされるのです。いわば、正しいクリスチャンを苦しめた人々には、神からの呪いが下るのです。このことは厳粛に考えなければいけない事柄です。正しくみことばにつく人を「原理主義者」「カルト」などと呼ばわって、迫害したり困難な目に会わせたり、訴えたり、死に渡したりしていくときに、もし、それらのことを最後まで悔い改めないのなら、この世においてもそうですが、神の御怒りの裁きを招いてしまいます。そうすると、どうなるのか?と言うと、たとえクリスチャンと称していたとしても、御国を受け継ぐのは恐らく無理でしょう。同じ黙示録の中の他の箇所に書かれているように、「聖なる御使たちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる」のです。なので、このようなことは絶対に回避していきたいと思います。

 

 

 

本日の結論をまとめます。終末、世の終わりに関しては、明らかに教会やクリスチャンは二分されると思います。そしてこれから益々そのことは顕著になっていくと思います。一方は神さまのことばを堅く守る教会やクリスチャン、もう一方はみことばを守らないどころか反対に守る人に対して攻撃をしたり妨害をしたりして戦いを仕掛けてくるクリスチャンとに、分かれていくでしょう。ただし繰り返し申し上げるように、後者には神さまの御心は全くありません。後の世において裁きや怒りが下されることは目に見えていますので、くれぐれも気をつけていきたいと思います。どちらに属するか?は、個々におけるクリスチャンの判断が最後まで尊重されていくと思いますが、決して千載の悔いを残すことのないように、その都度正しい選択をしていきたいと思います。こういうポイントについても見ておいていただけたらと思います。

 

 

 

 

かつても何度か同じようなテーマで話をしたことがあると思いますが、本日の箇所を通して改めて教えられたように思いました。私の霊的な感覚に大きな間違えがなければですが、4つの馬のうち、1つだけ神さまの前に義と認められる馬があるということを理解していく中で、恐らく大半の教会やクリスチャンが義とされずに、はたまた最後まで悔い改めるのを拒んで滅んでしまうのでは?と思います。どこの教会が、あるいはどのクリスチャンがそうなのか?なんてことは私にはよく分かりませんが、でも、現時点で「地獄は無い」とか「セカンドチャンスがある」とか「艱難前携挙説は正しい」と提唱している教会やクリスチャンは非常に危ないと思います。また、神さまの御教えに留まらない、もしくは留まろうとしないクリスチャンも悪い意味合いで区分されてしまうのでは?と思います。本日参照したみことば「死に至るまでも命を惜しまなかった」とあるように、そのような歩みに最後まで徹していけたらと思いました。今回も大事にポイントについて語ってくださった神さまに栄光と誉れがありますように。