第Ⅰコリント人への手紙11章10~20 2011年10月23日
11:10 ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。それも御使いたちのためにです。
チョット 女性蔑視じゃないか!と、言われそうな感じなんですけれども。わたしが言っているんじゃなくて、パウロが言っている訳なんですけれども、まあ、聖書の基本的な考えは、男女平等では少なくとも無いですね。
ヤッパリ、どっちかと言えば、女性は、権威に従うという事を書いてありますので、一様それは尊重して下さい。只、あまり何でもかんでも、男が頭なんだと極端に強調する事は無いんですけれども。一応書いてありますので、その中で、お一人お一人の個人的な歩みの中にも、助けが有ります。それだけじゃなくて、どんな言葉でもヤッパリ従って行くなかで、思いもかけないことがあるんですね!それって従わないと分からないんです。
それも、御使い達のためです。、、、、、これは先週言いました様に、明らかに御使いは、権威に従わなかったんです。で、御使いの頭である サタン はすでに反逆者ですからね。 だから、この従いの中で、特に女性の従いの中で、明らかに 人と御使いの関係は逆転するっていう事を聖書は暗示していると言う風に理解します。
で、そういう事がへブル書に有りましたよね、 「なぜ人を特別にそこまで目を掛けてくれるのですか?」これ、何言っているのか分かんないですけれども、其処だけ見ても。
これは御使いとの関係に於いて、特別に人に関して神様が目を掛けるっていう事、それは、逆転するんであります。だから、逆に御使いは怒っているんです。人は分からないですね。普通のクリスチャンの場合も分からないんですね!
何で御使いは怒っているんだろう。。。。妬みで怒っているんですけれども。 のちの日に逆転するんですね、それを場合によってクリスチャンも知らない人が居るんです。
{御使いと人間の立場が逆転する!}----えぇーそんな事初耳、どこに書いてあるんですか?、、、、書いてあるんですけれどもね!、、、、、何も見ていない人がいっぱいいるんですけれども。殆ど聖書を読んでいるのに何も理解していない人が多いんですけれども、我々は理解するような者になりましょう。だから、今の従いの中で、明らかに人と御使いとの関係は逆転します。それが、、、だから後の世を治めるのは人間なんです。今の時代は御使いが治めているんですけれども、悪魔を筆頭にいろいろ間違いが有るんで、御使いの支配は駄目だっていう事で、次回は、人と御使いが交代するんです。だから御使いはいろいろと 黙示録ではいろいろと意地悪するんです。妬みでですね!
そんな風に聖書は書かれているんですけれども、そんな風に読めない事が多いんでしょうけれども。
ので、最後の悪あがきが黙示録であります。
そういう事ってありますよね、ありませんか?
「もうあなたは、この会社首ですとか言って。明日の引き継ぎで終わりです」って言われて。
言われたその人が意地悪な人でですね、次の引き継ぎの人に意地悪をして、嘘を教えたりして。。。。。。。。黙示録はそんな風に読めるんですけれどもね!
