聖書箇所 創世記9:4‐6
9:4 しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。
9:5 わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。
9:6 人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。
「血について」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。
冒頭のみことばにおいて「血」ということばが使われています。「血」は「霊的な事柄」をあらわしています。そして今回の箇所で使われている「血」については、あまり良い意味合いでは使われていません。4節では「血のあるままで食べてはならない」と、「血」について「否定形」で書かれています。5,6節においてもそうです。「血の値を要求する」とか「人の血を流す者は、人によって、血を流される」という表現も、決して良い意味合いではないですよね?さて、「血」に関して、この箇所だけですと分かりづらいので、少しばかり他の箇所も参照しながら見てみましょう。
参照 マタイの福音書23:29‐36
23:29 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、
23:30 『私たちが、先祖の時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう。』と言います。
23:31 こうして、預言者を殺した者たちの子孫だと、自分で証言しています。
23:32 あなたがたも先祖の罪の目盛りの不足分を満たしなさい。
23:33 おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。
23:34 だから、わたしが預言者、知者、律法学者たちを遣わすと、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行くのです。
23:35 それは、義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復があなたがたの上に来るためです。
23:36 まことに、あなたがたに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。
ここでも「血」について言われています。30節で「預言者たちの血を流す」ということが言われています。これは何を言っているのでしょうか?その答えは次の31節にあります。「預言者たちを殺した者たちの子孫」とあります。ですから「預言者たちの血を流す」とは、神さまに遣わされたしもべが殺されたことを言われているのです。そしてこのことばは、冒頭の6節の「人の血を流す者」のみことばと符号します。そう、つまり神さまから遣わされたしもべを殺す人について言われているのですが、そういう人のその後の運命についてマタイの福音書35節と創世記6節は説明しています。「血上で流されるすへての正しい血の報復があなたがたの上に来る」とか「人の血を流す者は、人によって血を流される」と語られている通りです。もし、神さまが遣わした預言者とかしもべと呼ばれる人を殺すなら、神さまから悪い意味合いで「報復」を受ける、つまりさばかれてしまうのです。「私は人を殺したことなんてないから大丈夫!それに今後も殺す気はないし、だから関係ないもん。」と言われる方もいらっしゃるでしょう。もちろん、それは良いことです。そしてたしかに「殺人」と聞くと、拳銃やナイフなどの凶器での「殺人」を思い浮かべるかもしれません。たしかにそれも「殺人」ではありますが、しかし、「殺人」に関しては、聖書では単なる「人殺し」のことだけを言っているわけではありません。34節に「迫害」ということばが出てきますが、人を殺さないまでも、正しく歩んでいる人に対して憎しみや妬みや党派心(野心)や怒りや憤りを持ったり、あるいは正しいことをしている人に反発したり、嫌な目に会わせたりする人も、神さまの目には「殺人」という風に見なされてしまうのです。なので、もし、「人殺し」にお心当たりがなくても、これらのことに何かひとつでも該当するかも知れない!と思われましたら要注意ですので、直ちに悔い改めていきたいと思います。
ちなみに「人によって血を流される」という表現ですが、正しい人に対して悪いことをした場合に、「人」を通して報復が来るという風に取れますよね?たしかにそういうこともあるかもしれませんが、しかし、KJV訳でこの箇所を見ると、“by man”ということばが使われています。もし、本当に「人」によって血を流されるのでしたら、“men”という複数形が使われると思うのですが、“man”と単数形が使われています。この箇所にかぎらず、他の箇所でも、英語でこういう書き方をしている箇所がいくつかあるのですが、“man”とは、「イエス・キリスト」のことを言われているのではないかと思います。絶対にそうだ!とは申し上げませんが、「報復」とか「復讐」に関して、「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」ということが書かれていますので、あながちそういう解釈も当たらずとも遠からずなのでは?と思います。そうなんです、もし、正しい人の「血」を流すときに、つまり殺したり、迫害したり、嫌な目に会わせたりと、何らかの害を加えていくときに、神さまから悪い意味合いで「報い」を受けてしまうという点に関しては、よくよく心に留めておきましょう。
