聖書箇所 ヨハネの黙示録7:1

 

 

 

7:1 この後、私は見た。四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押え、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしていた。

 

 

 

「聖霊の風」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

 

 

エレミヤ牧師が執筆されているHPのメッセージでも言われていることですが、聖書は多くのたとえが使われている書物です。しかも黙示録には、ことさらにありとあらゆるたとえがみことばに含まれています。なので、たとえを理解しなければこの書を正しく読み取ることができません。そして本日の箇所にもいくつかのたとえが使われていますので、若干の説明を加えながらメッセージをしていきたいと思います。

 

 

 

ところで私が黙示録を何度か通読していく中で少し気付いたことがあります。それは黙示録の中には度々「御使い」ということばが出てくることです。本日の節でも「御使い」が登場します。「御使い」と聞くと、多くの方が「天使」を連想するかと思います。かつての私もそう思っていました。しかも良い天使を、です。でも、聖書通読を重ねていくうちに、あるいはレムナントキリスト教会の礼拝メッセージやエレミヤの部屋のHPのメッセージでの学びを通して、良い御使いもいるけれど、しかしそれだけではなく、悪いことをする御使い、すなわちクリスチャンに害を加える御使いもいるということを理解しました。そして本日登場する御使いは、まさに「悪い御使い」です。特に黙示録の時代、いわゆる世の終わりに登場する御使いは比較的悪い御使いが多いようです。なぜ、そんな風に悪い御使いの出番が多いのか?と言うと、それは多くの教会やクリスチャンの背信のゆえのことなのです。そんなことも心の片隅に置きながら、本日の箇所で神さまが語っていることを共に学んでいきたいと思います。

 

 

 

「この後、私は見た」と書かれているように、イエスの12弟子の一員のヨハネは「四人の御使いが~吹きつけないようにしていた」のを見ました。さて、ここに出てくる「風」ということばについてですが、「風」とは「霊的な事柄」に関係します。「風は思いのままに吹く」とか「巡って巡って風は吹く」とあるように、これらの「風」は「聖霊」にたとえられます。でも一方、「教えの風に吹き回されないようにしなさい」とあるように、この場合は良い意味合いでの「風」ではなく、「悪い霊」の働きについて言われています。そして本日の聖句、「地の四方の風を堅く押え」「吹きつけないようにしていた」「風」は、「聖霊の風」のことを指します。ここで言わんとしているのは、四人の悪い御使いが聖霊の風を押えている、いわば聖霊の働きをさえぎっている、とどめている、ということです。そのあとで、「地にも海にもどんな木にも吹きつけないようにしていた」とあります。「木」も、たとえの意味合いがあります。「木」は「山」に沢山生えています。「山」ということばも聖書で度々出てきますが、「山」は「教会」のたとえでもありますので、ここで言われている「木」とは、「教会」の中にいる「信者」すなわち「クリスチャン」、そしてクリスチャンを指すと思われます。その前に「地の四隅」ということばがはじめに出てきます。つまり「地の四方の風を堅く押え、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしていた」とは、すべての教会やクリスチャンに対して悪い御使いが聖霊の働きをとどめている、という風に理解できます。

 

 

 

