聖書箇所 使徒の働き10:37-43

 

10:37 あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事がらを、よくご存じです。

10:38 それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。

10:39 私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムとで行なわれたすべてのことの証人です。人々はこの方を木にかけて殺しました。

10:40 しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現われさせてくださいました。

10:41 しかし、それはすべての人々にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちにです。私たちは、イエスが死者の中からよみがえられて後、ごいっしょに食事をしました。

10:42 イエスは私たちに命じて、このイエスこそ生きている者と死んだ者とのさばき主として、神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしをするように、言われたのです。

10:43 イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」

 

「復活の力で生きていく」というテーマに沿って、この箇所から神様が語っていることについてご一緒に学んでいきたいと思います。

 

順にみていきます。

 

10:37 あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事がらを、よくご存じです。

10:38 それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。

10:39 私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムとで行なわれたすべてのことの証人です。人々はこの方を木にかけて殺しました。

10:40 しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現われさせてくださいました。

キリストを信じているクリスチャンでしたら、イエス様の御降誕、十字架の死、復活という言葉をよくご存知だと思います。

私も、これらの言葉を耳にしていましたが、単に知識として知っていただけでした。

ですから、降誕を祝うのは、クリスマスとか、復活といえば、イースターのイベントを行うとか、そんなレベルでした。

もちろん、単にそれだけではありませんが、もし、十字架にかけられたイエス様が復活されなかったら、キリスト教はとても空しい宗教だと、その程度にしか、復活のことを理解していませんでした。

それもそのはずです。

弁解するわけではありませんが、洗礼を受けてからは大分年月を経ているのですが、聖書の御言葉と真剣に向き合うようになったのは、ここ2,3年前のことだからです。

聖書通読を真剣に開始したのも、4,5年前からでした。

そしてレムナントキリスト教会の礼拝に行くようになってから、これらの言葉についての知識を少しずつ得ることができるようになりました。

 

では、「イエス様の復活の力」についてみていきたいと思います。

以前の私もそうでしたので、何一つ偉そうなことを申し上げられないのですが、クリスチャンと接していく中で多少なりとも感じることがあります。

それは、復活の力を体験している人が非常に少ないということです。

イエス様が十字架にかかって死んで下さったのは、1つは、私たちの罪のために身代わりとなってくださり罪が赦されるため、もう1つは、私たちが自分たちの肉のもの、分かりやすく言うと、生まれつきのもの、良いものもそうでないものをすべて十字架につけて、私たち自身もそれらのものに死んでいく、どういう表現がよいか分かりませんが、肉のものを無きものとするといえば、よいでしょうか?

そして、キリストから力を与えられて生きていく、そういった意味合いもあるのです。

と、言うか、むしろ、そのことが私たちクリスチャンにとってとても大切なことだと思います。

40節の御言葉、「しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現われさせてくださいました。」

これが、まさに「復活の力」なんです。

イエス様は、私たちがそういった歩みに入ることが出来るように、よみがえってくださったのです。

さきほど、復活の力を体験している人が少ないと申し上げましたが、洗礼を受けて、礼拝に行き、奉仕も行い、でも、それが、キリストの力ではなく、もともとの生まれつきの力に頼って信仰生活を送っている人が現実はあまりにも多いのではないでしょうか。

でも、それでは、キリストの十字架の贖いを無駄にしてしまっている、とても、もったいないことだと思うのです。

以前、教会の礼拝で学んだことですが、クリスチャンになった時点で、私たちの肉の力は死んでいるということを教えられました。

神様は、私たちの、生まれつきの性質や思いや考えには、何ひとつ期待していないのです。

そういったすべてのものを十字架につけなさい、そして、私に力を求めていきなさいと、いつもそのように私たちに語ってくださっているのです。

自分の思いや考え、また、生まれつきの良い部分もそうでないものも、すべて捨てなさいと言っているのです。

私事ではありますが、その意味合いを理解した段階では、しばらく、そのことを素直に受け入れることができませんでした。

特に、生まれつき良いものを捨てるなんてもったいない、それに、自分の思いや考えにもかなり固執していたので、そんなことをしたら全部失ってしまう、自分がまるで無くなってしまう、そんな風に思っていました。

