聖書箇所 出エジプト記5:19

 

5:1 その後、モーセとアロンはパロのところに行き、そして言った。「イスラエルの神、主がこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、荒野でわたしのために祭りをさせよ。』」

5:2 パロは答えた。「主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない。イスラエルを行かせはしない。」

5:3 すると彼らは言った。「ヘブル人の神が私たちにお会いくださったのです。どうか今、私たちに荒野へ三日の道のりの旅をさせ、私たちの神、主にいけにえをささげさせてください。でないと、主は疫病か剣で、私たちを打たれるからです。」

5:4 エジプトの王は彼らに言った。「モーセとアロン。おまえたちは、なぜ民に仕事をやめさせようとするのか。おまえたちの苦役に戻れ。」

5:5 パロはまた言った。「見よ。今や彼らはこの地の人々よりも多くなっている。そしておまえたちは彼らの苦役を休ませようとしているのだ。」

5:6 その日、パロはこの民を使う監督と人夫がしらに命じて言った。

5:7 「おまえたちはれんがを作るわらを、これまでのようにこの民に与えてはならない。自分でわらを集めに行かせよ。

5:8 そしてこれまで作っていた量のれんがを作らせるのだ。それを減らしてはならない。彼らはなまけ者だ。だから、『私たちの神に、いけにえをささげに行かせてください。』と言って叫んでいるのだ。

5:9 あの者たちの労役を重くし、その仕事をさせなければならない。偽りのことばにかかわりを持たせてはいけない。」

 

「公の教会を出て、地下教会(荒野)へ」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

ここではイスラエル人(モーセ&アロン)とエジプト人(パロ王)とのやりとりについて書かれています。たしかにモーセやアロンとパロ王との会話ではあるのですが、しかしこれは彼ら一個人ということだけではなく、彼らはイスラエル人とエジプト人を代表する型として描かれている、という視点において見ていきたいと思います。

 

さて、まずイスラエル人とエジプト人について簡単に説明したいと思います。かつて話をさせていただいたと思うのですが、イスラエル人とは神さまの御心を行うクリスチャンのことを指します。一方、エジプト人もクリスチャンではありますが、しかしこの世に着いたクリスチャンの型を示します。そんなことを一応心の片隅に置いて、順に見ていきたいと思います。

 

5:1 その後、モーセとアロンはパロのところに行き、そして言った。「イスラエルの神、主がこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、荒野でわたしのために祭りをさせよ。』」

5:2 パロは答えた。「主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない。イスラエルを行かせはしない。」

5:3 すると彼らは言った。「ヘブル人の神が私たちにお会いくださったのです。どうか今、私たちに荒野へ三日の道のりの旅をさせ、私たちの神、主にいけにえをささげさせてください。でないと、主は疫病か剣で、私たちを打たれるからです。」

 

1節で、モーセとアロンはパロに、「イスラエルの神~荒野でわたしのために祭りをさせよ」と話をしました。ちなみに「荒野」とは、「仮庵の祭り」とか「地下教会」のことを指します。つまり、「公の教会」ではない、ということです。しかも、「荒野」すなわち、「地下教会」で「祭り」(「祭り」とは、恐らく礼拝のことだと思います。)をすることは、「イスラエルの神、主がこう仰せられます。」とありますように、神さまからの命令なのです。その理由が、3節で述べられています。「疫病か剣で私たちを打たれるからです。」ということばがまさにそうであります。「疫病」とは、「霊的な災い」のことで、「剣」とは「みことばの剣」、すなわち「教理」のことです。しかも「打たれる」という表現から、おかしな教理のことをここでは言われているのでしょう。

 

そんなこんなでモーセとアロンは、パロに話をしたのでした。けれどもパロの対応はどうだったのか?と言うと、2節に「イスラエルを行かせはしない。」とありますように、イスラエルを行かせることを拒みました。それに対して、「主は疫病か剣で、私たちを打たれるからです。」とのことばを彼らは述べたのでした。だからと言ってパロ王が、「それだったらいいよ。」と了承したか?と言うと、そうではないことが4節以降に書かれています。

 

5:4 エジプトの王は彼らに言った。「モーセとアロン。おまえたちは、なぜ民に仕事をやめさせようとするのか。おまえたちの苦役に戻れ。」

5:5 パロはまた言った。「見よ。今や彼らはこの地の人々よりも多くなっている。そしておまえたちは彼らの苦役を休ませようとしているのだ。」

5:6 その日、パロはこの民を使う監督と人夫がしらに命じて言った。

5:7 「おまえたちはれんがを作るわらを、これまでのようにこの民に与えてはならない。自分でわらを集めに行かせよ。

5:8 そしてこれまで作っていた量のれんがを作らせるのだ。それを減らしてはならない。彼らはなまけ者だ。だから、『私たちの神に、いけにえをささげに行かせてください。』と言って叫んでいるのだ。

5:9 あの者たちの労役を重くし、その仕事をさせなければならない。偽りのことばにかかわりを持たせてはいけない。」

 

