聖書箇所 ローマ人への手紙2:28,29

 

2:28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。

2:29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。

 

本日も御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

2章全体は、ユダヤ人であるクリスチャンが律法を守らないということについて書かれています。

上記御言葉は、そのことの結論について言われています。

 

クリスチャンというと、普通に聖書を読みます。

しかし残念ながら聖書の御言葉を守るクリスチャンはあまり多くはいません。

パウロの初代教会の人たちもそうであったように新約の終わりを生きる時代のクリスチャンは、なおのこと、守ろうとしません。

たとえば、御言葉には「裁いてはならない」とあるのですが、平気で牧師や兄弟姉妹の悪口を言ったりします。

また、直接、人のことをそしったり、批難したり、中傷したりします。

もちろん、クリスチャンと言っても感情があり、原罪のゆえに時としてこういった過ちや間違いを犯したりします。

でも、私たちが悔い改めて罪から解放されて立ち上がっていかれるように、聖霊はそういったことを指摘してくださり、悔い改めへと導いてくださいます。

そして、心から悔い改めて赦しを求めていくときに、主の血によって、きよめられ、赦され、贖われ、立ち上がっていかれるようになります。

しかし、問題は、聖霊に示されているにも拘わらず、悔い改めようともせずに、そのまま罪の中に陥り続けてしまうことなのです。

自分は決して何も間違えていない、自分はどこまでも正しいのだと・・・

これってどうでしょうか?

単なる自己義認と言えないでしょうか?

そういう人の心の中に聖霊はおられるでしょうか?

ある意味、世の中の人と何ら変わりが無いと思いませんか?

しかも、律法を知りながら、そういったことを行っているのですから、神様の目から見て、未信者の人よりもタチが悪いのです。

ですから、言い方は辛辣かも知れませんが、上記御言葉は、「名ばかりのクリスチャンになってはいけない」と言われているのです。

たとえば、過去、こんなことがありました。

あるクリスチャンのことですが、その方はとても信仰熱心な方で、奉仕も積極的に取り組んでいました。

ところが、周囲のクリスチャンや牧師のことを、時々、批判していました。

本人は良かれと思っていて話をしていたと思うのですが、どうも、神様の目から見ると、人を裁いているような感じでした。

たしかに、正論をおっしゃっているのはとてもよく分かるので、私も、「ふんふん」とうなずきながら、話を聞いていました。

でも、ある時に、「このことは良くないのでは?」と、思うようになり、その方のためにお祈りするようになりました。

それから、しばらく時が経って、その方から連絡をいただきました。

「じつは、これこれのことがあって。その時に、思わず、批判したり、つぶやいたりしたの。だけど、そのことを周囲のクリスチャンから指摘された」と。

その方がどうされたか、その後のことは分かりませんが、やはり神様の前に、批判したり、つぶやいたりすることは、まったく御心が無いのだということがわかりました。

たとえ人間的には正しいことであったとしても、それは神様の前には「肉の行い」という風に見なされてしまうからです。

そういった意味合いにおいて、肉の行いから離れて、御霊によって歩んでいくというのは大事なことだと思います。

また、こういうことに関して、私も人様のことを何も偉そうに言える者ではありません。

少しでも気をゆるすなら、いつでも同じような過ちに入ってしまいますので、気をつけていきたいと思います。

そういうことをはじめ、自分自身を何とか変えていただきたい!すべて聖霊の力によって歩んでいきたい!と、日々、一心にそのようにイエス様にお祈りさせていただいています。

28節の「外見上のユダヤ人」という言葉に語りかけがあります。

このことは何を言っているのか、もうお分かりかと思います。

つまり、肉に属するクリスチャンのことを言われているのです。

しかし、29節では、そうではなく、「御霊のクリスチャンになりなさい」ということを強調しているのです。

掘り下げていうと、「心の根底にあるものこそが最も大切なのですよ」と、言われているのです。

そして、御言葉を知っている、聞いている、しかし、それだけではなく、御霊の力を祈り求めて実践する人になりなさいと言っているのです。

「文字ではなく、御霊による」と書かれているように、自称だとか、人から見てのクリスチャンではなく、神様から見てのクリスチャンを目指していきたいと思います。

もし、私たちが御霊のクリスチャンになっていくのなら、「その誉れは人からではなく、神から来るものです」の御言葉がそのまま実現していきます。

また、御言葉を実践していくときに、神様からの不思議な喜びや平安で心の中が満たされていきます。

ぜひ、ここに書かれているように、心に割礼を受け続けていくようにしていきたいと思います。

そのポイントは日ごろの歩みにおいて熱心に祈り、御言葉を読み、御心を実践していくことです。

これから、クリスチャンがますます律法を守らない方向に進んでいくとしても、御心を実践していく人に勝利の秘訣があることをぜひ、みていっていただきたいと思います。

 

レムナントキリスト教会に行く以前は「割礼」の言葉の意味合いを全く理解していませんでした。

それどころか、自分には無関係だと思っていました。

しかし、「心の割礼」、もっと言うなら、心と耳とに割礼を受けるということが信仰の勝敗を決める事柄であるということを理解しました。

私自身が実際に体験したことです。

このことは、礼拝の中で証をさせていただいたことですが、私は、最近、少しずつ、霊的な圧迫から解放されていくということを体験させていただいています。

たとえば、証やメッセージの訓練や預言や奏楽等、人前で何かをするということに抵抗がありましたし、そんな時、敵からの圧迫をとても受けやすいということに気づいていました。

しかし、ある時、礼拝のメッセージを通して、「人は生まれつき、サタンの圧迫の下にいて、皆、サタンに同意しています。しかし、祈りによって、そういったことから解放されていきます」ということを教えていただき、即座に実践してみることにしました。

それから、今に至るまで、2年近くが経ち、今でも「霊的な圧迫から守られますように」と祈り続けているのですが、不思議なことに、少しずつ解放されていっていることを実感させていただいています。

もちろん、ゼロになったわけではありませんが、以前に比べて、圧迫や恐れる思いが、減ったと思います。

前は「人前で失敗をしたらどうしよう?」とか、「人から変に思われないかな?」とか、そんなことに、こだわっていたのですが、いつしか、そのような思いも薄れていきました。

神様の前に、忠実であればいい、誠実に行えればそれで良いというふうに考え方も変えられていきました。

すべて、聖霊が、成してくださったことと言えます。

もちろん、この点だけでなく、まだまだ変えられなければならない部分は山とありますが、しかし、そういったことの第一ステップになったと思います。

また、いつしか、自分自身が体験したことが、少しでも誰かの助けになればいいなぁと、そんな風にも思います。

これからも、度々失敗を繰り返すかも知れませんが、その都度、主に祈り求めて前進していかれたらいいなぁと思っています。

本日も、主が大切なポイントを語ってくださり感謝でした。

主に栄光を帰します。