しかし、それでは、神様を喜ばすことが出来ないことを少しずつ理解していくなかで、何とか、そのような姿勢で歩みができるように祈り求めていきました。

そんな中、以前行っていた教会でこのような発言をした人がいました。

前にも、証をさせていただいたことで恐縮ですが、再度話をさせていただきます。

当時私は平日のお祈り会や証会に出席していました。

そして、献身者の方たちと一緒に奉仕をしていました。

賛美の奉仕でした。

そのうちの一人の人がこんな風に話をしていました。

「私ね、音楽のこと、全然だめなの。でも、牧師から、賛美の奉仕をしてみたら?と、言われてやってみようと思った。最近聖歌隊でも奉仕するようになったから、家でも練習しているんだけどね。子どもたちからは相変わらずへただねと言われている。だけど、最近、少しずつ、喜びに変えられていくようになった。きっとそれは、いつも、奉仕する前に兄弟姉妹と一緒にお祈りしているからだと思う。祈るのと祈らないのでは全然違うってことが分かった。祈れば聖霊が働くけど、祈らないと自分の力になるからね」と、そんなことを話してくださいました。

もともとは、音楽に関して、全く苦手だった、でも、祈りによって聖霊から力をいただいて、その方は音楽の奉仕が担えるようになった、しかも、喜んで奉仕ができるようになった、このことはとても素晴らしい証だと思いました。

自分にとって苦手なものがある、でも、そういった思いやもともとの能力もすべて十字架につけて、謙遜になって聖霊の働きを祈り求めていくその方の信仰姿勢に、とても胸を打たれました。

その方は、病気を持っておられて、しばらく入院生活も送られていたそうですが、祈っていく中でイエス様にすべてより頼んでいこうとそんな風に思っているうちに、何も思い煩うことがなくなって、すべてが喜びと感謝に変わったと、そのようなこともおっしゃっていました。

このことは、まさに、イエス様の復活の力を見事に証されているのではないかと思います。

さて、具体的に、復活の力を体験していく信仰生活に関して、学びをしていきたいと思います。

そのことで、主が教えてくださったことについて話をしたいと思います。

まず、復活の力は、私たちクリスチャンが毎日体験していくものであります。

今日は体験したけど、明日は自分の力や考えでいいと、いやぁ、復活の力は年に数回で十分、そうではないのです。

さっきも話をしましたように、すでに、私たちの生まれつきのものは死んでいるのですから、日々、体験していくべきものなのです。

そして、復活の力によって歩むか否かによって、この世で受ける祝福や恵み、そして、後の世における行き先までもが大きく左右されていくということを正しくご理解いただきたいと思います。

何を申し上げているのかというと、同じキリストを信じているクリスチャンと言っても、大きく2分するのです。

具体例を挙げるなら、旧約に登場するエサウとヤコブです。

ここでは詳細については触れませんが、ヤコブの兄エサウは俗悪なクリスチャンの型です。

一方弟ヤコブは、御霊によって歩むクリスチャンの型です。

つまり、クリスチャンと言っても、俗悪、いわば、いつまでも生まれつきのものに頼って歩んでいるクリスチャンと、聖霊の力に頼っている、御霊のクリスチャンとに分けられるのです。

一見、この区分は、人目には分かりづらいかも知れませんが、神様の前には、一目瞭然です。

また、言い方を変えるなら、心と耳とに割礼を受けているかどうか?あるいは、日々割礼を受け続けているかどうか?という表現もできます。

言うまでもありませんが、御霊によって歩んでいくなら神様を喜ばせますし、そうでないなら、悲しませたり、場合によっては御怒りを招くことにもなってしまいます。

クリスチャンにとって、割礼を受けるか否か、このことは、大切なことですし、このことを通して、キリストの復活の力を私たちは体験したり、目の当たりにするようになるのです。

