聖書箇所 出エジプト記19:4

 

19:4 あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。

 

「主のもとに行くために」というテーマで、みことばに沿って見ていきたいと思います。

 

冒頭の聖句は、主がイスラエルの人々に語るように、モーセに言われたことばです。ここで主は、「あなたがた」すなわちイスラエルの人々を「わしの翼」に載せたこと、そして「わたし」(主)のもとに連れて来た、ということを言われています。

 

よく話をしていますように、レムナントキリスト教会では聖書のことばの大半は「たとえ」で書かれている、という風に理解しています。なぜならイエスさまご自身がたとえによらないで話されることはなかった、ということを言われているからです。(参照箇所:マルコの福音書4章34節)それゆえに私たちも、聖書のことばのたとえの意味合いに関して、主に尋ね、なおかつ分かる範囲で伝えるように心がけております。そしてこの度の箇所におきましても、たとえが使われていますので若干そのことも説明しながら、話をさせていただきたいと思います。

 

ここに、「わしの翼」ということばが出てきます。「わし」もそうですが、他の鳥に関して、「霊的」な事柄を示すたとえだという風に、当教会では理解しております。ちなみにイエスさまがバプテスマを受けたときに、「天が開け、御霊が鳩のように下った。」ということが書かれています。ゆえに、「鳥」は「聖霊」のことを指すたとえでもある、ということをご理解いただけるかと思います。そして今回の「わし」も、「聖霊」のたとえではないかと思います。「あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来た」ということを言われています。もし、「わし」が「聖霊」をあらわすたとえであるなら、イスラエルの人々は聖霊に導かれて主のもとに連れて来られた、ということを言われております。このことを通して理解出来ることがあります。もし、私たちが「主のもと」に行きたい!イエスさまと共にいたい!という時に、「聖霊」に導かれる必要がある、ということです。分かりやすく言うなら、聖霊の臨在の中を歩んでいく、ということであります。「そんなこと知っているよ!」「当たり前のことでしょ?」と、すでに実践されているあなたは素晴らしいと思います。ぜひ、そのまま続けていってください。

 

さて、ここで少し考えてみたいことがあります。クリスチャンの歩みは一様なのでしょうか?皆が皆、聖霊の臨在中で歩みをされているのでしょうか?そのことに関して、聖書はどのように語っているでしょうか?一例を挙げてみましょう。

 

参照 マタイの福音書13:47,48

13:47 また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。

13:48 網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。

 

ここでは「魚」のことが出てきます。ちなみに「魚」は「クリスチャン」を指すたとえです。「海」は、「霊的な事柄」を示しています。この場合、恐らく「聖霊」のたとえではないかと思います。ゆえに「海に生息する魚」とは、聖霊の中を歩むクリスチャンのたとえではないかと思います。このことは、クリスチャンは聖霊を受けているので、本来は聖霊の臨在の中を歩んでいる、ということを言われています。しかし、「良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。」とあります。しかも「あらゆる種類の魚」ともあります。このことから、人の前はともかく、しかし神さまの前においては、クリスチャンというのは必ずしも一様ではなく、「良いもの」とか「悪いもの」とありますように、聖書においては、そして神さまの前においては、良いクリスチャンと、そうでないクリスチャンが存在する、ということを言われていることが理解出来るのではないでしょうか?そして「良いもの」(良いクリスチャン)とは、まさに「わしの翼」に載せられているクリスチャン、すなわち「聖霊の臨在」の中を歩んでいるクリスチャンのことを指します。しかし一方、聖霊以外の霊、すなわち「悪い霊」(悪霊、サタン、悪魔)に引っ張られて歩んでいる「悪いもの」(悪いクリスチャン)も存在する、ということを聖書では一面語っております。そして、「悪いものは捨てられる」とありますように、悪いクリスチャンにはどうも良い結末は待っていないようです。なんと言っても、捨てられてしまうのですから・・・

 

では、なぜ、捨てられてしまうのでしょうか?それは、キリストのものではなく、悪霊とかサタンのものになっているからではないでしょうか?そうなってしまう要因は様々ではあると思うのですが・・・たとえば「罪」ばかり犯している、とか、聖霊の言うことを聞かない、とか、そのようなことばかりを繰り返していて、はたまた悔い改めない、というときに、聖霊の臨在の中を歩むことは出来ないのでは?そして悪い霊に支配されたり、束縛されたりしてしまうのでは?それゆえにキリストの所有とならず、悪霊とかサタンの所有になってしまって、結果として捨てられてしまうのでは?と思います。

 

けれども、もし、私たちが「聖霊の臨在」の中で歩んでいくことをひたすら求めて、そして実際にそのことを行っていくというときに・・・主のもとに行くことが出来るのでは?イエスさまが共にいてくださるのでは?と思います。そして生涯にわたって全うしていく延長線上において、天の御国や永遠の命が約束されるのでは?と思います。また、そのポイント&秘訣は、「わしの翼」に載せていただくことではないかと思います。具体的には、主の語っておられることに聞き従う歩みだと思います。いつも御霊によって歩んで、御霊の実を結ばせることではないかと思います。そのことに徹していくときに、悪霊とかサタンの所有になることはなく、自ずと主のものなっていくようになります。そのメリットを挙げるとキリが無いのですが・・・一例としては、感謝や賛美や喜びに満ち溢れたクリスチャン生活を送れるようになります。また、喜びをもって神さまや人々にお仕えしていけるようになります。徐々にではあっても御霊の実も結ばせていきますので、神さまにも人々にも喜ばれるようになります。そして、その先に待ち受けているのは、先ほども話しましたように、永遠の命や天の御国や神さまからの誉れとかであります。主のもとに行き、そのことをずっと保ち続けていくときに、このような約束やメリットが成就していきますので・・・しかもそれは何にも優って素晴らしいものでありますので・・・もし、そうかも知れないなぁ、なんて思われましたら、ぜひ、実践していきましょう。そして天の御国にもれなく入っていきたいと思います。今回も大切なポイントについて語ってくださった神さまに、栄光と誉れがありますように。