聖書箇所 使徒の働き21:10,11,33

 

21:10 幾日かそこに滞在していると、アガボという預言者がユダヤから下って来た。

21:11 彼は私たちのところに来て、パウロの帯を取り、自分の両手と両足を縛って、「『この帯の持ち主は、エルサレムでユダヤ人に、こんなふうに縛られ、異邦人の手に渡される。』と聖霊がお告げになっています。」と言った。

21:33 千人隊長は近づいてパウロを捕え、二つの鎖につなぐように命じたうえ、パウロが何者なのか、何をしたのか、と尋ねた。

 

 

本日も御言葉に沿って学んでいきたいと思います。

 

今回は10,11節、そして少し離れて33節からみていきたいと思います。

10,11節を読んで分かるようにアガボという預言者がユダヤから下って来て、これからパウロの身に起こることについて預言をしました。

そして33節に書かれているようにアガボが言ったことは見事に成就してしまいました。

 

ちなみに世の中にも多くの預言者や占い師がいます。

かつて16世紀に有名な預言者がいましたよね。

皆さんもノストラダムスという大預言者と呼ばれていた方を御存知かと思います。

彼は1999年の7月に人類が滅亡するという預言をしていて、日本ではそのことがベストセラーにもなりましたが、見事に外れてしまいました。

もちろんすべての預言や占いが外れるわけではなく、時として当たることもあります。

でも、外れるということは、偽物であるという風に考えたり警戒したりしなければいけません。

何を言っているのかというと世の中はありとあらゆるまがいものに覆われているということです。

しかも世の中だけではなくキリスト教界も今の時代は残念ながら偽預言者や偽教師が多いということを正しく理解していかなければいけません。

しかし、だからと言って失望することはありません。

偽預言者が存在しているということは本物の預言者あるいは預言もあるということです。

少し回りくどい言い方になりましたが、聖書こそ、キリストこそが間違いの無い預言、預言者なのです。

そして聖書に書かれている預言は何一つ外れることはありません。

御言葉にも「律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしい」と書かれているように聖書に書かれている御言葉は良い意味合いでも悪い意味合いでもすべて成就します。

私をはじめ、人は時として捉え違いや勘違いや間違いをしますが、神様の言われていることはすべて正しいのです。

素晴らしいと思いませんか?

ですから、世の中の書店やキリスト教の書店にも占い(これは世の中の書店です)や預言に関する数多くの書物が並んでいますが本当に未来を知りたいのなら聖書だけを読むことをぜひおすすめいたします。

聖書には何も混ぜ物(嘘や偽り)が無いので決して裏切られることはないからです。

それどころかすべての御言葉を信じて受け入れるならその人自身に大いなる恵みや祝福をもたらすものとなります。

 

さて、話は少し本題からそれてしまいましたが・・・

今、話をさせていただいきましたように、良くも悪くもすべては主の言われたようになっていくということです。

アガボがパウロに預言したことは人間的には喜ばしいどころか、「こんなことは何がなんでも回避したい!」と、考えるのが通常だと思います。

しかし、それは私たちの考えや思いにしか過ぎないことであることを御理解ください。

聖書はそのように読む書ではないのです。

自分に都合がいいところは信じる、そうでないところは目をつぶると、そのようなものではありません。

神様の愛とか神は情け深く憐れみに満ちたお方であるという記述を読んで喜ぶことがある反面、裁きだとか訴訟沙汰だとかハデスだとか艱難とかキリストにあって苦しむとか、あまり考えたくもないようなことも書かれているということも踏まえて読んでいかなければいけません。

そうでないと、ありとあらゆる混乱を招いてしまいます。

そのような概念で本日の箇所もみていきたいと思います。

 

ちなみにパウロはアガボを通して語られていたことについて、うすうす気づいていたのではないかと思います。

 

参照 使徒の働き20:22,23

20:22 いま私は、心を縛られて、エルサレムに上る途中です。そこで私にどんなことが起こるのかわかりません。

20:23 ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです。

 

つまり、同じ御霊がパウロとアガボに同じようなことを語ったのです。

なわめや苦しみとか縛られるとか、つまり、これからパウロが行く先々において迫害や困難が待っているということをパウロにもアガボにも聖霊は語られたのです。

さあ、このようなことを知ったパウロは引いてしまったのでしょうか?