「割礼」とは、肉を切り取るという意味合いがあります。

旧約聖書では度々出てくる言葉ですが、肉、つまり、生まれつきのすべてのものが切り取られていかないと神様の力が働かれないのです。

私たちの生まれつきのものが存続する限り、聖霊の力の入る余地が無い、そのように言われているのです。

また、割礼無き者は神の民と見なされないというような御言葉があります。

このことは、何を意味しているのかというと、心と耳とに割礼を受けていない人は、神様のものではない、もっと分かりやすく言うなら、クリスチャンと認められない、ゆえに、天の御国は非常に危ないといわれているのです。

このことを聞いて皆様はどのように思われますか?

私には、とても厳粛に思えてなりません。

ですから、私たちは、割礼を受けていくようにしていきたいと思います。

それでは、具体的に、どのようにしたらよいのかについてみていきたいと思います。

こんなことを申し上げると、「ええーっ?嘘でしょ?」と、おっしゃる方もおられるかも知れません。

とても、単純なことなんです。

それは、祈ることです。

信仰を持って、11つのことを祈っていく、ただ、それだけのことです。

祈っていく中で、聖霊の力が働かれ、何も努力しなくても、次第に変えられていきます。

表現を変えるなら、すべて、神様に委ねていくことです。

どこまでも、神様の力に頼っていくことです。

委ねる、頼るためにも、やはり、祈ることです。

何もしないでは、無理です。

何も変わりません。

申し上げたように、祈らなければ、聖霊の力は働かないからです。

自分の力で何とかしようとすると失敗しますが、聖霊の力に頼っていくならば、すべてにおいてベストの道が開かれていきます。

たとえば、私は過去、こんなことがありました。

とても小さなことですが、その日の夜、私の家族が「前に録画したDVDを一緒に観ようか?景色がきれいなものを録画したでしょう?ご飯を食べたあとに観てみない?」と、言ってきたので、「うん、そうだね」と返事をしました。

ところが、数分後、急に疲れがどーっと、出てしまいました。

どうしよう?とても楽しみにしている感じだから断りづらいなぁ?でも、はっきりとそう言おうかなぁ?と、心の中で思い巡らしていました。

ふと、そのときに、「そうだ!このことも、自分の力で何とかしようと思わずに、神様に助けていただこう」と、考えを変えて、心の中で、「神様、どうしたらいいでしょうか?」と、一言だけ祈ってみました。

そうしたら、数分も経たないうちに、「やっぱり今日はやめておこう、またの機会にしよう」と、相手のほうからそのように言ってもらうことができました。

もし、自分のほうから断りを申し出ていたら、変なカドが多少なりともたってしまったり気まずくなってしまったりしたのかも知れませんが、神様の不思議な方法によって平穏に解決へと導いていただくことができました。

 

このことは、とても、些細なことではあります。

しかし、どんなに小さなことでも、主に祈っていくことにポイントがあるように思います。

皆様も、人知を超えた平安や喜びという言葉を耳にしたことがあると思いますが、人の力を遥かに超越した神様の知恵や力や方法を得ていくことができます。

そして、自分たちでは解決ができないような問題も、祈っていく中で神様のベストな方法によって最善へと導いていかれます。

さっきの話しは、人が聞いたら、大したことがないことかも知れませんが、私にとっては、大きなことで、割礼へと踏み出す一歩にも思える出来事でした。

繰り返しになりますが、割礼=主により頼む=御霊の力とも言えるのではないかと思います。

人間的に優れた才能や性質を持っている人にとっては、そのことを手放すのはとても惜しいことかも知れません。

でも、神様の前にそのこともすべて捧げていくなら更に良いものが、しかも、神様からの良いものが与えられるなら、このことは実践に値することなのではないかと思います。

割礼を受け、イエス様の復活の力を日々体験していく中で、御霊の人に変えられていきます。

そして、このことは神様を喜ばせ、周囲の人々を助けたり励ましたり、力を与えていくものにもなっていくことですので、ぜひ、皆様にこのことをおすすめいたします。

 

