聖書箇所 ローマ人への手紙16:7

 

16:7 私の同国人で私といっしょに投獄されたことのある、アンドロニコとユニアスにもよろしく。この人々は使徒たちの間によく知られている人々で、また私より先にキリストにある者となったのです。

 

本日も御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

「投獄」という言葉は、今のご時世、あまり聞きなれない言葉かも知れません。

今の時代、福音を語ったからといって、逮捕されたり、殺されたりすることは、ほとんど聞いたことがないと思います。

でも、聖書という書物は、唯一、未来について語り、なおかつ、これから起こり得るであろう事柄を暗示するものであります。

ですから、ここで言われている「投獄」ということは、世の終わりを生きる私たちクリスチャンにとって、決して無関係ではないということをどうぞ御理解ください。

一見、この事柄はパウロの初代教会の時代だけと思いがちかもしれませんが、今まで再三申し上げていますように、聖書は、世の終わりに向けて書かれているという概念を、もう一度、思い起こしてください。

そのようなことを念頭に置いて、本日の御言葉を共に学んでいきたいと思います。

 

パウロが鎖につながれたり、議会に引き渡されたり、牢にとらえられたりして、そういった状況の中で同胞であるユダヤ人に向けて福音を語ったことについて、多くのクリスチャンはご存知だと思います。

その時に、パウロだけでなく、アンドロニコとユニアスという人々もパウロと一緒に投獄されていたことが、この箇所を通して理解できます。

ちなみに注釈を参照するとユニアスは女性のようです。

アンドロニコとは「優れている人、勝利を得た人」という意味合いです。

つまり、勝利と投獄、すなわち、苦難は、セットであるという風に理解できます。

良い例かどうかは分かりませんが、オリンピックに出場する選手は皆、金メダルを目指します。

でも、単に金メダルが欲しいという思いだけでは、獲得することは出来ないことを誰しもが知っています。

金メダルを得るために、ありとあらゆるトレーニングや練習は不可欠です。

それらを行うには、忍耐や苦しみの連続なのではないかと思います。

コーチには厳しいことを言われ、時には叩かれ・・・そのような訓練を経て、金メダルを得たり、あるいは、入賞したりと、それなりのタイトルを獲得していくのではないかと思います。

永遠のいのちを得ることに関しても、そのことに準じるのではないかと思います。

苦難、困難をはじめ、あらゆる労苦の果てに、約束されているのではないかと思います。

クリスチャンになれば、すべてハッピーエンドではなく、それは、永遠のいのちを目指す歩みのスタートラインに立ったに過ぎないことであり、走るべき行程をきちんと走り通すかどうかは、また、別のことなのです。

平坦な道を走るときもあり、坂道や狭い道、でこぼこ道を走ることもしばしばあります。

そう、投獄をはじめとする、試練や困難、苦難は私たちの霊的な訓練のために、勝利へと導くために、神様によって赦されていることなのです。

私自身、正直、数年前までは、投獄どころか、キリストのために苦しむということには、およそ無縁のクリスチャン生活を送っていました。

それは、聖書を真剣に読まず、ろくに祈りもしなかったので、とんでもない勘違いをしていたのです。

でも、真面目に聖書を読み、御言葉と真剣に向き合い、祈りを通して神様の語りかけを受けるようになってから、根底にあるものが、少しずつひっくり返されていきました。

以前は、口では十字架を見上げてとか、十字架を背負ってとか発していたのですが、それはどこまでも口先だけで・・・本音は、キリストのために苦難をせずに、天国に入りたいと、そんな風に思っていました。

だから、艱難を通らない教え、艱難前携挙説を盲信していましたし、クリスチャンと名が付けば、誰しもが、自動的に天の御国を受け継ぐものだと思っていました。

しかし、最近は、クリスチャンが艱難を通ることに、ますます強い確信を得ていますし、キリストの同労者になっていないと、天の御国を継ぐのは怪しいのでは?と、いうことを御霊によって痛切に感じています。

ゆえに、ここに書かれているような、「投獄」についても、十分あり得ますし、これから起こる得るであろうなぁと、思います。

なぜかと言うと、今は、まだ、そうではありませんが、これから、アメリカを起点に正しく御言葉につくクリスチャンの迫害が始まろうとしているからです。

御存知かどうかは分かりませんが、目に見えるところにおいて、既に、アメリカとカナダでは強制収容所が800ヶ所も建設されていて、その数は、まだ、増やされているということです。