いいえ、そうではありませんでした。

 

参照 使徒21:12,13

21:12 私たちはこれを聞いて、土地の人たちといっしょになって、パウロに、エルサレムには上らないよう頼んだ。

21:13 するとパウロは、「あなたがたは、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています」と答えた。

 

12節で分かるようにパウロと一緒に働きをしていた人たちやこの地にいた人たちはエルサレムに行かないようにと引き止めました。

しかしパウロは彼らの言葉を振り払ってエルサレムに行くことを決意しました。

アンダーラインを引いた箇所に注目してください。

この時パウロは危険だけでなく自分の「死」をも覚悟したのです。

また、このようにもパウロは言っています。

 

参照 使徒20:24

20:24 けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。

 

もし、私たちが主の弟子として、神の働きや召しを最後まできちんと全うしたいと思って歩んでいるのなら、このパウロの生死観を模範に歩みや働きを担われることをおすすめいたします。

と、言うのは、本当に神から来た働きというのは、縁起でもないかも知れませんが、死との背中合わせのことが多いからです。

パウロは旧約時代の初代教会の人だから・・・と、そのように思われているなら、それは大きな勘違いです。

パウロが生きていた時代は旧約の終わりです。

旧約の終わりの神の民はイエス・キリストを十字架につけて殺してしまったように、とんでもない時代だったのです。

そして、そのことは新約の終わりを生きる私たちにも大いに関係があることだと理解するのが正しいのです。

新約の終わりも同様、神の民は時代が進めば進むほど、悪い意味合いで変質していきます。

詳細について話はしませんが、このことは聖書の基本中の基本のことですので、覚えていてください。

すでに、時代が曲がり、艱難前携挙説をはじめ、嘘・偽りのことがキリスト教界に広まってしまい、そのことを盲信している人が多いので、なかなか正しいことが受け入れられず、真理を語りづらくなっている時代だということをぜひ、御理解いただきたいと思います。

そのような中で真理を語っていくというのは、パウロの時代の時と同様、ある意味命がけだということです。

「ええーっ、そんな大袈裟な!」と、言われるかも知れません。

しかし、それが事実です。

ですから、今の時代、主の働きを真に担っていくというのは、それ相応の自覚と覚悟が必要であることをぜひ、御理解ください。

そして、この時のパウロの時のように、前もって預言者が遣わされることも御理解ください。

はじめに、聖書は預言の書であり、すべて主の言われたようになっていくということを申し上げましたが、前もって主は預言者を通してこれから起こることや必要なことを語ってくださいます。

ここではアガボが登場しましたが、私たちが方向を間違えないように、働きや歩みの方向性について正しく示す預言者が用いられるということをぜひ、御理解ください。

偽預言者や偽教師が多いということについても申し上げましたが、アガボのように神様から遣わされる真の預言者もおられるということです。

ちなみにこの時のアガボですが、決して良いことを示されたわけではありません。

しかし、彼は神が告げられた通りにパウロに起こることを忠実に語りました。

決して人受けが良いことばかりではありませんが、神様が言われたこと、語られたことを明瞭に語ること、それが預言者の働きです。

先日アモス書を通して預言者の任務についての学びをしました。

もし、神様に示されたのなら、そのことが、とっぴょうしもないことであったとしても語っていかなければならないことや人々から反感をかい、エレミヤやミカヤのように語ったがゆえに酷い目に遭うとしてもそれを覚悟で語っていかなければならない、それが預言者の務めであると教えられました。

