聖書箇所 創世記43:31,32

 

43:31 やがて、彼は顔を洗って出て来た。そして自分を制して、「食事を出せ。」と言いつけた。

43:32 それでヨセフにはヨセフにだけ、彼らには彼らにだけ、ヨセフと食事を共にするエジプト人にはその者にだけ、それぞれ別に食事を出した。エジプト人はヘブル人とはいっしょに食事ができなかったからである。それはエジプト人の忌みきらうところであった。

 

「エジプト人とヘブル人」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

このみことばはどういう場面か?について簡単に説明すると、ヨセフが10人の兄たちと弟ベニヤミンと共に食事をするシーンです。その際に、32節にありますように、エジプト人とヘブル人とは別々に食事をすることになりました。ちなみにヨセフの兄たちとベニヤミンはヘブル人です。そして、エジプト人もヘブル人も両者共にクリスチャンであります。また、「食事」のところはKJV訳では、“bread”(パン)とあります。そしてこれは恐らく、礼拝のことを言われていると思います。つまり、「いっしょに食事ができない」とは、共に礼拝に集えない、ということなのです。少しふしぎに思いますよね?同じクリスチャンでありながら、一緒に礼拝に参加できないとは、何か腑に落ちないものがありますよね?それがどういうことなのか?について、この箇所では語っていますので、見てみたいと思います。

 

以前も学びましたように、「エジプト」は、「この世」を象徴します。ゆえに「エジプト人」とは、「この世に着いたクリスチャン」を意味します。「ヘブル人」とは、それとは対称的で「真のクリスチャン」を指します。つまり言わんとしていることは、この世に着いたクリスチャンと真のクリスチャンは、好む教理がそれぞれ違うので、同じ礼拝に連なることができない、ということなのです。

 

私も人さまのことはとやかく言えなのですが、かつては「エジプト人」としての歩みをしていました。その時には今と違って、この世に着いた教えを喜んで受け入れていました。その一例として、艱難前携挙説を信じていました。他にはクリスチャンと名が付けば、天の御国にもれなく入れると思っていました。けれども、残念ながら、このような教えは聖書のどこにも書かれておらず、逆に聖書にはクリスチャンが艱難を通ることや、背教の教会やクリスチャンへのさばきについて言われています。しかしながら、この世に着いた教えを受け入れているときに、正しい教えを受け入れる余地がありません。なので、当時、何かのタイミングでレムナントキリスト教会の「角笛」の記事を読んだことがあったのですが・・・しかしその時にはそこに書かれている警告のことがたわごとのように思えました。たとえばクリスチャンを殺戮するためのギロチンの記事に関しても、艱難前携挙説を盲信していたために、何のことやらサッパリ意味が分かりませんでしたし、受け入れる余地も皆無でした。

 

けれどもそれから大分時を経て・・・もしかすると艱難前携挙説はおかしいのでは?と少しずつ疑問に思うようになってから再び、エレミヤの部屋のホームページにアクセスする機会がありました。その頃には以前に比べて客観的に教理のことに関して見たり聞いたりできるようになっていたので、艱難前携挙説が嘘であることやクリスチャンや教会がさばかれるという教理に関して受け入れることができました。角笛の記事に関しても合点がいくようになりました。でも、もしその時に、艱難前携挙説に固執していたとしたら、いまだ理解には至らなかったのでは?と思います。

 

私のつたない体験はこんな感じなのですが・・・このことを通して申し上げたいのは、同じ聖書のみことばを用いていたとしても、しかしこの世に着いた教えを受け入れている場合に、真理のパン、すなわちメッセージを食すことはできない、ということなのです。なので、この世に着いた教えにも賛同し、また、真理にも賛同する、ということはあり得ない、ということを今回の箇所を通して語っているのでは?と思います。もちろんその逆もしかりであります。真の光の中にいながら、しかしなおかつこの世の暗やみの教えも受け入れる、ということも無いのであります。

 

そしてまた、「ヨセフにはヨセフにだけ、彼らには彼らにだけ、ヨセフと食事を共にするエジプト人にはその者にだけ、それぞれ別に食事を出した」のことばにも語りかけを私個人は受けました。度々話していますように、聖書はイエス・キリストを証する書でありまして、そういう意味では「ヨセフ」もキリストをあらわす型であります。つまり、イエスさまが食事、すなわち礼拝のメッセージを用意してくださるわけなのですが、「彼らには彼らにだけ」とか「エジプト人にはその者にだけ」とありますように、個々におけるクリスチャンの状態に従ってメッセージが与えられる、ということを言われているのではないかと思います。つまり真理を求めているクリスチャンには、真理のメッセージが、そしてこの世に着いた教えを好むクリスチャンにはそういったメッセージが用意されていいて、それぞれの人が、ご自身に見合った礼拝場所(教会)を選ぶようになっているのでは?と思います。ですから個々のクリスチャンが何を求めているか?に応じた対応をイエスさまはされているのでは?ということを感じました。

 

特に終末に関しては、しかもこれから来たらんとする艱難時代において、益々このようなことは顕著になっていくと思われます。艱難時代は究極、反キリストの教えにつくのか?真理につくのか?が問われていくのでしょう。そして残念なことに、聖書ではエジプト化した教会においては反キリストを拝む方向へ行くことが言われていますので、そのままそこに居続けているときに、永遠の命が危ない可能性がありますので、そうなってしまう前に仮庵の祭り(地下教会)を行うことをおすすめいたします。他のメッセージでも繰り返して語っていますように、レムナントキリスト教会は、その日(艱難時代)を見越して先駆けて地下教会の歩みに入っておりますので、よろしければ、そして御心を感じましたらぜひ、共に歩んでいきましょう!

 

繰り返しますが・・・いくら教会と名が付いていても、しかしこの世に着いた教えには御心はありませんので・・・そして艱難時代には反キリストを拝むこととなり、あわや永遠の命をミスしてしまう可能性がありますので、気を付けていきたいと思います。また、エジプト化した教えと真理は相反しますので、神さまの前にどちらかひとつを選んでいきたいと思います。よろしければこういうこともご理解いただけると幸いです。