しかも、棺桶も着々と準備されているとのことです。

つまり、クリスチャンを迫害、殉教に追いやる用意は、周到になされているのです。

強制収容所に拘束されるということは、たとえ、刑務所という名が付いていなくとも、「投獄」と同じではないかと思います。

そんな風に聞くと、「投獄」とは、私たちクリスチャンとは、それほど遠いものではないといっても過言ではないと思います。

もし、本当に、神様のために、福音のために、仕えていこうと決意されているのでしたら、残念ながら、こういったことも、身に上に起こり得るということを想定して歩んでいくことは必須です。

同章の3,4節にはプリスカとアクラという人たちについてこんな風に書かれています。

「この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです」と。

この箇所で言おうとしているのも、神様の働きは、いのちがけであるということです。

聖書では、サラッと書かれているのですが、かなり、重要なことを言われていることにお気づきになると思います。

私もそうですが、多くのクリスチャンは聖書を読みます。

でも、案外、こういった点について、見落としているパターンが多いのではないかと思います。

これから、背教が起こり、艱難時代に入っていくと、常に、肉体のいのちの危険はつきまとっていくと思われます。

死との背中合わせの歩みや働きになっていくように思います。

でも、たとえ、投獄されたり、いのちの危険にさらされたりしたとしても、パウロをはじめ、彼の同労者たちのような対応をしていくことに御心があります。

そうしていくときに、主からの不思議な助けや守りが与えられ、結果として、いのちを救うことになります。

アメリカでは、同性愛をやめましょうと呼びかけたクリスチャンたちが、あろうことか、逮捕されたという話があります。

しかも、罰金まで、課せられたそうです。

同性愛者がそのような扱いを受けたのなら十分納得がいきます。

でも、聖書に基づいて、正しく語ったクリスチャンたちが囚人として扱われてしまったのです。

理不尽な!と、誰もが思うかもしれませんが、クリスチャンの背教のゆえ、このようなことが赦されているのです。

艱難時代において、こういった正しいクリスチャンの逮捕、投獄、はたまた殉教までもが、日常茶飯事になっていくと思いますが、このことは、主が御言葉を通して、前もって語っていることですので、万一、そのような事態に遭遇しても、驚き怪しむことなく、正しく対応できるように、今から祈り求めていきたいと思います。

繰り返しますが、正しく主の働きを担い歩んでいくときに、苦難、困難は赦されてしまいます。

でも、主に助けを求めていくときに、ひとつひとつのことに勝利していくようになりますし、そのことを通して周囲の人々を強めたり助けたりもします。

「投獄なんて聞いていないよ!」と、そんな風にならないようにしたいと思います。

たとえ、そうだとしても、パウロが、主にきちんとつながり、周囲の人々に福音を語って、得るべきものを見事に得ましたように、そのことに私たちも倣っていきたいと思います。

 

最近、こんな夢を見ました。

夢の中で、電車を待っていました。

隣に並んでいた人が「これから来る電車は混んでいるかなぁ?」と聞いてきたので、「通勤の時間帯ですから、そうだと思いますけど」と、答えました。

案の定、人がすし詰め状態で、電車は来ました。

なので、一本見送ることにしました。

すると、すぐに次の列車が来て、それが何と!?「強制収容所行き」と書かれているものだったのです。

そこで目覚めたのですが、とてもリアルでした。

もし、この夢が神様から来たものだとしたら・・・正しく御言葉につくクリスチャンの迫害や逮捕や投獄は、そう、遠くない将来に訪れるのではないのかなぁと、夢を通して神様が語っているのかなぁと、しばらくして、そんな思いが心にきました。

自分自身がそうなるのか、そうでないのか、それは、その時にならないと分からないことですが、メッセージでも申し上げましたように、そのようなことも視野に入れて、常に歩んでいかなければ、そんな時代を生きているのだから・・・と、思いました。

ただ、もし、投獄されて、最悪、殉教することになったとしても・・・その状態はずっと続くわけではなく、3年半の艱難時代のあとには、キリスト統治の時代がすぐに始まりますので、そのことにも絶えず目を注いで、希望を持って歩んでいきたいと思います。

残念ながら、試練や困難は赦されますが、事の軽重を正しくとらえて、益々主の御心を行うことに励んでいかれたらなぁと思います。

本日も大切なことを教えてくださいました主に栄光を帰し、感謝いたします。