聖書箇所 ローマ人への手紙5:1-5

 

5:1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

5:2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。

5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、

5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。

5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 

本日も御言葉に沿ってみていきたいと思います。

順にみてみましょう。

 

5:1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

細かいことで恐縮なのですが、「神との平和を持っています」の部分を英語訳でみると「神と和解した、仲直りした」という風に読めます。

平和の反対語は「戦争」です。

私たちが信仰を持つ前は神様との関係は戦争状態であったということがここでは理解出来ます。

しかし、イエス・キリストを信じる信仰を持つことによって、神様との和解が成立することを、ここでは言われています。

 

このことは何かと機会がある度に証をさせていただいているのですが、私は、過去、数年間、キリストと信仰生活から離れていたことがありました。

その間の日々の生活と言えば、とても、すさんでいました。

災いやトラブルが絶えない日々を送っていました。

でも、今となって、その原因をよくよく理解しました。

それは、神様と戦争状態だったからです。

神様の憐れみと奇蹟と助けによって、キリストに立ち返り、信仰生活を再スタートさせるようになってから、状況が少しずつ変わっていきました。

このことを通して、神様に敵対していると、とんでもない方向に行ってしまうんだなぁと、つくづく痛感させられました。

そして、神様に立ち返ることが出来て、本当に良かったなぁと、心から感謝しています。

ですから、クリスチャンと称していて、洗礼を受けている、しかし、過去の私のように神様から離れている方がおられましたら、直ちに、神様に立ち返り、信仰によって歩まれることをおすすめいたします。

 

5:2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。

信仰を持つようになると、心の内側が喜びと感謝と平安で満たされるようになります。

そして、「神の栄光を望んで大いに喜んでいます」とありますように、すべてのことを神様だけに期待をして、神様だけに望みを置くようになっていきます。

そして、そのことのみに喜びを見出す歩みをひたすらしていくようになります。

でも、残念ながら、実際にこのことを体験されている方は今の時代、かなり少ないように思います。

なぜかと言うと、建前はともかく、神様のことよりも、自分のことを優先しているクリスチャンが多いからです。

それはともかく、「望み」という言葉に関して少し話をさせてください。

私たちは神様を目で見ることは出来ません。

しかし、目に見えない神様を信じて、神様を待ち望んでいます。

そして、聖書で言われている希望とか望みとは、この世で言われているものと少し異なります。

この世においては、マイホームを手に入れるとか素敵な人と結婚するとか、目に見えるものを切望します。

そして、これらのものを手に入れた時点で、望みは消えます。

なぜかと言うと、手に入ったもの、すなわち既に目に見えているものは、望みではないからです。

ゆえに、聖書において言われている望みというのは、まだ、目に見えない事柄に絶えず目を注ぐということなのです。

まだ、目にしていなこと、見えないこと、そのことを信じて待つことこそが私たちクリスチャンにとって、とても大切なことなのです。

また、神様を待ち望むというのは、イエス様の再臨を待つということに通じるのではないかと思います。

ぜひ、信仰を持って、まだ見たことのない神様だけを仰ぎ見て、栄光を待ち望んでいきたいと思います。

なおかつ、主にあっていつも喜んでいたいと思います。

 

先ほどの証でも話をしましたように、キリストと信仰から離れていたときには、喜びも平安も感謝の気持ちがほとんどありませんでした。

たまに、良いことがあれば、喜んだり、嬉しい気持ちになったりはしました。

でも、残念ながら、そのようなことは長続きしません。

なぜでしょう?

そこには、キリストがおられないからです。

でも、神様に立ち返って、信仰を持つようになってから、人知を超えた平安や喜びや感謝の気持ちが少しずつ沸いてくるようになりました。

特別良いことが無くても、主が共にいてくださるだけで感謝!と、思えるようになりました。

そして、その思いは、時間が経っても変わることがありません。

感謝するのも、喜べるのも、平安でいられるのも、すべてキリストの復活の力によってなされていることだからです。

また、口に出して「神様、感謝します」ということを繰り返していくうちに、神様に感謝することが習慣になっていきます。

もし、心にありとあらゆる不平や不満、あるいは思い煩いを抱いていらっしゃるのでしたら、ぜひ、「神様、すべて、感謝します。」と告白してみてください。

このことは、私自身も度々体験していることなので言えるのですが、人知を遥かに超越した神様の不思議な方法で、それらのものから次第に解放してくださいます。

そして、何度も何度も、そのことを積み重ねていくときに、どんな時でも、感謝できるようになっていきます。

そのようなことを通して、主にあって、喜ぶこと、感謝することはとても大切だなぁと、つくづく思いますし、これからもそのことを実践していきたいなぁと思っています。

 

5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、

5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。

5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

クリスチャンになって信仰を持つ時に、残念ながらハッピーなことばかりではありません。

5節にあるように「患難」に遭います。

好むと好まざると、患難に遭うから、「患難さえも喜んでいます」と、パウロはあえてこのように書かれたのではないでしょうか。

英語訳だと「苦しみ、試練、苦難」と書かれています。

これは、このような意味合いでしょうか。

クリスチャンになると、特に霊的な意味合いで神様からの祝福や恵みを受けます。

恵みを受けたのなら、そのことを人々にも伝えたいと思うようになります。

しかし、残念ながら、福音が受け入れられるかというと、必ずしもそうではないのです。

良かれと思って語るのですが、反対に人々からあざけられたり、罵られたりすることもあるのです。

イエス様やペテロやパウロがその模範と言えます。

クリスチャンを相手にどこまでも、御言葉に基づいて論じたのですが、反論されたり議会に引っ張られたり、牢に入れられたりと・・・旧約の預言者エレミヤも井戸に投げ込まれました。

