聖書箇所 ルカ13:1-5

 

13:1 ちょうどそのとき、ある人たちがやって来て、イエスに報告した。ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたというのである。

13:2 イエスは彼らに答えて言われた。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。

13:3 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。

13:4 また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。

13:5 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」

 

1-5節では、悔い改めないと、滅びてしまうことを言われています。

悔い改めることは、信仰生活の基本です。

また、この悔い改めとは、方向を変えるという意味合いです。

ここにも書かれているように、イエス様は、私たちに悔い改めるよう呼びかけています。

 

参照 黙示録3:2,3,19

3:2 目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。

3:3 だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。

3:19 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。

 

なぜ、それほどまでに、悔い改めることが強調されているのでしょうか。

まず、私たちには、原罪と言われるものがあり、この地上には完全な人など一人もいないということ、そして、生まれつき非常に罪を犯しやすいということ、つまり、基本的には、罪を犯さないように、どんなに意識していても、良いことよりも悪いことをしやすいということです。

また、さきほど、方向転換することについて話しましたが、罪を持っているがゆえに、信仰の歩みや神様の働きに関しても、間違えたり、とらえ違いをしてしまうことが多いことも言えます。

そのようなことを絶えず意識していくことに目を注がなければなりません。

 

また、一度悔い改めれば、それでOKなのではありません。

上記御言葉にもあるように、熱心に悔い改めることが大切です。

ちなみにこの箇所では、「罪深い」という言葉が2回出てきていますが、悔い改めと罪とは、非常に密接な関係にあります。

罪とは、「的外れ」という意味合いです。

的外れなことを示されたら、その都度、悔い改めていかなければいけません。

 

そして、罪を悔い改めずに放置してしまうと、天の御国に入ることは、難しいことを御理解いただきたいと思います。

3,5節では、イエス様が、悔い改めないと、滅んでしまうことをはっきりと言われています。

また、別の箇所では、「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから」とも、言われています。

つまり、神様は、私たちに永遠の命を得るために、悔い改めていきなさいと、呼びかけておられるのです。

 

さて、ここで、少し考えてみたいことがあります。

イエス様やバプテスマのヨハネは、悔い改めについて、話をしていました。

それも、クリスチャンに向けて言っていたのです。

クリスチャンなんだから、救われているから、今更何を悔い改める必要があるのか?と、そのようにおっしゃるかもしれません。

しかし、残念ながら神様の目から見ると、的外れな歩みや働きをしているクリスチャンがあまりにも多いので、このようなことを言われていたのだと思います。

このように申し上げている私自身もその一人であります。

つまり、新約の私たちクリスチャン皆にこのことは当てはまるのです。

 

また、聖書では、今の時代のことを「曲がった時代」とも言っています。

使徒の働きの中でペテロが「この曲がった時代から救われなさい」と、はっきりとおっしゃっています。

曲がった時代とは、クリスチャンの歩みやキリスト教界全体が、おかしくなっているということです。

なので、皆が同じ方向に進んでいるから大丈夫だと考えるのではなく、逆に、この時代のキリスト教界のトレンドに従って歩んでいくなら、確実に滅んでしまうと考えるほうが正しいのです。

今の時代が曲がっていることにすら気づかずに、大半のクリスチャンが滅びの道を歩んでいる、ゆえに、方向を変えて天の御国に通じるまっすぐな道を歩みなさいと言われているのです。

 

今の時代、クリスチャンは艱難に遭わないとか、一度救われれば、皆天国へ行けるとか、そういった耳によいことばかり聞かされているので、天の御国への道が狭いことをはじめ、真理について語っても、なかなか耳を貸そうとしない人が多いのも現実です。

しかし、このことは、私自身が申し上げていることではなく、聖書が言っている現実のことなので、神様の前に心を頑なにせずに、真摯にとらえていただきたいと思います。

 

また、悔い改めていくためには、祈りと御言葉に触れていることが必須です。

牧師、神父、周囲のクリスチャンやキリスト教界、キリスト教関連の本が何を語っているのかではなく、神様が語っていることに耳を傾け、目を留めていくことを優先していくことにポイントがあります。

全部が全部、間違えているとは申しませんが、「曲がった時代」の中に生きていること、つまり、嘘、偽り、惑わしの多いことを理解して、正しく歩んでいく必要があります。

このように歩んでいくことが、霊を正しく見分けていくことや御心を行うことに通じていき、神様との間に平安を保っていかれます。

また、それだけでなく、周囲のクリスチャンを助ける働きにもなっていきます。

祈り求め、御言葉に触れていくときに、神様は、私たちに正しいことや必要なことを、その都度、明確に語ってくださいます。

そして、御声を聞いたときには、決して頑なにならずに、素直に応答していきたいと思います。

このことは、神様の目からみて、とても尊いことですし、天の御国への最短の道なのではないかと思います。

常に、神様を恐れ、謙り、示されたことについては、素直に悔い改めて、御国にふさわしい者になっていきたいと思います。

 

数年前、御言葉とキリスト教界で言われていることのズレを御霊に感じました。

私もその一人だったのですが、御言葉を行わないクリスチャンが多いなぁと思うようになりました。

また、艱難の前に挙げられるとか、クリスチャンは裁きにあわないということについて、長年盲信していましたが、少しずつ疑問を持つようになりました。

このことで、特別時間を割いて祈ったわけではありませんでしたが、私の心の中を御存知の神様が不思議な方法で、真理がどのようなものであるのかについて少しずつ教えてくださいました。

結論から申し上げると、イエス様がおっしゃっているように、命に至る門は小さくその道は狭いということです。

それを見出す者は稀であるとも言われているのですが、私自身、このわずか2,3行の御言葉をはっきりと理解することに、かなりの時間とエネルギーを費やしました。

クリスチャンの真の歩みとは、祈りや御言葉を通して、神様が何を語っているのかをたずね、理解し、それだけではなく、ひたすら実践していくこと、単純にそのことの繰り返しなのかなぁと思いました。

今でも、神様への服従の大切さについては、教えられる毎日です。

従えることとそうでないこと、すぐに悔い改められるものと時間のかかるものとがありますが、聖霊の助けと力と導きによって、日々、つくりかえられていかれたらと思います。