聖書箇所 使徒の働き14:8-10

 

14:8 ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれながらの足なえで、歩いたことがなかった。

14:9 この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、

14:10 大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい。」と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。

 

本日は、「足なえの人が歩けるようになった」というテーマに沿って、みていきたいと思います。

 

同章の1節から7節を読むと分かるのですが、パウロとバルバナはイコニオムの地で、神の御言葉を語りました。

そして、彼らのメッセージを通して、ユダヤ人(クリスチャン)、ギリシャ人(異邦人)の大勢の人がキリストを信じる信仰に入ったのですが、福音を信じようとしないユダヤ人から迫害を受け、危うく石打ちにされそうになったので、ルステラとテルベに難を逃れました。

 

参照 使徒の働き14:1-7

14:1 イコニオムでも、ふたりは連れ立ってユダヤ人の会堂にはいり、話をすると、ユダヤ人もギリシヤ人も大ぜいの人が信仰にはいった。

14:2 しかし、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人たちをそそのかして、兄弟たちに対し悪意を抱かせた。

14:3 それでも、ふたりは長らく滞在し、主によって大胆に語った。主は、彼らの手にしるしと不思議なわざを行なわせ、御恵みのことばの証明をされた。

14:4 ところが、町の人々は二派に分かれ、ある者はユダヤ人の側につき、ある者は使徒たちの側についた。

14:5 異邦人とユダヤ人が彼らの指導者たちといっしょになって、使徒たちをはずかしめて、石打ちにしようと企てたとき、

14:6 ふたりはそれを知って、ルカオニヤの町であるルステラとデルベ、およびその付近の地方に難を避け、

14:7 そこで福音の宣教を続けた。

 

そして、彼らがルステラに福音を宣べ伝えに行った時のことです。

「ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわっていた。」の箇所を英語訳で見るとAnd in Lystra a certain man without strength in his feet was sittingと、書かれています。

without strength in his feetの言葉を訳すと、「足の力を持たない」「足の力が無い」という風な意味合いに取れます。

このことは、その直後に書かれている「足なえ」の言葉にそのまま通じるものであります。

「足なえ」と聞くと、足に障害のある人、日常的に歩行が出来ない人、そのように思われる方も多いかと思います。

聖書に「足なえ」と言う言葉は、この箇所以外にも使われていますが、私自身も、以前、そのようにとらえていました。

でも、今までも何度か話をさせていただきましたように、聖書の御言葉の大半は、多くのたとえが使われています。

たとえを理解するなら、「足なえ」とは、「信仰の歩み無い」とか「実行が伴わない」とか「歩みがしっかりしていない」という意味合いがあります。

「信じられない!?」と思うかも知れませんが、このようなクリスチャンが実際にいるのです。

このように申し上げている私自身も、「足なえ」でした。

クリスチャンと称しているものの、神の前に「まとも」とは、とても言えるような信仰の歩みが出来ていませんでした。

「じゃあ、今では、完璧なの?」と、聞かれてしまうと、以前に比べたら、多少なりとも改善された、その程度ではありますが、そんなところでおゆるしいただけると、幸いです。

そして、ここに登場する「生まれながらの足なえの人」とは、彼だけにとどまる話ではないのです。

実は、クリスチャンお一人一人も、もちろん、私自身を含めて、もともとは、神様の目から見たら、「足なえ」なのです。

「足なえ」ということで、もう少し話をさせてください。

大半のクリスチャンは、天地万物を創造された神様を知り、御子であるイエス様を救い主として信じて心に受け入れて、クリスチャン生活をスタートします。

まずは、クリスチャンになることを表明する証として、洗礼(水のバプテスマ)を受けます。

そして、定番ではありますが、毎週教会で礼拝を捧げます。

賛美をし、奉仕も行います。

また、人によっては、献身の道を選び、牧師や伝道師になる方も中にはおられます。

先のことは分かりませんが、現時点で、日本におけるクリスチャン人口は1%にも満たないと言われているので、クリスチャンとして歩むこと事態が素晴らしいことだと思います。

まして、神様にお仕えする道を選択するなら、それは、主の前に更に尊いこととも言えます。

しかし、ここで、問題があります。

それは、神様の目から見て、「建前」と言われるクリスチャン、牧師、教師、伝道者があまりにも多いのです。

何を申し上げているのかというと、神様(聖霊)の力だけにより頼んで歩み、働きを担っているクリスチャンが非常に少ないということです。

もちろん、ゼロではありません。

具体的に話をするなら、こういうことであります。

単刀直入に言うと、御言葉であるキリストよりも、人からの教えやキリスト教書店等で販売されている教理の本を重んじたり、あるいは、そのことを主体に歩んでいるということです。