ここでパロは色々と理由をつけて、イスラエルの民をエジプトにとどめる方向へと必死になっています。「苦役に戻れ」だの、「れんがを作るわらを、これまでのようにこの民に与えてはならない」だの、「彼らはなまけ者」だのと、何とかエジプトを脱出できないようにとどめているわけです。また、「エジプト」とは、「この世の教えに着いた教会」のことを言われていますが、失礼を承知の上で言わせていただくなら、今の時代の「公の教会」のことであります。そんな風に聞くと、「ええっ、今、通っている教会を出なければいけないの?」と不思議に思うでしょう。たしかに一昔前は、そういう必要性はありませんでした。けれども、3節に「三日の道のり」とあるのですが、この「三日」とは、もしかするとADからカウントして、「三日目」のことをも言われているのでは?と思います。そして、「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」と言われていますように、「三日目」とは、三つ目のミレニアムのことではないかと思われるのです。今の時代がまさに、そうだと言えると思います。また、三つ目のミレニアム、すなわち終末というのは、おかしな霊や教理が蔓延していく、ということを聖書のあちこちで言われております。ゆえにモーセの時もそうだったかもしれませんが、新約時代の世の終わりにおいても、「エジプト」、すなわち「公の教会」を出る、ということが再現するのでは?と思うのです。

 

なぜか?と言うと、先ほど述べましたように世の終わり、公の教会に居続けるなら、いずれ「疫病」「剣」で打たれてしまうからです。もしかするとすでに、このような兆しは徐々に起きつつあるのでは?と思うのです。「疫病」(霊的な災い)に関しては、たとえばトロントのリバイバル集会がそうだと言えます。私は実際に行ったわけではありませんがDVDで観たところ、キリスト教会の集会の中で聖霊ではなく、悪霊が下されていました。しかも、器が小声で、「デーモン、デーモン」と悪霊を呼び寄せていました。これって、まさに「疫病」だと言えますよね?また、「剣」(おかしな教理)に関してですが、ローマ・カトリック教会では、「進化論が正しい」「聖書には誤りがあるが、しかし法皇の言うことは正しい」「地獄は無い」「キリスト教以外にも救いがある。イスラム教徒でも、仏教徒でも救われる」ということが言われているそうです。これはまさしく、「剣」に打たれている、と言えるのではないでしょうか?こういったことはほんの一例ではありますが・・・しかしこれらのことにかぎらず、万が一にも「疫病」とか「剣」に関して、「あれ?」と思うことがありましたら要注意であります。しかも現にこのことが起きつつあるのですから。

 

そういう意味で、これから、「公の教会」を出ることは、そして、荒野(地下教会)で礼拝をすることは、冗談でもなく、また、たわごとでもなく、とても深刻なことなのであります。しかし・・・すんなりと出られるのか?と言うと、きっとそうではないと思います。今現在(2015年)においては、それほどではないかもしれませんが、けれども艱難時代にはかなり厳しいと思います。それこそパロ王がイスラエル人を引き止めたような動きが、公の教会で恐らく起きてくるでしょう。絶対にそうだ!と断定はできませんが、その時には地下教会を開催するのは恐らく至難の業なのでは?と、私個人はみことばを通して思うのです。ゆえに、もし行かれている教会に「疫病」や「剣」の災いを感じましたら、なるべく早いうちに地下教会への移行をおすすめいたします。マタイの福音書24章においても、じつは同じようなことが書かれています。最後に、そのところを見てみましょう。

 

参照 マタイの福音書24:1517

24:15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)

24:16 そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。

24:17 屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。

 

順に見ていきましょう。

 

24:15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)

 

「荒らす憎むべき者」とは、「反キリスト」のことです。「聖なる所」とは、「教会」のことです。もし、教会に反キリストが立ったときには、ということを言われております。そしてそれは、まさに艱難時代のことではないか?と思います。その時にどうするのか?が次節にあります。

 

24:16 そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。

 

「山」も、たとえの意味合いがあり、「教会」を指します。この場合は、「公の教会」ではなく、「地下教会」のことを言われています。そうなんです。反キリストが立った教会からは、逃げなければいけないのです。どこへ逃げるのか?と言うと、「山」、つまり「地下教会」に逃げるのです。そしてそこで、主に礼拝を捧げるのです。

 

24:17 屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。

 

「屋上」も、「地下教会」のことを指します。ここで、「地下教会」に入ったあとの注意点が述べられています。「下に降りてはいけません」とあります。これは、「一旦地下教会に入ったなら、公の教会に戻ったらダメですよ。」ということを言われているのです。そして、「家の中の物を持ち出そうと」とありますように、それこそ尊敬する牧師や献身者や、親しい信者の人たちがいたとしても戻ってはいけないのです。

 

つまり反キリストが立つことによって、いくら「教会」という名が付いていたとしても、「疫病」や「剣」で打たれてしまったなら、もう、そこにいることに御心は無いのです。だからと言って、全く礼拝をしないのか?と言うと、そうではなく、今回の箇所で語られていますように、「荒野」とか「山」、つまり、「地下教会」で行っていくことを主はおすすめしているのです。教会に反キリストが立つなんてことは人間的には嬉しくはありませんし、望んでもいませんが・・・しかし聖書に書かれている以上、「公の教会」はこれから反キリストの教理や悪しき霊に席巻されていくのでは?ということが理解できますので、もしそうかもしれないなぁ、なんて思われましたら、ぜひ地下教会を開催していきたいと思います。

 

反対に、最後まで「公の教会」に残ってしまうというときに、「疫病」と「剣」で打たれてしまって、それによって最悪永遠の命が保障されない可能性がありますので、気を付けていきたいと思います。よろしければ、このようなこともご理解いただけると幸いに思います。