御使いの最後の意地悪。だから黙示録に御使いが出てくるんです。しかも悪い事をいっぱいやっていますよね、、、、いろいろ鉢をひっくり返して災いが下ったりとか、書いてあります。
11:11 とはいえ、主にあっては、女は男を離れてあるものではなく、男も女を離れてあるものではありません。
11:12 女が男をもとにして造られたように、同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から発しています。
だから、かと言って全然女が不要ではなくて、当然女性が無ければ、男も生まれてきません、どんな男もみんな女性から生まれてくるわけですからね。そういう意味で、全ては神から発しているんですね。
11:13 あなたがたは自分自身で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのは、ふさわしいことでしょうか。
祈りに於いても女性は、かぶり物っていったらいいのでしょうかね、言語の意味では、かぶり物って言う権威を頭の上に置いて祈って下さいっていう事なんですね。、、、、、、何でもかんでも細かい事言うわね、と、思えないでも無いでも無いですけれども、まぁそんな事が書いてあります。
だから教会に於いても、女性が祈る場合もそう言った権威を意識してっていう事なんでしょうし。またもう一つは、いろんな聖書の事柄が二重の意味合いが有りますので、これにも二重の意味合いが有るんではないだろうかと、言う風にわたくしは理解します。
聖書のいろんな言葉って、イエス(神様)って言うのは、一度にいくつもの事が出来る方であります。だから聖書という一冊の本を書いた時に、一度に幾つもの事を書いているんです。だから、3,000年前モーセに与えられた聖書の言葉の中に、福島の預言が出ているってことを、今度書く、実際に暗号が出ているんで書くんです。また聖書のなかに ミット・ロムニー って私も、昨日一昨日かな暗号を検索したらチャンと出てきました。ミット・ロムニー の暗号!!!聖書の暗号が出てきましたけれども。そんな事ができるのか?って言うんですけれども。 神は人間じゃないんで出来るんです。
人間だって聖徳太子は一度に七人の声を聴いたっていうんですね。聖徳太子が本当に出来たのか、分かりませんけれども、七人は難しいですね、二人でも難しいですよね。二人の人にいっぺんに喋られたら何言っているのか分かんなくなる事が有るんですが、聖徳太子はそういう事ができたんですね、まあ、本当かどうか分かりませんけれども。でも神様の場合出来るだろうと思います!一度に書きながら幾つもの事を成す!
何を言いたいのかと言うと。二重の意味合いが有ると思います。そして、たとえば、イエス様の言葉もそうですよね。終末の事を、エルサレムの事を、エルサレムの崩壊の事を言いながら、尚且つ終末の事を言っていたりします。だからどんな事にも二重の意味合いが有ります。
13節で、女が頭に何もかぶらないって。これは、女に関しては、たとえの意味合いでは、明らかに教会の事を言っています。男はキリストを表わし、女は教会を表わす。 だから、教会に関しても祈りに関しては、わたしの理解では、わたしの理解が間違えでなければ、神に祈る時に、頭に権威、ヤッパリ主イエスの語られる事とか、頭であるキリストの語られている事を祈っていくと言う事です。だけど、権威を置かないと、女の人がもう駄目夫と考えて、給料の半分はわたしのバッグによこしなさい。!!!とそんな風になちっゃうんですけれども。だから教会もそんな祈りが有るかも知れないですよね。
「自分とこの教会の信者を増やして献金額は、今月は少なくとも100万円与えられますよう。其の為に二十四時間祈祷しましょう。献金額が増えますように!」、、、それって、祈ってはいるんですけれども、殆ど女性の我ままだけ、って言う感じがしない訳でも無いですね。 だから、祈りに於いても権威を置くって、キリストの事を優先に置くという事をわたくしは理解しています。だから、レムナントも小さな教会ですけども、祈る時に、主がどのような事を望んでおられるのかという事を優先して祈りの課題を続けるつもりです。だから、今で言うなら、さっき言いました様に、出版かなぁと思われます。で、これは、明らかに繋がっていますよね、出版社が出してくれるか、くれないのか、それは分かりません。それは兎も角、原稿を書くのは我々の義務、仕事ですので、其の為に祈っていきます。で、それは さっきの姉妹の証しに有りました様に、実は、艱難時代の備えになって行ったり、または、キリストが思っておられる、、、要するに。頭に於いてキリストの御思いを満たすっていう事になってきます。それは権威を置くっていう事になるという事に通じると思うんです。だから レムナントも確かに献金が増えて欲しいとは思うんですけれども、それは、一番の祈りの課題ではないんですね。まあ、百番目くらいかも知れませんけれども、そんな感じですね。
