聖書箇所 使徒の働き28:1-6
28:1 こうして救われてから、私たちは、ここがマルタと呼ばれる島であることを知った。
28:2 島の人々は私たちに非常に親切にしてくれた。おりから雨が降りだして寒かったので、彼らは火をたいて私たちみなをもてなしてくれた。
28:3 パウロがひとかかえの柴をたばねて火にくべると、熱気のために、一匹のまむしがはい出して来て、彼の手に取りついた。
28:4 島の人々は、この生き物がパウロの手から下がっているのを見て、「この人はきっと人殺しだ。海からはのがれたが、正義の女神はこの人を生かしてはおかないのだ。」と互いに話し合った。
28:5 しかし、パウロは、その生き物を火の中に振り落として、何の害も受けなかった。
28:6 島の人々は、彼が今にも、はれ上がって来るか、または、倒れて急死するだろうと待っていた。しかし、いくら待っても、彼に少しも変わった様子が見えないので、彼らは考えを変えて、「この人は神さまだ。」と言いだした。
本日も御言葉に沿ってみていきたいと思います。
この箇所は27章の続きになります。
簡単に27章で起きたことを復習してみましょう。
パウロたちがイタリヤへ向かった時に、乗っていた船が破船してしまいました。
船には多くの人々が乗っていたのですが、幸いにも皆無事に陸に上がることが出来ました。
そして、1節に書かれているように、パウロ一行は、マルタという島に到着しました。
この箇所には、たとえが使われています。
実際にパウロが難船してひどい目に遭遇したことは事実ではあります。
けれども、単にそれだけではないことを御理解いただきたいと思います。
と、言うのは、このことは、新約の時代の私たちにも関係することだからです。
何を言っているのかというと、「船」は、教会のことを指します。
つまり、ここでは、教会が破船する、すなわち、変な器やおかしな教理によって崩壊してしまうことがあるということを言われているのです。
本日の箇所においても、いくつかのたとえが使われています。
ですから、たとえの意味合いを確認しながらご一緒に学んでいきたいと思います。
1節の「島」とは「教会」のことを指します。
「教会」は、その他「山」とか「宮」とか「船」とか「森」等にもたとえられています。
2節に書かれている「火」は霊的な事柄を指します。
「火」は全焼のいけにえに通じることですので、ここで言われている「火をたく」とは聖霊の働きに通じることと理解できます。
つまり、「火をたく」とか「火をくべる」とは、聖霊の火で焼かれた働きのことを言われています。
具体的には、「祈り」のことです。
聖霊の火で肉の思いや考えが焼かれるためには、ひたすら祈らなければいけません。
出エジプト記やレビ記や民数記で学んだことですが、奉仕をする前には必ず祈らなければいけません。
神様は「生肉」は受け入れないお方です。
つまり、私たちの生まれつきのものや思いや考え、そのようなものが祈りによって全て焼き尽くされたものを喜んで受け入れてくださるのです。
ですので、パウロや島の人々も、ここで全焼のいけにえである「祈り」を捧げていたことが分かります。
ところが、あろうことか、3節で、まむしがパウロの手に取り付いたとあります。
「まむし」も、たとえの意味合いがあり、霊的な事柄を指すのではないかと思います。
一般的に「まむし」とは、毒を持った蛇のことを言います。
「毒」は人を殺すものです。
ですから、「まむし」とは「悪い霊」、すなわち人を霊的に死へと至らせる教え、メッセージのことを言われているのではないかと思います。
人を死に至らせる教えとは恐ろしいものです。
でも、このことはパウロの時だけでなく、今の私たちにも、しかもキリスト教界やクリスチャンの間に出回っているものなのです。
たとえば、艱難前携挙説、セカンドチャンス、地獄は無い、一度救われれば皆天国等がそういった類のものです。
ところで、この時パウロは何の害も受けることはありませんでした。
このことにポイントがあり、語りかけがあります。
とても悲しいことに、終末も、「まむし」、いわゆるおかしな教理がキリスト教界を席巻するのです。
また、パウロの「手に取り付いた」のところに語りかけがあります。
「手」とは、「奉仕」や「働き」に関することです。
つまり、教会は本来神様の働きがなされているはずなのに、おかしな教理によって教会から神様の働きが消えてしまうことを言われているのです。