ここ、3,4年前まで、私自身もそのように歩んでいたので、人様のことを、何も、とやかく言える立場ではないのですが、このことは、神様の目から見て、NGであります。

更に具体的に話をするなら、私事ではありますが、以前行っていた教会ではこのように言われていました。

その教会の牧師は、「指導者に従いなさい」と度々おっしゃっていました。

聖書にも神に立てられた権威に従うことや権威を尊重することについて書かれているので、そのことは、間違えではないのですが、疑問に思う点がいくつかありました。

たとえば、1/10献金について礼拝の度に牧師が言われていて・・・

私たちが、神様に1/10の献金を捧げること、それも、間違えではないのですが、献金をすることによって、マイホームやマイカーが手に入るとか、お給料があがるとか、毎週教会に行って礼拝を捧げて献金をしていれば、信仰生活は概ね、それでいいと、そんなことをおっしゃっていたことがありました。

大分前の話なので、今は、変わっているかも知れませんが、あるとき、私が牧師と個人的に話をしたときにも、そのようなことをおっしゃっていました。

また、ある人が、「そういえば、この教会って聖書研究会が無いじゃない?珍しいよね」という問いかけをしていたのですが、そのときに、近くにいた方がこのようにおっしゃっていました。

「聖書は勝手に読むものではないの。牧師先生がおっしゃること(解釈すること)を聞いていれば、それでいいのよ。何にしても、指導者に従う者は利を得べし」と、そのような発言をしていました。

他にも、いくつかの疑問点が浮上していたのですが、いずれにしても、キリストの言われることに従うことよりも、基本は、牧師に従うことが優先であることが強調されていました。

何か問題があったら、神様に祈るよりも、牧師に相談する、全体的にそのような傾向にありました。

先ほども申し上げたように、権威は尊重すべきです。

そうでないと、ありとあらゆる秩序が乱れて収拾がつかなくなってしまうからです。

でも、牧師や指導者のおっしゃる99%が正しかったとしても、必ず間違えや誤りがあります。

いくら、神様に立てられた権威と言っても完璧な人はいません。

また、牧師や指導者のアドバイスを受けるのが全くダメだと言っているのでもありません。

たとえば、どうしても困ったことが生じてしまった場合に、お祈りをお願いするという意味合いにおいては悪いことではないのです。

しかし、牧師や指導者が間違えるときに、信徒も共に間違えるということを覚えておいてください。

また、何か悩みや問題が起きたらそのたびに牧師のところに行って相談する、このことは、人間的に見れば、悪いことのようには思えません。

また、その件については、一時的には、解消されることもあるかも知れません。

でも、それでは、いつまでたっても根本的な解決にはつながらないことに、お気づきいただきたいと思います。

つまり、表面上、解決されたように見えても、心の内側にある根底的なものがひっくり返されないのであれば、別のことが起こったときに、同じことを繰り返すだけになってしまう、いわば、堂々巡りをするだけで、こういったことには全く意味が無いことをご理解ください。

そこには、最も大切な、「神様の介入」というのが無いからです。

こんなことを申し上げたら、怒る方もおられるかも知れませんが、このようなことを「足なえ」の信仰と言うのです。

また、聖書を読むことよりも、教理の本ばかりを読むことにも御心はありません。

これも、先ほど申し上げたことの繰り返しになりますが、何か問題の解決を求めようと、教理の本からそのことを探しても、恐らく、見当たらないと思います。

このことに関しても、過去の私自身にも思い当たることは多々ありますし、多くの失敗を積み重ねてきたので、このようなことが言えるのです。

霊的に枯渇しているときに、一時的には、慰めや喜びを得たりするのですが、真の意味合いで、飢えや渇きを満たすものは、ほとんどありませんでした。

と、言うか、皆無でした。

さあ、ここまで、読んでくださった賢いあなたは、もう、すでにお分かりだと思いますし、実践されているかと思いますが、910節に書かれている「この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい。」と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。」の御言葉にすべての解決法があることを、どうかご理解ください。

彼は、自分自身で、信仰の歩みが出来ないことを、自分でもよくご存知だったのだと思います。

でも、このままでは、いけない、何とか、自分自身で歩んでいきたい!と、そのように切に願っていたのではないかと思います。

今までも、ずっと、そんな風に思っていたけれど、実際には、どうしていいのか、彼は分からなかったのだと思います。

でも、パウロの話を聞いて、そのことを彼は正しく理解しました。

ここには、そういった記述はありませんが、このとき、パウロが話していたことは、「救いはキリストのみある」というメッセージだったのではないかと思います。(これは、私が勝手に想像したことですので、当たっているかどうかは分かりませんが・・・)

今までは、人の助けや他のものに頼っていた、しかし、それは間違えであった、何はともあれ、イエス・キリストの御名を呼び求めることが大切だ!ということに、パウロのメッセージによって、彼は気づき、霊的な覆いが完全に取り除かれたのだと思います。

そして、10節に「すると彼は飛び上がって、歩き出した」と、あるように、イエス・キリストのみに助けを求めたときに、彼自身の信仰の根本的な歩みが変えられたのだと思います。