では、教会やクリスチャンがこのような扱いを受けなければいけなくなったのでしょうか?それははじめに申し上げたように、世の終わりに教会やクリスチャンが背信へと向かうようになったからです。冒頭のみことばを読むと一見、悪い御使いが一方的に「聖霊の働き」をとどめているように思えますが、そうではなく、教会やクリスチャンのほうから先にキリストを追い出したゆえに神さまによって許されたことなのです。分かりやすく言うなら、聖霊のほうから教会やクリスチャンから去ったのではなく、教会やクリスチャンがイエスさまから離れて行ったのです。「そんな馬鹿な!」と言われる方もいるでしょう。でも、現実はどうでしょうか?同じ黙示録には、「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」ということが書かれています。このことばはキリストが戸の外、そう、教会の中におられず外にいるということを言われていますよね。本来、教会の真ん中に着座されているはずのキリストが・・・こんなことはあってはならないことではありますが、戸の外、教会から追い出されているのです。そう、黙示録の時代、つまり終末の時代、イエスさまは教会から追い出されているのです。「そんなことはありません。うちの教会はキリストをほめたたえています。キリストを中心にしています」とおっしゃるでしょう。本当にそうなら、それはすばらしいことです。でも、たとえばの話ですが、艱難前に携挙があるとか、クリスチャンと名が付けば裁かれずに皆天国に行けますなんていう教理を受け入れていませんでしょうか?語ってはいませんでしょうか?もしくは今は終末の時代なのに、そのことについて口を閉ざしたりしていませんでしょうか?あるいは艱難時代の準備について信徒の方にきちんと伝えているでしょうか?このようなことはほんの一例に過ぎませんが・・・余計なお世話かもしれませんが、もしひとつでもお心当たりがありましたら、キリストを追い出している可能性があると思われたほうが良いのでは?と思います。また、個々におけるクリスチャンにおいても質問させていただきます。主の御心を行うことに心を注いでいますか?主にお仕えすることに熱心になっているでしょうか?聖書を読んだりお祈りをしたりすることに励んでいますか?御霊の実を結べるように熱心に祈り求めていますか?艱難時代のための備えをしていますか?もちろんこれらのことに関して強制は一切ありませんが、しかし、あまりにも無関心になっているようでしたら、もしかすると「この世に着いたクリスチャン」になっている可能性がありますので、注意が必要です。そう、クリスチャンであっても、あるいは教会と称していたとしても・・・俗なるものになっていくときに、「聖霊の風」がとどめられてしまうのです。特に世の終わりに関しては、至るところでこういうことが許されていくのではないかと思います。それこそ、「背教が起きる」ことについて聖書では預言されていて、今まさにクリスチャンや教会がそういう方向に引っ張られているように思えます。たしかに「聖霊」は教会や個々におけるクリスチャンを通して働きをされるのですが、しかし、私たちが俗的なものになっていくときに、残念ながらその働きは消えてしまうのです。なぜか?みことばのどこかにも書かれていたように、「世と世にあるものを愛してはなりません。もし、世のものを愛するなら御父を愛する愛はありません」と、要するに俗なるものと聖なるものの共存はありえないからなのです。なので聖霊の風や働きを求めるのなら、俗なるものから離れていかなければいけないのです。そうしていくなら、たとえ一時的に俗的になっていたとしても、「聖霊の風」が差し押えられることはありません。「風は思いのままに吹く」と書かれているように、再び「聖霊の風」を呼び戻すことができるのです。また、私たちクリスチャンは、聖霊の風、いわゆる聖霊の働きがあってなんぼのものです。要は聖霊の力ありきの中でまともな歩みや働きができるのです。裏返せば「聖霊の風」が無いと言うときに、健全な歩みができなくなってしまうのです。そして最後まで「聖霊の風」をとどめられてしまうなら、天の御国に入れなくなる可能性がありますのでくれぐれも気を付けていきたいと思います。日々、俗的なこととはきっちりと分離して、「聖霊の風」を受けて、神さまの前に正しく歩み続けていきたいと思います。そして、その延長線上において天の御国をゲットしていきたいと思います。

 

 

 

 

洗礼を受けてからしばらくの間、世の中のことと神さまのことを両立した生活を送っていました。毎週の礼拝や祈祷会に参加する一方で、世のこともちゃっかり謳歌していました。なぜか?と言うと、クリスチャンは一度救われれば天の御国に入れると思っていましたし、艱難前携挙説を信じていたので特にしゃかりきに信仰生活を送らなくても楽勝に天国に入れる!と、口に出さないまでも心の奥底ではそんな風に思っていました。でも、ある時そんなクリスチャン生活に行き詰まりを感じることがあり、しばらくの間、教会からも神さまからも離れてしまいました。ただ、なぜか心の片隅に「このままでは良くない」という罪悪感のようなものは感じていました。そんな生活を送っているうちに、「もし、このままずっと教会やイエスさまから離れてしまったら、いくら洗礼を受けているといっても、きっと天国には行けないだろうな」と思い、そのことは心の中で益々強くなっていきました。そうこうしている間に、あることをきっかけに再び教会に通うことになりました。自宅の近くの教会でした。艱難前携挙説を推進していた教会ではありましたが、信仰熱心な信徒の方が比較的集まった教会でした。なので、自分も周囲の人に倣ってまじめに信仰生活を送っていこう!という思いになりました。まずは毎週ごとに礼拝に行くことを目標にしました。そのことを続けていく中で、「イエスさまとの関係をきちんと確立していきたい!」という思いが次第に内側から込み上げてきました。一週間、一ヶ月、一年と、祈っていくうちに、ある時「世の中との分離」ということを聖霊に示されました。その頃は聖書をあまりよく読んでいませんでしたが、「ああ、神さまのことと、世の中のこと、それから自分の思いや考えとは両立しないものなんだなぁ」ということをただ、御霊の促しによって素直に認めることができました。それから方向性を変えて、聖霊の示しと導きの中で俗なるものと少しずつ分離するようになり、イエスさまの御心を行うこと、いわゆる主に喜んでいただけることをひたすら祈り求めていくようになりました。すぐに大きな変化はありませんでしたが、神さまが働いてくださるようになって、霊的な面において、教理の面において徐々に正しい方向に導いていただけるようになりました。その時にふと、思いました。かつては俗的なクリスチャン生活を送っていたので、聖霊の働きは無かったのだと、それこそ御使いによって風をとどめられていたのだということを理解しました。それからメッセージの中で書き忘れていましたが、「罪」があるときも、「聖霊の働き」はなくなってしまいます。なので、「罪」を持っていたり、あるいは神さまによって何らかの方法で指摘を受けたときには、時を移さずにすぐに悔い改めることを習慣としていきたいと思います。また、みことばに「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる」ということがありますので、いつもへりくだっていることがいかに大事なことであるか、また、そういうところに聖霊の風は来てくださるのでは?と思いました。これからもこういった大事なポイントを忘れずに、絶えず聖霊の風の中にとどまれる歩みを目指していきたいと思います。本日も大切なことを語ってくださった神さまに栄光と誉れがありますように。