しかし、そうではあっても、この時のパウロのように例外的に「まむし」の影響を受けない人、すなわち真理を見てとどまる人もいるのです。
言い方を変えるなら、どんなにおかしな教理が蔓延しようとも、御言葉に堅くついた歩みをしている人は、神様からの不思議な助けや守りによって、そういった影響を全く受けることはないのです。
5節に書かれていることですが、パウロがそうであったように何の害も受けないのです。
つまり神様の前に正しく歩んでいるなら、おかしな教理による害がその人に及ぶことがないことを言われているのです。
ちなみにダニエル書にも、本日の箇所と類似した記述があります。
3章で、ネブカデネザル王が金の像を作り、それを人々に拝ませました。
そして拝まない者は、ただちに火の燃える炉に投げ込まれるという命令が出されました。
しかし、その時、ダニエルの3人の友人シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは拝みませんでした。
ちなみに「金の像」とは、黙示録に記載されている「獣の像」に通じることです。
もし、像を拝むなら、火の池、すなわち永遠の刑罰に処せられてしまいます。
3人は火の燃える炉よりも、神様の言葉のほうを恐れていたので、決して拝みませんでした。
王はこのことに対して憤り、この3人を燃える炉の中に投げ入れました。
しかし、この3人は何の害も受けることはありませんでした。
王が火の中を見ると3人ではなく、4人が火の中を歩いていました。
「第四の者の姿は神々の子のようだ」と王は言いました。
神々の子とは、聖霊のことを言われています。
聖霊が、この3人を助け出したのです。
このことは、ダニエルの時代に実際に起こった出来事です。
そして、これは、終末、また、艱難時代の予表であり、たとえでもあります。
黙示録に、終末は、キリストが戸の外に追い出されることについて書かれています。
これは何を言っているのかというと、教会から聖霊の働きが消えていくことを言われています。
聖霊の働きの代わりに、悪霊の働きは更に教会の中を席巻していきます。
また、教会だけでなく、キリスト教界全体が悪い意味合いで変質していきます。
しかし、そういう中にあっても、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴのように、御言葉に堅くついている人は、いくら周囲が変質しようと悪しき霊が蔓延しようとも、火(悪霊)の影響を受けることは無いのです。
このことは、とても大切なことですので、覚えておかれるとよいと思います。
正しく歩み働きを担っている教会やクリスチャンから聖霊の働きが無くなることはないのです。
ですから、どこまでも正しく御言葉にとどまっていきたいと思います。
しかも、こういったことは、艱難時代・大艱難時代において有益なものとなっていきます。
もっと大胆な言い方をするなら、苦難の中に置かれても主が守ってくださるので、窮することも心配することも思い煩う必要は全く無いのです。
ただし、このことには条件があって、今のキリスト教界のおかしな常識に従って歩んでいたのでは成立はしません。
と、言うのは、もうすでに時代が曲がっているので、おかしな教理(Ex:艱難前携挙説、エキメニュカル、裁きは未信者のみ等)を吟味もせずに受け入れていることに全く御心はないからです。
また、群集の歩みにとどまることにおいてもしかりです。
少しキツイ言い方で恐縮ではありますが、群集、つまり、キリストの同労者として歩みや働きをしない人、十字架を背負わない人はいくらクリスチャンと称していても、神様の前には単なる傍観者としか見なされません。
また、かつての時代、律法学者やパリサイ人や祭司長に煽動されてキリストを十字架につけたのも群集です。
ゆえに艱難時代に正しいクリスチャンを迫害するのも群衆である可能性が十分にあり得ます。
ですので、群集の歩みいうのは、単なる傍観者にとどまるだけではなく、最悪、キリストを敵に回す立場であることを御理解いただきたいと思います。
また、弟子として歩んでいると称していても口先だけ、つまり、訓練を真面目に行わない人、なすべき歩みや働きをしない人はNGです。
パウロやシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴのように常に主のために命がけで御言葉を守り、義のために戦っていくことが守られる条件になります。
そのことは、正しく御理解いただきたいと思います。
そういった歩みに徹していくのなら、間違いなく艱難時代において守られます。
いいえ、艱難時代でなくても、今の時代のあらゆる困難、苦難、試練からも守られていきます。
それは、艱難や試練、困難に遭わないと言っているのではありません。
万一、そういったことに直面したり遭遇したりしても、神様の不思議な助けや守りや導きが与えられていくということです。
今のキリスト教界では言われていないことかも知れませんが、これから、キリスト教界は、ますます悪しき霊の支配下に入っていくと思われます。
しかし、このことに決して恐れることなく、ますます御言葉に堅く立って、真理の光の中を歩んでいきたいと思います。
そのためにも日々の歩みにおいて弟子としてきちんと歩み、なすべき働きに一心に励んでいきたいと思います。
明らかに時は縮まり、終わりに向かっていますので、ぜひ、そのことを踏まえて慎んで御心を行っていきたいと思います。
証
何度か証をさせていただいていますが、以前、私は艱難前携挙説を盲信していました。
それだけでなく、裁きに関しても、裁かれるのは未信者だけで、クリスチャンは全く関係が無いと思っていました。
でも、このことは神様からの教えではなく、「まむし」の教えでした。
今にして思うと、そのことに気づく前のクリスチャン生活は礼拝や祈祷会に出席しながらも、敗北の連続でした。
その時は、それが正しいと確信を抱いていました。
しかし、やることなすことが今ひとつ、しっくりこないことばかりでした。
たとえば、クリスマスコンサートのチラシを配布したり、時には見ず知らずの人たちにトラクトを手渡したりイースターをはじめ各種イベントのお手伝いもさせていただいたりしていたのですが、霊的に何かが違うかも?と、いう疑問を常に持ち続けていました。
しかも、そういったことで、神様からの守りや助けを身近に感じることは、ほとんどありませんでした。
でも、真理を真っ向から受け止めたい!と、ある時を境に意を決していく中で少しずつ流れが変わっていきました。
そして、しばらくしてエレミヤの部屋のホームページに導かれ、今まで盲信していたものが、ほとんど嘘・偽りであることを知り、歩みを変えることにしました。
それから、不思議なことに、あらとあらゆる偽物を霊的に見抜く力が少しずつ与えられていきました。
そして、今のキリスト教界には、ほとんど真実は無いということまで主が教えてくださいました。
ホームページに導かれて半年後にレムナントキリスト教会に行くようになり、その後、弟子の歩みにあまり時を移さずに入ることが出来ました。
真理を見ること、嘘・偽りを見破ること、これはこれでとても素晴らしいことなのですが、見せていただいたのなら、聞かせていただいたのなら、一人でも多くの人たちにこのことを伝えていきたいという思いが日増しに強くなっていきました。
また、せっかくクリスチャンとして歩んでいくのなら、勝利を取っていきたい!と、思いました。
このことは主の御心に叶ったことなのか、弟子として歩んでいく中で、今日においても不思議な助けや導きや力や知恵が天から与えられるようになりました。
群集の歩みをしていたときには全く味わったことのないことでした。
また、周囲の人たちが剣(御言葉の剣、教理)によって、バタバタと倒されていくのを時として目の当たりにもしているのですが、何とか主の御言葉に踏みとどまっていく中で、かろうじて守られています。
御言葉にも神様の慈しみにとどまることの大切さについて書かれていますが、本当にその通りだと思います。
本日のメッセージを通して、主の御言葉にとどまることの大切さを改めて教えられたように思います。
また、聖書を読むと、艱難時代や大艱難時代はあまりそう遠くない将来に実現していくものと思われますので、日々、ますますお祈りや御言葉の一事に励んでいき、その時になっても、主の守りが与えられるように祈り求めていきたいと思います。
本日も主が大切なことを語ってくださり、感謝でした。
主に栄光がありますように。
レムナントキリスト教会
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