そう、レムナントキリスト教会は、まさにそのような働きに召されているので、このことはとても大切であると理解しました。

たとえば他の教会では開かれなかった啓示(獣の国がアメリカであることやこれからは背信のクリスチャンや教会が裁かれること)が開かれているので、そういったことについて先陣を切って語っていく召しにあずかっているので、神様が語ったことについては、何らの主の方法を祈り求めて伝えるようにしています。

何を申し上げたいのかというと、人々が受け入れるか否か、聞くか否かは、はたまた真実を語ったがゆえに不当なことを受けてしまったということとは別に、神様が本当に語ったのなら、語っていくのが預言者だということです。

 

預言者の働きということに関連して少し証をしたいと思います。

私自身も及ばずながら、主の助けと導きによって毎週日曜日の礼拝で預言の働きをさせていただいています。

聖書に「特に預言することを熱心に求めなさい」と書かれているので、預言の賜物を日々祈り求めて訓練して働きに従事させていただいています。

はじめの頃、預言の賜物を求めるなら、さぞかしや、良いこと、喜ばしいことばかりを主が語って下さるだろうと人間的に考えていましたが、そんなことはありませんでした。

もちろん、心に慰めや喜びや平安を得るものも語ってくださいます。

しかし、実際に求めていくと・・・どちらかと言えば、人を喜ばすものではなく、むしろその反対のことばかりが示されてしまいます。

たとえば、弟子として歩むなら父、母、妻、子、そして自分自身も捨てなさいとか心を頑なにするなら霊的に盲目になるとか、一例ではありますが、そのようなことが示されます。

時折、「捉え違いや勘違いであって欲しい、それは敵の声なのでは?」という自分の心の思いと神様が実際に語っておられることとのギャップが大きすぎてジレンマに陥ってしまうことも度々ありました。

しかし、神様が語っていることを語らずに全く関係の無い別のことを語るなら、預言者としては失格です。

そのあたりのことで、しばらくの間、私の心の内側に戦いがありました。

しかし、働きを継続していくうちに、「人の顔色を伺っていたら出来ない、たとえすべての人を敵に回したとしても神様が語ったことなら語っていこう!」と、そのように決意したときに、少しずつ心の内側の葛藤が取れていきました。

せっかく主が預言の働きをするように召してくださったのですから、時として間違えて語ってしまうことがあったとしても、日々、預言の賜物を熱心に祈り求めて忠実に成していかれたらなぁと思いました。

 

アガボは主の召しにきちんと応答して忠実に預言の働きを全うされた預言者の型ではないかと思います。

もちろん、アガボだけでなく、旧約に登場するイザヤ、エレミヤ、ミカヤも神様の召しに応答した預言者でした。

しかも、彼らはひどい仕打ちをされたにも拘わらず、主が語っていることについて余すことなくきっちりと語りました。

ですから、預言の働きに召されている人、あるいはこれから預言者として働きを担っていこうとされておられる方は、主が語ったことについて臆すること無く語っていくようにしていきたいと思います。

 

最後に、もう一言話をさせてください。

預言の働き、これはこれでひとつのことです。

しかし、聖書に書かれているように、預言は吟味が必要だということを覚えていてください。

サタンも預言を用いるので、本当に聖霊が来たものなのかどうか、それとも別の霊からなのかについて聖霊の力によって、よくよく吟味することが大切です。

聖霊以外のものは、全て偽物です。

しかし神から来たものであるなら、御声に聞き従っていくようにしたいと思います。

と、言うのは、神から来た預言であれば、この時のパウロのように必ず成就するからです。

繰り返すようですが、主が明らかに語られたことはきちんと語り、また、預言を聞く立場に置かれた時には、吟味を怠らずに、聖霊から来たものだけを受け入れていくようにしたいと思います。

預言の働きは、正しく用いるなら教会や信徒の徳を高め、なおかつ互いの信仰の歩みを強めたり助けたり、働きを円滑に成していくものともなります。

聖書に「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する」と書かれていますので、今の世の終わりの時代において、ぜひ、預言を祈り求めて、預言の賜物を通しても神様の働きを担っていき、多くの実を結ばせていきたいと思います。