聖書箇所 創世記31:24


31:24 しかし神は夜、夢にアラム人ラバンに現われて言われた。「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ。」


「事の善悪を論じないなら」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。


まず、上記の場面について少し説明したいと思います。この章のはじめのほうから読んでいくと分かるのですが、ヤコブは彼が生まれた先祖の国に帰るように、神から語りかけを受けました。そしてそのことを同居していた叔父のラバンには告げずに、自分の妻たちと子どもたちを連れ、持ち物全部を持って、ラバンから逃げるようにして旅立ちました。数日後、それを知ったラバンはヤコブのあとを追って行き、ついに追いつきました。しかしその時に神が夢でラバンに現れて、冒頭のみことば、「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ」と言われたのです。


もう、すでにご存知だと思うので、今さら説明するまでもありませんが、ラバンはヤコブの叔父にあたります。しかもヤコブの母の兄なので直系であります。そしてふたりの妻レアとラケルは、ラバンの娘です。ゆえに子どもたちとは、ラバンの孫になるわけです。彼らは皆、何十年間か共に生活をしていました。なので、ヤコブがラバンの元を逃げるように去ったと聞けば、何て薄情な人なんだ!なんてことをするんですか?と、思わず非難したくなりますよね?人間的に見るなら、ヤコブがしたことは、一見、非人情のように思えます。客観的には見て、全面的には悪いのはヤコブだと、言いたくなるでしょう。そしてラバンもきっと、そんな思いでヤコブのあとを追って行ったのでしょう。しかしそれに対して、神さまは、「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ。」と言われたのです。なぜ、そのように言われたのでしょうか?その理由について、神さまはラバンには述べていないのですが、私はこのように思います。それに関して、下記みことばを見てみましょう。


参照 創世記31:1‐3

31:1 さてヤコブはラバンの息子たちが、「ヤコブはわれわれの父の物をみな取った。父の物でこのすべての富をものにしたのだ。」と言っているのを聞いた。

31:2 ヤコブもまた、彼に対するラバンの態度が、以前のようではないのに気づいた。

31:3 主はヤコブに仰せられた。「あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。わたしはあなたとともにいる。」


まず、ひとつはラバンの息子たちが、ヤコブのことでラバンに偽証をしたということです。また、そのことがヤコブの耳に入りました。さらにヤコブに対するラバンの態度が変わったということです。そしてヤコブがラバンの物を取ったり、あるいは富をものにしたことは事実ではないことを神さまはよくよくご存知で、「あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。わたしはあなたとともにいる。」と言われたのです。もう、この時点で神さまはヤコブの味方になっていたのです。もちろんラバンは息子たちの証言がまさか嘘だと思ってはいなかったと思います。しかし真相を確かめずに、息子たちの言うことを鵜呑みにしてヤコブに対して取ったラバンの対応を神さまは良くは思われなかったのでしょう。ゆえにヤコブに、「あなたが~帰りなさい。わたしは~ともにいる」と言われ、そしてヤコブがラバンに黙って彼の元を去って行くのを許されたのだと思います。ヤコブの立場から言えば、ラバンに対して「あなたの息子さんたちは私について偽りの証言をしています」と訴えることもできたのでしょう。しかしヤコブはあえて、そのようなことをしませんでした。そのことをも神さまはご覧になっていて、そしてラバンに対して、「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ。」と言われたのでしょう。


さて、ここでひとつ気付かされることがあります。ラバンにおいても、ヤコブにおいても、それぞれ置かれている状況や立場で自分の言い分がある、ということです。この世においては、あるいは人間的には、事が起きた場合に白黒つける、というのが普通の考えだと思います。しかし、「それはやめなさい!」もしくは「事の善悪を論じないように気をつけなさい!」というのが、聖書のことば、あるいは神さまの主張なのであります。要するに、どんなに正しいと思っていても、両者が対立するであろうというとき、簡単に言えば意見が二分する場合には、基本的には「善悪」を論じることに御心は無い、ということをみことばは語っているようです。たとえ理屈や理論が通っていたとしても、それはNGだということを聖書では言われているのです。そんな風に聞くと、「ええっ、だったら正しい人は損するじゃない?」と思われるでしょう。おっしゃる通りでありまして、人間的にはたしかに「損」をするのは、正しい人なのでしょう。でもですね、いくら「正しい」と思っていてもですね、私たちはすべてのことは分かりませんよね?まして人の心の内側の思いや動機までは分かりませんよね?はたまた本音まで、分からないですよね?でも、神さまはすべてをご存知で、両者の意見が割れた場合においても、どちらが正解で不正解か?ということをはじめ、あらゆるすべてのことを正しく判断されるお方であります。ゆえに、そのあたりのことを心に留めて、何か事が起きたというときには、神さまの判断を待ちたいと思います。たとえ明々白々なことであったとしても、「是非」に発展しそうなケースにおいては、そうしていくことが望ましいのでしょう。冒頭の「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ。」とは、そのようなことを言われているのではないか?と思います。そして本当にそうするのなら、天からの助けや守りが与えられていくのでしょう。それにプラスして、心や魂の安全をも確保できるのでしょう。


