聖書箇所 使徒の働き4:33
使 4:33 使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。
私たちクリスチャンが福音を語る際に、「キリストの復活」のことを抜きに語るなら、非常に空しいものになってしまうことを皆様はもうすでに御存知だと思います。
上記御言葉にあるように、この時の使徒たちもイエス様の復活をあかししました。
しかも、「非常に力強く」です。
「非常に力強く」・・・この言葉にポイントがあると思います。
クリスチャンなら誰しも、イエス様が死者の中からよみがえったことは今や常識であるとそんな風に思われているかと思います。
だからあえて復活のことなど強調する必要はないかのようにも思われます。
でも、そうではないのではないのでしょうか。
なぜかというと、案外、イエス様の復活の力を信じていない人が実際には非常に多いように思うからです。
さて、イエス様の復活の力とは一体どのようなことを言われているのか、そのことについてご一緒にみていきたいと思います。
そもそもイエス様が地上に来られたのは何のためなのでしょうか。
この点から話をすすめていきたいと思います。
人は誰しも、生まれつき罪を持っています。
このことを原罪と言います。
そのことのゆえに、どちらかと言うと、良い思いや行いよりも、悪い思いや考えが心に浮かんだり、結果としてよくない行動に出やすいのです。
特別、法に触れない罪を犯さなかったとしても、生まれつきの私たちの状態というのは、いくらでも悪い方向へと傾いていくのです。
悪口、そしり、妬み、嫉み、党派心、高ぶり、怒り、憤り等・・・
これらのものは、神様の前に、明らかに「罪」なのです。
また、「罪」とは、「肉の思い」とも言われています。
そして、肉の思いというのは、悪いものばかりを指すのではなく、私たちの生まれつきの良い性質や能力のことも言われています。
そして、これらの肉から私たちは切り離されて、神様の御性質にあずかる者となっていかなければ、残念ながら天の御国に入ることはできないのです。
このことは、心の割礼とも言われていることです。
また、聖書に「人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできません」とあるように、神様の霊を受けていかなければ天の御国を受け継ぐことができないということについて理解できるのではないかと思います。
そう、私たちの罪をゆるすために、私たちが新しく生まれ変わって命(永遠の)を得ることができるために、神様は人としての姿を取って、ひとり子であるイエス様をこの地上に遣わしてくださったのです。
私たちの罪が赦されるためには、まず、キリストの贖いを受けることが必要です。
イエス様が神様の御子であることを心で信じて受け入れて、口で「イエスは主である」と告白することによって、救われるのです。
このことは、クリスチャンとしての歩みをスタートさせる上で、必須なことですし、とても大切なことです。
でも、それですべてが完了したわけではないのです。
今、申し上げたように、このことはクリスチャンとしての歩みが始まっただけのことに過ぎません。
この時点では、神様の御性質にあずかっていないからです。
クリスチャンになることを選択した時点で、私たちは神様と霊的な親子関係に入っていきます。
その際に、親である神様の似姿に徐々に変えられていく必要があります。
ちなみに、イエス様を信じたばかりの頃というのは、まだまだ、信じる前の古い性質が残っています。
それは、仕方のないことです。
昨日今日、信じて、洗礼を受けたからと言って、そうそうすぐに神様の似姿に変えられるわけではないのです。
様々な試練や訓練や困難を経て、徐々に変えられていくものなのです。
人間の親子関係にも当てはまることだと思うのですが、親に喜んでもらえることを行っていくこと、つまり、神様御心を行っていくことが、神様との霊的な親子関係を築いていくための条件とも言えるのです。
ただ、その際、人間的な力や努力や能力等は一切不要です。
これらのものは、私たちが生まれつき持っている人間的なものに過ぎないからです。
まさしく本日の御言葉にある「主イエスの復活」の力だけにより頼んでいくことにポイントがあるのです。
このことは何を言われているのか、もう、すでにお分かりかと思います。
「主イエスの復活」の力とは、聖霊の力のことを言います。
そして、私たちはいつも聖霊の力によって、歩んでいくことに目を注いでいくことが大切なのです。
クリスチャンになった時点で、生まれつきのものは、もう、すでに死んでしまっています。
つまり、もともとの能力や性質というのはどんなによいものであったとしても神様の前に全く役に立たないのです。
