聖書箇所 ローマ人への手紙12:4-8

 

12:4 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、

12:5 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。

12:6 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。

12:7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。

12:8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。

 

本日も御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

この箇所では教会の働きに関して宣べられています。

 

「一つのからだには多くの器官があってすべての器官が同じ働きはしない」と書かれていますように、私たちの体の中には色々な器官があって、それぞれの役割を果たしています。

5節にあるように、このことは、たとえであって、からだはキリストの体である教会に通じます。

器官は、個々におけるクリスチャンを指します。

そして、お一人一人を通して、キリストの体である教会の働きが進められていきます。

 

ところで、先日、礼拝のメッセージの中でこのような学びをしました。

教会は聖霊の賜物をもって仕えていくところだと。

だから、賜物を熱心に求めなさいと。

Ⅰコリント人への手紙から、そのようなことを教えられたのですが、本日の箇所もそれと同じようなことを言われているのではないかと思います。

6節に「異なった賜物」とありますように、私たちは、それぞれ、神様から賜物をいただいて、それを用いて働きを担っていくのです。

ただし、そのためには、賜物を求めていくことが前提です。

また、賜物は、それぞれ違いますので、与えられた賜物をもって、仕えていけば良いのです。

6節以降に書かれているように、預言の賜物を与えられた人は預言をしますし、知恵・知識・教えの賜物を持っている人は、教えたり指導したりします。

ですから、皆が皆、預言をするのではありません。

皆が教師になるのではありません。

同章の3節に「神がおのおのに分け与えてくださった信仰のはかりに応じて慎み深い考え方をしなさい」とあるのですが、賜物は神様が分け与えてくださるのです。

ですから、「あの人と、同じようになりたい」とか「なぜ、自分にはこういう賜物しか無いんだろう」とか思う必要は全く無いのです。

神様は、それぞれの人に、これぞという賜物を下さるので、与えられた賜物に感謝して喜んで神様にお仕えしていくことをぜひ、おすすめいたします。

また、賜物は英語で「gifts」、つまり神様からのプレゼントということも教えていただきました。

ですので、熱心に求めていくときに、神様から与えられるので、そのこと信じて祈り求めていきたいと思います。

今、多くのキリスト教会では、聖霊の賜物について、あまり言われていないようです。

このことは、とても残念に思いますし、聖書的では無いように思います。

と、言うのは、聖書では、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさいと書いてありますし、使徒たちの働きを見ても、皆、賜物を用いて神様に仕えていたことが理解出来るからです。

メッセージするにしても、証をするにしても、預言をするにしても・・・神様の働きの中心を担っていく際に賜物は不可欠です。

聖霊の賜物を求めるというと、何か古臭いとか変わっているとか、そんな目で見られてしまうかも知れませんが、神様が熱心に求めなさいという以上、求めていきたいと思います。

また、世の終わりには、すべての人に神様の霊を注がれることが聖書に書かれています。

ヨエル書や使徒の働きに「終わりの日にすべての人に私の霊を注ぐ。息子娘は預言をし、青年は幻を見、老人は夢を見る」と記されていますので、益々、熱心に祈り求めていきたいと思います。

聖霊の賜物をもって神様に仕えていくときに、教会の働きが進むばかりか、周囲の人々を助けたり、その人自身にも大きな恵みや祝福をもたらすものとなりますので、ぜひ、おすすめいたします。

 

私が、このように神様から教えられたことに関してわずからながらも宣べさせていただくようになり、早、1年半が経とうとしています。

以前は、メッセージはおろか、証すら、ままならなかったのですが、このような働きに携われますのは、一重に神様の助けと力のおかげだと言えます。

しかも、肉の性質や生まれつき持っているものと言えば、作文は子どもの時から大の苦手でしたので、こんな風に文章を執筆していることは、奇蹟とも言えます。

本日のメッセージでも学びましたように、聖霊の賜物を求めていくようになり、少しずつ状況が変えられていきました。

聖書に書かれている通りに、祈っているだけなのですが、神様がそのことにかえりみてくださり、こんな私にも、賜物を与えてくださいました。

かつての私は、自分には何も無いと自己卑下によく陥ったものですが、レムナントキリスト教会でこのことを学び、信じて祈っていったことは、本当に良かったと思います。

これからも、主が与えてくださった賜物に感謝して、恐れや喜びをもって、神様にお仕えしていかれたらなぁと思います。

本日も、大切なポイントを語ってくださった主に栄光を帰します。