次をみてみましょう。

 

10:41 しかし、それはすべての人々にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちにです。私たちは、イエスが死者の中からよみがえられて後、ごいっしょに食事をしました。

10:42 イエスは私たちに命じて、このイエスこそ生きている者と死んだ者とのさばき主として、神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしをするように、言われたのです。

10:43 イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」

ここで言われているポイントは、復活されたイエス様が誰にあらわれたか?と、いうことです。

41節に「それはすべての人々にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちにです」とあります。

更に、それに引き続いて「私たちは、イエスが死者の中からよみがえられて後、ご一緒に食事をしました」と、あります。

ここには、2つのことが書かれています。

まず、復活のイエス様とお会いしたのは、神様によって前もって選ばれた証人でした。

繰り返すようですが、「選ばれた証人」です。

「選ばれた証人」とは、神の選びの器に通じることから、ペテロ、ヨハネ、ヤコブとかの12弟子や厳密には、ユダは入らないので、11弟子ですが、それから、マグダラのマリヤとかパウロをはじめ、使徒と呼ばれる人たち、つまりイエス様のそばを片時も離れずにお仕えしていた人たちのことです。

そのような人たちが、よみがえりのイエス様にお会いすることが出来ました。

そして、もうひとつ、「ご一緒に食事をしました」と、あるのですが、この箇所をnkjv訳で見てみると「ate and drank」と書かれています。

直訳すると「食べて飲んだ」という意味合いがありますが、このことは、最後の晩餐をイメージしませんでしょうか?

つまり、聖餐のことを言われているのではないかと思います。

食べるとは、命のパンである御言葉に通じることで、飲むとは、キリストの血が注がれるということです。

私たちは礼拝の中において、聖餐式を行います。

聖餐式で、自分の罪や咎や過ちについて主に告白して、主から赦しを受け、聖霊の力を得て、罪から解放されて、歩み、働きを担っていきます。

これは、ある意味、型であります。

単に日曜日の礼拝だけの話ではないのです。

つまり、弟子たちや使徒と呼ばれる人たちは、度々、主の聖餐にあずかっているのです。

日々、あるいは、瞬間においても、聖餐、つまり、イエス様の御言葉を食べ、キリストの血を受けているのです。

具体的には、祈り、御言葉に触れているということです。

これは、弟子として歩んでいる人に関して、あるいは、クリスチャン生活の基本中の基本のことですので、ぜひ、実践されることをおすすめいたします。

そのように実践している人、絶えず御心をたずね求め、御心を行っている人々によみがえりの主はあらわれました。

このことは、とても大切なことです。

もし、私たちがよみがえりの主に会わない、あるいは、本日のテーマでもあります復活の主に会わないようなクリスチャン生活を送っているとしたら・・・クリスチャンはキリストの花嫁にたとえられていますが、再臨のキリストから花嫁として迎えてもらえない可能性があることを覚えていてください。

つまり、キリストの復活の力によって歩んでいくことと、よみがえりのキリストに会うことは、1セットであることを正しくご理解いただきたいと思います。

ですから、繰り返すようで恐縮ではありますが、祈り、御言葉に触れることに徹していきたいと思います。

祈り、御言葉に触れていく中で、弟子としての土台がキリストによってたてあげられ、常に油を絶やさない花嫁、御霊のクリスチャンへと、日ごとに変えられていくようになります。

そして、弟子たちや使徒たちが、復活のキリストに会ったように、再臨のキリストに花嫁として迎えられていきます。

また、この地上にあっても、キリストの力を得て歩んでいくことは、いつも希望や平安や喜びに満ちたものともなりますし、後の日において、大いなる栄光をもたらすものとなっていきます。

ぜひ、絶えず、復活の力を祈り求め、後の日における神様からの栄誉を受けていきたいと思います。