それに関連して、ダビデがマオンに行ったときに、当時アビガエルの夫であるナバルとのやりとりを思い出します。ダビデはナバルや彼の羊飼いたちがカルメルにいたときに彼らに非常に良くしていたので、ダビデの子に何か手元にある物を与えてくださるよう、若者たちをナバルのところに遣わしました。しかしダビデの家来に対するナバルの回答は、「ダビデとは、いったい何者だ。エッセイの子とは、いったい何者だ。このごろは主人のところを脱走する奴隷が多くなっている。私のパンと私の見ず、それに羊の毛の刈り取りの祝いのためにほふったこの肉を取って、どこから来たかもわからない者どもに、くれてやらなければならないのか」と、要は恩を仇で返すような対応を取りました。それを聞いたダビデは、一瞬、仕返しを考えました。それはそうですよね?誰が聞いたって悪いのはナバルなのですから。しかし後にダビデの妻になったアビガイルによって、自分で復讐することを留めました。要するに自分の手は一切下さずに、すべて神さまにお任せしたのです。その結果、のちになってナバルは打たれ、アビガイルが妻として与えられました。神さまが一切をご覧になって、報復されたのです。もし、その時にナバルに対して文句のひとつでも言っていたら、別の結果になっていたのではないかと思います。どこから見ても、悪いのはナバルなのですが、しかしダビデの取った態度が正しい、ということがこのことから証明されますよね?


ですから、たとえどんなに正しいと思っていても、一時的な感情やその場の思いや、人間の常識や標準だけで物事を見たり、判断したりしないように気を付けていきたいと思います。そうしてしまうときに、あわや神さまからいただけるはずの祝福や恵みを逃してしまう可能性があるからです。たしかに自分には間違えが無い、ということを主張したい気持ちは分かるのですが、そういうことも含めて神さまの御手に委ねていきたいと思います。当然のことながら、一時的には損もしますし、やるせない思いになったり、それに加えて忍耐も要するかもしれませんが、しかしそれで終わりになるわけではありませんので大丈夫です。もし、あなたが正しければ、あなたには決して損をすることのないように、いえいえそれどころかあなたにとって得をするように、益となるように神さまは動いてくださいますので、その時まできちんと待っていたいと思います。反対に委ねるべき判断を神さまに任せずに自分で動いてしまうときに、別の方向に引っ張られたり、違うものを掴んでしまう可能性がありますので気を付けていきたいと思います。「事の善悪を論じない」なんてことは、人間的には非常識のように思いますが、聖書のあらゆることは逆説的なことが多く、しかもそのことにおいても守っていく人に恵みや祝福がありますので、よろしければ少しずつでも実践していきたいと思います。


エレミヤ牧師から聞いた話なのですが・・・かつてエレミヤ牧師が信徒の時代だった頃のことですが、以前の教会に行っていたときに、少しずつみことばの啓示が開かれるようになったそうです。その時に、聖書はたとえで書かれているのでたとえの意味を理解することが大事だということやクリスチャンは艱難時代を通過するということを悟ったそうです。当時その教会には神学校もあったので、エレミヤ牧師もそこで学びや訓練をされていて、時々メッセージをされていたということなのですが、エレミヤ牧師が語るメッセージを通して、だんだんと牧師の対応や周囲の人たちの見る目が冷ややかになっていったそうです。その教会では、たとえの意味合いを理解することも、艱難後携挙説も受け入れないために、エレミヤ牧師のことを異端扱いするようになったそうなのです。でも、実際にどちらが正しいか?と言うと、いくら教会の牧師であっても、それを拒否するほうが間違えていて、エレミヤ牧師がしていることのほうが正しかったのです。しかもそれは神さまの前に、一目瞭然だったのであります。そしてそういった状態がしばらく続いていたのですが・・・牧師からもあまり良くは思われず、周囲の兄弟姉妹からも相手にされなくなり、さいごは「もう、教会に来ないでください」と言われたそうです。かなりびっくりですよね?たしかに教会の方針にはそぐわなかったかもしれませんが、神さまの前には明らかに正しいので何だか心外だなぁ、なんて思わなくもないと思います。反発もしたくなると思います。でも、そこでエレミヤ牧師はひと言も弁解せずに、了承したそうです。それはそれで終わり、そしてその後の神さまの対応はどうなったのか?と言うと、エレミヤ牧師に油を注いでくださり、レムナントキリスト教会の牧師に任命してくださり、そしてみことばのたとえの意味合いや奥義を語る器として召してくださったのです。どちらが正しいか?を神さまはきちんとジャッジしてくださり、そしてすばらしい報いを用意してくださったのです。


エレミヤ牧師の過去の体験は、まさに本日の冒頭のみことばの成就ではないかと思います。私たちが善悪を論じることを忍耐するときに、のちに神さまからのすばらしい恵みや祝福がもたらされるので、ゆえに言いたいことがあってもグッと我慢しましょう!ということを言われていのではないかと思います。今すでにそういう兆候はありますが、艱難時代に入ると、益々善と悪が逆転していくと思います。そんな時に「正しいのになぜ訴えられるの?」「迫害されるの?」「自分だけがこんなに困難な思いをするなんて割に合わない」と言わんばかりに、あわや「やり返してやらなきゃ!」とか、「何がなんでも正しさを証明しなければ!」なんていうことにならないように気を付けていきたいと思います。繰り返しますが、正しい場合には神さまの時に、神さまのほうで弁解してくださったり、報いをされますので、そのことに期待したいと思います。自分の判断や悟りに頼らずに、すべて主にお任せてしていきたいと思います。今回も大切なポイントについて語ってくださった神さまに栄光と誉れがありますように。