出版とか、ニュースレターも、 ニュースレターは明らかにポイントが有ると思います。今のキリスト教会は本当にもうなんと言ったらいいのでしょうかね。能天気とはよく言ったものですけれどもね、殆ど現実と乖離しています。我々が見ている現実は、昨日のアメリカの収容所の写真がちょうど有ったので、それを見ると リアル ですよね。言葉だけなら今一つですけれども、実際にこんなに沢山の収容所が建っている、しかもそこに運ぶトレーラーに連結された輸送用貨物が幾つも幾つもズート並んでいるのを見ると ゾート しますよね!あのうちの一つにわたしが入っていたりして。ゾートします。でもそれは覚悟の上であります。ので、ヤッパリ 我々は空想の世界をクリスチャンとして歩んでいるのでは無くって、残念ながら明らかに わたくしの確信は、もうこの時代まで生き延びてしまったら、艱難時代から逃げられないと60歳のわたくしでも思っております。ので、もっと若いみなさんは、脅かすわけではないんですけれども、ヤッパリ それは、もう想定内に考えて行った方がいいです。そうでないと、永遠の命をズッコケちゃったら最悪ですから。
だから、そういう意味では、他の教会が少なくとも終末の備えと言う事で、権威を頭に置かないで祈って行ったり、自分の考えだけでもう女の好みだけで祈っているかも知れないですけれども。我々は、権威を頭に置いて祈っていきたい、キリストがどの様に祈られるのか?という事を頭に置いていきたいと言う風に思います。
11:14 自然自体が、あなたがたにこう教えていないでしょうか。男が長い髪をしていたら、それは男として恥ずかしいことであり、
11:15 女が長い髪をしていたら、それは女の光栄であるということです。なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。
だから、女の人はかぶり物を与えられている、ですね。 どっかで聞いた事が有ります、女の人だけは室内でも帽子をかぶっていて いいんだと、要するにかぶり物は許されている。そういう意味で言っている、そう言うことかもしれませんね。
だから、かぶり物とか、頭にハンカチを乗っけるとか、帽子をかぶるとか、方法は兎も角、要するに独立独歩では無いという事ですね!女性の場合は。
でそれは、人間世界でもそうかもしれないですけれども、たとえの世界に於いてもヤッパリ教会というのは、独立独歩、自分の意見だけで歩んで行くのではなくって、ヤッパリ男であるキリストの権威と主なるキリストの御心を行っていくという事がポイントであります。
だけど明らかにもう、今の時代は、繰り返して言うようですけれども、女性がズーと もう我儘を言っている時代であります。それは人間の女性もそうかもしれませんけれども、対キリストに対して
教会が先になっちゃったんですね! カトリックなんかもそうです。ハッキリ言っているんです。ハッキリ言っていますよ!
カトリックは教会が主体なんです。教会の言う事と 聖書(キリストの言葉)と どっちか?ぶつかったら どっちか? 教会の言う事を優先して下さい、、、、要するに女(教会)を優先しているんですね。。。。これは、本末転倒なんです!!!だから、わけの分からない教え、地獄は無いだとかですね、マリヤも加えて四位一体とかですね、言いたい放題なんですね!女の我儘かってって言う感じなんですけれども。それにはポイントが有りません。しかし どうぞレムナントは少なくとも キリストを頭として置いていきたいと思います。そういったところにポイントが有るかなあと思います。
11:16 たとい、このことに異議を唱えたがる人がいても、私たちにはそのような習慣はないし、神の諸教会にもありません。
11:17 ところで、聞いていただくことがあります。私はあなたがたをほめません。あなたがたの集まりが益にならないで、かえって害になっているからです。
集まりが益にならないで、害になっているからって後で ズート いろいろ内容を書いているんですけれども。これも、二重の意味合いが有るという事を覚えておいて下さい。聖書は、一面こうやって書いてあるのは、後の方を読んでいくと、わりと人間的な事です。