このことは、私たちクリスチャンへの語りかけであり、クリスチャンとして歩んでいく中で、基本的なことであり、かつ、最も大切なことでもあります。

でも、このようにあえて、聖書の御言葉を通して語られているということは、自分自身を含めて、そういったことを理解していない人があまりにも多いからではないでしょうか。

また、彼自身が癒されたこと、これについても語りかけがあります。

9節の御言葉にそのことが書かれています。

「パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て」に、ポイントがあります。

つまり、彼は、自分自身が足なえであることを認めていたのです。

はじめに、クリスチャンは生まれながらの足なえだという風に話をさせていただきましたが、大半のクリスチャンは、そのことを認めていないし、認めようともしないのです。

ここに大きな違いがあるのです。

彼は、神様の前に心をへりくだらせて、癒されるように助けを求めていたのです。

この箇所を読んで分かるように、彼に目を留めて、「自分の足で立ちなさい」と言ったのはパウロだったのですが、それ以前に神様はそのような彼自身の心の内側にあるものを御存知で、パウロを通して、神様御自身が、彼が自分自身で歩みができるように癒しの御業をあらわしてくださったのです。

もし、彼が、心を高ぶらせて、自分の信仰はまともだ!何も問題が無い!と、そのような思いを内側に抱いていたなら、神様は、そのような業は成されなかったと思います。

その代表例を挙げるなら、当時のパリサイ人、律法学者です。

イエス様は、足なえの人だけでなく、盲人の人も癒されました。

「見えるようにしてください」と、懇願した人を見えるようにしてくださいました。

このことも、霊的な事柄に通じることです。

聖書で言われている「盲目」とは、単に、目が見えないというのではなく、御言葉を正しく理解できない、御言葉が言われていることを悟れないという意味合いがあります。

しかし、当時のパリサイ人や律法学者は、自分たちは、正しい、すべて分かっている、見えていると言っていました。

自分たちが、盲目であるということを少しも理解していませんでした。

そして、結果として、イエス様から退けられてしまいました。

 

参照 ヨハネ9:40,41

9:40 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」

9:41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」

 

つまり、私たちクリスチャンは、生まれつきの足なえであり、盲目であるということを正しく理解しなければいけません。

もし、このことをきちんと理解し、神様の前にへりくだっていくなら、まともな歩みや御言葉を正しく理解できるようになります。

ですから、私たちは、生まれつきの足なえであること、盲人であることを神様の前に認め、謙遜になって、きちんとした歩みができるように、あるいは御言葉を正しく理解できるように、憐れみや助けをいつでも祈るようにしていきたいと思います。

また、このことをきちんと実践していくか否かによって、この地上において受ける祝福や恵みが大きく左右されてしまいます。

そして、そればかりではなく、後の世において行き着く先も変わってくるので、気をつけていきたいと思います。

最近、レムナントキリスト教会の礼拝の中で学んだことですが、クリスチャンのお一人一人のスタートは同様であっても、地上における歩みによって受ける祝福や後の世における結論はそれぞれ異なるということを教えられました。

本日のメッセージを通して、「なるほどーっ」と、改めて、うなずくものがありました。

話は戻りますが、ぜひ、真の助けは、イエス・キリストのみにあること、そして、私たちの歩みや働きを助けてくださるのは、聖霊の力のみであるということについて、ご理解いただきたいと思います。

何度も繰り返すようで恐縮ではありますが、ぜひ、本日の箇所に書かれている足なえの人のことを決して他人事と思わずに、私たち一人一人もいつもイエス様のみに助けを求めていきたいと思います。

これから、キリスト教界において、背教起こり、その後、艱難時代に入っていきますが、その時になって、慌てずに対応していくためにもこのことは有益なものとなっていきますので、ぜひ、今から実践されていかれることをおすすめいたします。

 

メッセージの中でも話をさせていただいたように、ここ、数年前まで、正確に言うと、弟子の歩みをはじめるまで、自分自身が足なえであり、盲目であるとは、夢にも思っていませんでした。

特別確固たる信仰を持っていたわけではありませんが、まあまあ、そこそこに歩んでいたのでは・・・と自分では納得していました。

毎週日曜日には礼拝に参加しているし、多少なりとも祈って聖書を読んでいるんだから、それで十分と、思っていました。

でも、あるとき、以前の教会にいた時に、このままでは天の御国は危ないと思うようになってから、そのことについて、主に祈るようになりました。

しばらくしてから、不思議なことに、エレミヤの部屋のホームページにたどり着き、その中のメッセージを通して、自分が霊的に全く見えていないこと、聞こえていないこと、歩みがまともでないことを、理解しました。

そういった中で、どのようにしていったら良いか?ということについても、御言葉から解き明かしがされていました。

とても、単純明快でした。

自分自身が生まれつきの盲目であること、耳しいであること、足なえであること、そのことを神の御前に素直に認め、主を恐れへりくだっていくこと、弟子として歩むことに徹していくということを教えていただきました。

そして、そのような歩みに曲がりなりにも実際に連なることができましたこと、これは、ひとえに神様の愛と憐れみのおかげだと、日々、感謝するばかりです。

聖書にも、「自分の悟りや判断により頼んではならない」と書かれていますが、全くその通りだと思います。

知らなければならないこと、悟るべきことは、まだまだ山積みではありますが、ひとつひとつのことを主に祈り求め、たずねていきたいと思います。

本日の箇所を通して、改めて、主が私自身にも、このような大切なことを語ってくださり、感謝でした。