それこそ、黙示録22章に、「犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。」と書かれていますように、そのようなことをしている人は「外に追い出され」てしまいます。これはいわば、天の御国でない所、ハデスとか火の池とか永遠の忌みと呼ばれる場所に連れて行かれてしまうことを言われているのではないかと思います。また、この世においてもろくな目に会わなかったり、霊的に正しく見たり聞いたり判断することができなくなってまともな歩みができなくなる可能性がありますので、くれぐれも気を付けていきたいと思います。反対に主が遣わした預言者とかしもべに対して、善を行ったり、助けていくときに、神さまからの「良い報い」がきますし、信仰の歩みにおいて、霊的に枯渇したり、みことばのききんに陥ることなく、神さまの喜びや平安のうちに信仰生活を送れますので、ぜひ、おすすめいたします。もし、御心を感じましたら実践してみてください。
証
私がまだ、正式にクリスチャンになる前のことでした。当時通っていた教会には、ローテーションで外国の伝道グループの人たちが来ていました。もちろん集会も共に参加していたのですが、それとは別に共に話をしたりと交流の場を持つ機会もありました。洗礼を受けるべきなのかどうか?と、私自身は非常に中途半端な状態だったのですが、しかし不思議にも、私は彼らのことを非常に尊敬していました。それはきっと、彼らの証を聞いて、彼ら自身が心から神さまに信頼している姿を目の当たりにさせていただいたからでした。それで思いました。「自分はクリスチャンではないけれど、何か彼らにとって役立つことができたら」と、そんな風におぼろげにも教会にいる時に神さまにお祈りをしました。すると、神さまの導きで、ある奉仕のことでお手伝いをする機会が与えられました。また、彼らの幾人かの人を自宅に招いて共に奉仕の準備をする機会も与えられました。そしてそのことを彼らはとても喜んでくださいました。それから数ヵ月後、私は洗礼を受けて、クリスチャンとしての歩みをスタートさせることができました。
それからしばらく時を経て、直近まで通っていた教会のことですが・・・当時、私は平信徒だったのですが、献身者のことを心から尊敬していました。自分は献身の歩みはしていないけれど、牧師や伝道師をはじめ、献身者の方のお手伝いやお役に立てることを少しでもさせていただけたら幸いだなぁなんていう風に願っていました。ただ、色々と個人的な事情があって、できることは非常に限られていたのですが、しかしその時々に神さまは不思議な方法で、私のことをそのように導いてくださいました。ある時は、目に見える奉仕をすることであったり、時にはささやかな捧げものをさせていただいたり、あるいは献身者の方のためにお祈りをしたりと、そのようなことをさせていただくことができました。本当に、その人たちの助けになれたかどうかは分かりませんが、しかし、神さまはそんな私の思いに、後に顧みてくださいました。人が聞けば大したことではないかもしれませんが、その時の私の願いは「神さまにお仕えしていく」ことでしたが、そのことを神さまはみごとに叶えてくださったのでした。神さまから何かいただけることを特別期待して、そういうことをさせていただいたわけではなかったのですが、結果として、私自身が神さまに献身していくという方向性に神さまは導いてくださいました。そしてそれは私にとって、大きな大きなプレゼントでした。もしかすると、いえ、きっと、神さまにお仕えしている人たちに何かさせていただければ・・・なんていう思いすらも自分から出たものではなく、神さまが天から与えてくださったものなのではないかと思います。最近預言やお祈りの中でも、「真に神さまを頼って、神さまに仕えている人に良くしたり、助けてあげなさい。特に困っている人たちや迫害を受けている人たちや、助けを必要としている人たちに何ら手を差し延べてあげなさい」ということが示されたのですが、そのことも実践していきたいと思います。
そしてメッセージにも書きましたように、反対に正しく神さまにお仕えしている人に対して粗悪な対応をしたり、妨害をしたり、嫌な目に会わせたりと、害を加えることばかりをしていたら、今の自分の歩みはきっと無かったと思います。それどころかクリスチャンにもなっていなかったかもしれませんし、なったとしても、神さまの御怒りを買うような歩みに入っていたのでは?と思います。もちろん時には罪を犯してしまいますし、間違いや勘違いの多い者ではありますが、その都度主に赦しをいただいて悔い改めながらも、神さまから良き志や思いが与えられたことを日々感謝しつつ、恐れを持ってこれからもお仕えしていけたらなぁと心から願っています。今回も大切なポイントについて語ってくださった神さまに栄光と誉れがありますように。
レムナントキリスト教会
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