どうか、このことを正しくご理解ください。
そうでないとクリスチャンと称していても、人間的な、いわば肉の信仰になってしまうからです。
さきほど、申し上げたように、どんなに良いものであっても、肉の思いはすべて罪ですので、神様を喜ばせることはできません。
しかし、聖霊の力によって歩んでいくなら、神様に喜ばれ、神様に用いられていくようになります。
たとえ、罪深い者であったとしても、罪の中に死んだような者であったとしてもイエス様の復活の力によって、よみがえり、その都度力を得て立ち上がって歩んでいかれるのです。
聖書の御言葉にも書かれているように、神様は私たちが罪深い者であることや弱い者であることをよくよくご存知です。
そして、弱さや罪の中にこそ、神様の力は顕著に働き、ご自身の栄光をあらわされるのです。
もし、このことを信じて歩んでいくなら、必ずそのことは実現します。
復活の力をどこまでも信じていくことによって、あらゆる罪から解放され、倒されても再び立ち上がっていかれるのです。
真の意味合いで人を生かすものは、聖霊の力、つまり「主イエスの復活の力」によって、人は生まれ変わることができるのです。
そして、イエス様の復活の力を得ていくためには、信じることに続いて、聖霊の力を祈り求めていくことがポイントです。
信じて祈り求めていくときに、聖霊の力によって神様の御心を行っていかれるようになります。
また、過去、どんなに大きな罪を犯していたとしても、聖霊の力は、その人に自由を与えます。
神様の前に良いことだけを行っていかれるようになっていきます。
あらゆる罪の力から守られたりもします。
あるいはなかなか離れなれられない罪に束縛されていたとしても、聖霊に助けを求めていくなら解放されていきます。
このことを信じて実践していく人は必ず実態を目の当たりにしていくようになります。
ただ、心を頑なにして、信じない人には、残念ながらこのことはいつまでたっても現実になることはありません。
なぜかというと、今の時代の多くのクリスチャンは口先で神様のことを敬い信じているのですが、真の意味合いで聖霊の力を祈り求める人は非常に少ないからです。
当人が自覚されていらっしゃるかどうかは別として、そのような人は、主イエスの霊ではない別の霊を掴んでいる可能性があるので、くれぐれも注意が必要です。
当然のことながら、神様の御心とは離れた歩みとなってしまい、天の御国に入ることは、危ないとも思われます。
ですから、常に聖霊の働きを祈り求めていくことをおすすめします。
「主イエスの復活」をどんなときでも信じていく人に恵みや祝福があることを、どうかご理解くださいますように。
ぜひ、このことを信じて、神様の御心を行っていきたいと思います。
神様が喜ばれることだけを実践して、真の意味合いでの霊的な親子関係を築き、御国を受けついでいきたいと思います。
証
本日のメッセージは、自分で執筆をしながらも、自分自身に言い聞かせたり、慰めや励ましを得たりしました。
なぜかというと、頭では分かっていながらも、何か問題に直面すると、弱気になってしまって、ついつい不信仰になり、なかなか素直に聖霊の働きを祈り求めようとしないからです。
先日、礼拝のメッセージの中で、私たちクリスチャン生活はすべてハッピーなわけではなく、むしろ難問や困難の中におかれることについて教えられました。
でも、それは、私たちを苦しめるものではなく、真に神様に助けを求めるためのチャンスであり、そういったことを通して、神様の御業や栄光を目の当たりにしたり、信仰の土台をたてあげるものであるということを教えられ、「そっかー、なるほどーっ」と、思いました。
今までは助けを求める前に、ああでもない、こうでもないと色々と考えていて、実際に祈り求めるまでに多少なりとも時間を要していたのですが、そのことを機に、すぐに聖霊の知恵や力を祈り求めていこうという風に、心が変えられ、気持ちがとても楽になりました。
祈りの結果を楽しみに、聖霊の力を祈り求めていくだけでいい、あとはすべて主に委ねていけば大丈夫という風な確信も与えられ、心の中が平安に満たされました。
これからも、様々な試練や困難を通ると思いますが、このことを絶えず思い起こして実践していかれたらなぁと思います。
また、自分と同じような思いをしている人の助けに少しでもこのことが役立てたらなぁとも思います。
聖書の御言葉に「御霊によって歩みなさい」とありますが、イエス様の復活の力に、もっともっと拠り頼んで歩んでいき、神様の栄光や御業を見ていきたいと思います。
レムナントキリスト教会
お問合わせ
Tel
E-mail koukanojisan★yahoo.co.jp
(★の箇所を@に変換してください)
天皇家は万世一系のダビデ王朝の末裔である!警告の角笛シリーズ エレミヤ著