聖書箇所 創世記16:7‐9
16:7 主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、
16:8 「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」と尋ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」
16:9 そこで、主の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」
「神の前に身を低くする」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。
この場面は文字通り、女奴隷ハガルが女主人であるサライのところから逃げているところを主の使いに見つけられて、ことばを交わした箇所です。16章のはじめから読むと分かるのですが、アブラムにはふたりの妻がいました。ひとりは、女主人と言われるサライ、もうひとりは女奴隷と呼ばれたハガルです。サライは不妊の女で子どもが生まれなかったので、アブラムに女奴隷であるハガルを妻として与えました。そして彼女はみごもりました。しかしみごもったことによって、女主人であるサライのことを見下げるようになりました。そしてサライはそのことをアブラムに訴えました。それに対してアブラムは「彼女(ハガル)をあなたの好きなようにしなさい」と言いました。そこでサライはハガルをいじめたので8節に書かれているように、ハガルは女主人サライのところから逃げてきたのです。
ハガルが女主人サライからなぜ、逃げなければならなかったのか?は、今しがた説明しましたように、サライのことを見下げたからです。それによってサライから怒りを買い、いじめられ、自ら逃げてしまったのです。このことを聞いてどう思われますか?「ハガルって頭が悪いなぁ。もっとうまくやれば良かったのにね。」なんていう風に思うでしょうか?少なくとも私に関しては、女奴隷ハガルのことは他人事とは思えません。なぜか?自分にもそういった資質が十分にあるからです。要は、すぐに「高慢」になりやすい、ということです。
このようなことは聖書には書いていないので当たっているかどうかは分かりませんが、ハガル自身「傲慢になってやろう!」と思ってサライのことを故意に見下げたとは、私には思えません。そうではなく、ハガルは原罪を持って生まれてきた私たちの型ではないかと思います。要はクリスチャンであっても、元々はそういったもの、つまり「高慢」になりやすいということを、ハガルを通して描写しているのではないかと思います。そしてどんなに意識して気を付けていても、ふとした拍子にそういった側面が得てして出やすいのでは?と思います。また、どんな時にそうなりやすいのか?と言うと、ハガルがアブラムの子どもを授かって物事がうまくいった時のように、私たちがこれもうまくいっている、あれもうまくいっている、神さまからの祝福や恵みが盛り沢山、なんていう風に有頂天になっているときに、人を見下げたり、傲慢になりやすかったりするのではないかと思います。もちろん意識してそうなるわけではありません。しかし無意識のうちにも、「自分はなんだかすごいかも?」なんていう風に錯覚しまうことはないでしょうか?
こんなことを申し上げるのはとても恥ずかしいのですが、少なくとも私には身に覚えがあります。でも、そのあとの神さまの扱いはどうなるのか?と言うと、女奴隷ハガルと同様、一変して苦境に追い込まれていきます。そうすると、私の場合ではありますが、身を低くせざるを得ない境地へと心が変えられていきます。そう、認めるかどうかは別として、自分をはじめ、人は生まれつき女奴隷ハガルのように、「高慢」になりやすいのでは?と思います。ですからハガルのことは彼女個人の歩みという面もありますが、しかし本来の私たちの姿、要は「高慢」になりやすいということをあらわす型としても語られていると思います。だからと言って、そのままでいいわけではありません。元々そうだからと言って、悔い改めないことには御心はありません。主の使いが「あなたの女主人の前で身を低くしなさい」と言われている通りでありまして、もし、「高慢」になってしまった場合は、直ちに身を低くしたいと思います。
一方、女主人サライは、御国を受け継いだクリスチャンのパターンなので、しかも、「主人」とも言われているので、もしかすると、「聖霊」とか「イエス・キリスト」のたとえかもしれません。そう、私たちは女主人、すなわち神さまやイエスさまや聖霊の前に、常に身を低くすべきなのです。そうなんです、主の使いはたしかに女奴隷ハガルにもこのことをおすすめしましたが、しかしそれは今日の時代を生きる私たちクリスチャンお一人一人への語りかけでもあるのです。しかしそれはクリスチャンになったからといって、また、そのことに気付いたからといって、すぐに解消されるわけではなく、神さまから恵みや祝福をいただいたり、一方、試練や試みを通されていったりする中で、要はありとあらゆる体験を通して、はたまた「高慢」が打ち砕かれるようにその都度祈り求めていく中で、少しずつ是正されていくものなのでは?と思います。
そして繰り返しますが、主の使いが言われたように、神さまの前に身を低くすることに御心があります。そうするなら、祝福や恵みが約束されるのです。しかし反対に、身を低くせずに高慢になっていくときに、祝福や恵みを逃してしまうのです。他の箇所でも、「主は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを授ける」なんていうみことばがありますので、よろしければぜひ、神さまの前にへりくだる者となって祝福や恵みを受けていきたいと思います。また、「高ぶる者を退ける」ということは、もしかすると生涯にわたって神さまの前に身を低くしないというときに、天の御国に入るのを退けられてしまう可能性がありますので、くれぐれも気を付けていきたいと思います。よろしければこのようなポイントについてもぜひ、見ておいていただけたらと思います。
証
大分前に召された牧師さんが、ある本の中でこのようなことを書いていました。「自分は奉仕をさせていだたいている、なんて言いながらも、しかし心のどこかで、してあげている、なんていう思いがあります。それから実際は神さまがしてくださったことなのに、それがいつのまにか自分の実績に思ってしまうことさえあります。まだまだ、自分の自我が打ち砕かれていないことに気付かされました」というようなことをおっしゃっていました。その文章を読んで、「自分もきっとそうだ。口先では良いことを言っていても、しかしいざ、内面はどうか?本音はどうか?と言うと、口で発していることと、心の思いとは違うかも。でも、この牧師さんのように、少しでも謙遜になって徐々に変えられていければなぁ」なんてことを思いました。また、メッセージの中でも書きましたように、どちらかと言えば、まだまだ神さまの前に高いなぁと思うことが多いので、少しずつでも低くなれるように祈り求めていきたいと思いました。今回の箇所を通して、心の奥底まで神さまの前に身を低くすることができたら・・・なんてことを思わされました。いつも大切なことを語ってくださる神さまに、栄光と誉れがありますように。
レムナントキリスト教会
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