はたまた、イエス様は同胞である背信の神の民に十字架に付けられて殺されてしまいました。

これと同じようなことは、新約の終わりを生きる私たちにも起こるであろうと思われます。

正しく御言葉を伝えていくときに、背信のクリスチャンから異端視されたり、カルト呼ばわりされたり、訴えられたり、最悪、殉教に追いやられたりするのです。

このようなことを患難、試練、苦難と言われているのです。

しかし、5節に書かれているように、神様の愛や聖霊の力が私たちに注がれているので、何も恐れたり、希望を失うことはないのです。

それどころか、一つ一つ起きてくる試練や困難や苦しみを喜ぶようにもなると言われているのです。

ペテロやパウロはどうでしたでしょうか。

彼らは鎖につながれたり、牢に入れられたり、議会に引き渡されたり、時には脅されたりしましたが、一歩も引くことなく、御言葉を積極的に宣べ伝えていました。

使徒の働きのどこかに「使徒たちは、はずかしめられることを喜びとしながら・・・」ということが書かれていますように、動じることなく、恥じることなく、福音を語っていたのではないかと思います。

もし、私たちも、彼らのようにイエス・キリストだけを誇りとするなら、どんな場合であっても、同じような対応を取っていかれるのではないかと思います。

突然、試練が襲って来たときに、「ああ、何でこんなことが・・・」と、考えるのではなく、むしろ、そのことに正面から向き合って感謝して喜んでいくときに、忍耐が培われ、それによって次第に品性も身に付くようになり、すべては希望に変えられていくということを、これらの箇所では語られているのではないかと思います。

このことは、とても、大切なことだと思います。

また、クリスチャンの信仰は、ある意味、試練や困難によってたてあげられる、そのようなことも言われているのではないかと思います。

つまり、試練や困難、これは、天の父からの霊の訓練とも言えるからです。

たとえば、過去、私は楽器を習っていたことがありました。

年に1,2回、発表会がありました。

人前で演奏するので、音を外したり、つっかえたりすることはゆるされません。

また、曲を仕上げるためには、単に、その曲を弾くだけではうまくなりません。

当然、日々の指の訓練や部分練習が不可欠になってきます。

これらは、面白くも何ともないのですが、これらのことを積み重ねていかなければ、良いものには仕上がっていきません。

また、週に1度、指導も受けます。

その時に、誉め言葉はありません。

「この間、注意したところが直っていない」とか「音が不揃い」とか「もっと練習時間を増やしなさい」とか、怒られたり、注意されたりすることばかりです。

でも、言われた通りに行っていくときに、まぁまぁ、そこそこ、何とか発表会に出られるくらいには仕上がっていきます。

それと比較して良いかどうかは分かりませんが、試練や困難を通して霊的な訓練を積み上げていくときに、神様の前に少しずつ不動の者に確立されていくのではないかと思います。

正しく御言葉を語ったがゆえに受けてしまう人々からの迫害や罵倒、これらは、明らかに患難と言えますが、そういったことをも神様は喜びや益に変えて下さるのではないでしょうか。

それゆえに、患難に遭っても、決して失望することはない、希望を持ち続けなさい、と言われているのだと思います。

本日の箇所、たった5節分の中に「喜んでいます」という言葉が2度も出てきていることにポイントがあるように思います。

喜びと患難、意味合い的には、全く反対のことなのですが、喜んでいくときに、患難が患難で無くなり、試練が試練で無くなっていくことを言われているのではないでしょうか。

ちょっとした証なのですが、最近、このようなことを心に示されました。

この世の時間には限りがあるということ、そして、同じ時間を過ごすのであれば、喜びや感謝に満たされた時を一分でも一秒でも長く持つことが大事だなぁと思いました。

目に見えるところによって歩むなら、色々な問題をはじめ、不平や不満があります。

たとえば、警告を伝えているのに、なかなかクリスチャンが受け入れてくれないとか、キリストのことを信じない人があまりにも多い、自分の周囲は家族をはじめ、なぜ未信者のオンパレードなのか?と・・・

でも、あのことも、このことも、すべてのことを感謝していくのなら、自分の内側に喜びや平安を見出すことが出来るのではないか?と、思い、喜びながら感謝するようになりました。

すると、不思議なことに、何ひとつ、目に見えて状況は変わらなくても、心の中から少しずつ、つぶやきや不平や不満が消えていくようになりました。

これもあれも、すべて神様が御支配されているのだから大丈夫と、根拠は何もないのですが、そのような確信まで、抱くようになりました。

これから、クリスチャンは艱難時代に入ります。

その時には、想像を絶するようなことも起きてくると思います。

でも、今から、どんな小さなことでも、それが困難や試みであっても、それらのものを喜んでいくのなら、そのようなことを積み重ねていくのなら、その時に大きな困難が来ても、乗り越えていかれるように思いました。

私にとって、このような示しが与えられたことは、大きなことですし、とても感謝でした。

 

ですから、私たちは、どんな試練や困難に遭遇したとしても、いつも、喜んで感謝を捧げていきたいと思います。

ひとつの試練を乗り越えていくときに、霊的に強められていきますので、別の試練がきたときにも、それと同じように対応していかれるようになります。

そして、そのようなことを積み重ねていくことによって、神様によって脱出の道が備えられていくことにますます確信を持つようになっていきます。

また、そのことを実践し、体験していくときに周囲の人々を霊的に強めたり、信仰をたてあげられたりもしますので、ぜひ、おすすめいたします。