先に食っている人が居るし、まだ食っていない人もいるし、食物を持っていない人も居るって言う意味なんですけれど、それって、パンが回ってこないとか、わりと下世話な話ですよね。、、、、俺に飯が回って来ないのに あいつ が先に食っているとか、そんな様な事にしか読めないんですけれども。
でもパウロが、その意味合いで書いたかも知れませんけれども、聖書ってヤッパリ 二重三重の意味合いが在って、いろんな事柄も語っています。でこれは、明らかに集会に関して言っているんです。あなた方の集まりって、これは集会の事を言っているんです。だから、教会の集会の事を言っているんです。
集会に関して たとえ の意味合いとして、益にならないで、害になると言う類の集会が有るんです。明らかにそうだっと言う風に理解します。で、この事は覚えておいて下さい。わざわざ聖書に書いているのは意味無く書いているんじゃないんですね!ヤッパリ集会の中で、我々は、教会へ集会に行って、そして日曜日眠かったり、他の人は遊びに行ったり、ディズニーランドへ行ったり、映画も行っているかも知れないし、デートも行っているかも知れないのに、あぁ 眠いのに朝から起きて教会に行くんですけれども、それであっても、その努力は勿論良い事なんですけれども、しかし、パウロが言っている様に、集まりが、全ての集まりが集まってはいるんだけれども。益になる集まりとは限らない、場合によっては、毎週毎週一年間欠かさず集まっており、三年も十年も皆勤賞だ!ではあるんだけれども、それはそれで立派なんですけれども、しかし集まりが、益にならないで、集まれば集まるほど害を受けてしまう、そういう類の集会が在るって言う事を、言われていると言う風に理解出来ます。
実際にそれってあるだろうと思います。
わたしの若い時、ヤッパリそういう類の教会に行っていました。わたしは、S町と言うところに住んでいたんですね。西武池袋線のS町なんですけれども、そこから二つ三つ先の駅の教会に高校生位の時に行っていたんですね。N馬にある教会なんですけれどもね、その教会に行っていた時に、無差別に選んだ教会だったんで、そんなにいい教会じゃなかったんですね、神様が与えて下さると思って言ったんですけれども。まぁ とりあえず、そこで洗礼を受けたんですけれども。でもまぁ、それはそれであって只、チョット 今思うと福音派ではあるんですけれども、問題が在りました。で、わたしはそれを知らなかったんですよ。わたしは高校生になってキリストを信じたんですけれども、その時、その教会のキャンプに行ったんです。教会のキャンプに行って、、、あれは長野県ですかね、電車に乗って行って、教会のキャンプだからいろいろ教えられるんだなぁ、って、恵まれるんだなぁって、一生懸命行ったんですけれども、わたしなんか、一生懸命伝道熱心でしたからね! 高校生なんですけれども。 わたしよりチョット年上の人が居たんですよ。名前は忘れちゃったんですけれども、その人と同室だったんで、わたしは、その人より年下ですからね、高校生ですから、こう思うんだとか言って導く事は出来ないんですけれども。その人は求道者だったんです。
で、その人、さすがに わたくしが、救いに導く事出来ないんですけれども。何も出来ないんですけれども、わたくしは信仰熱心だったもんですから、じゃ、せめて牧師さんとこへ行ってお話聞きましょうと言って、二、三回連れて行ったんです。私がやったのはそれだけですけれどもね。アンデレみたい。アンデレが聖書に出てくるのは、人をキリストの前に連れて来るだけなんですけれども。アンデレみたいに彼を連れてって、、、、で、そうしたらその人救われたんですよ。で、一緒に救いの祈りを受けたり、一緒に悔い改めの祈りをしたりですね。後で牧師さんに褒められました。「キャンプで、A君が、同室の彼が救われる為に、二回か三回私の元に連れてきた」と褒められましたけれども。 それはいいんですけれども、其れくらい熱心だったんです。わたしが救われて一年くらいのときでした。それはいいんですけれども。そのことを威張るというんじゃなくって、ポイントは、そのキャンプでわたしは、つまずいたんですよ!まあ、救われてはいたんですけれども、別の同室の人が居て、その人は神学生の人なんですよ、神学生、東神大だったと思うんですけれどもね、調布の辺りにある神学校なんですけれども。
で、ビックリしました。わたしは高校生でして、クリスチャンってみんなキリストを信じていると思っていたんですけれどもね、まあ神学校へ行っているから、英語の聖書とか持っているんですけれども、その人と同室になって話したらビックリしたんです。「キリストは復活していないし、復活は、神話なんであって、それはその当時の人が思い込んだ事に過ぎない。」。。。。。えー わたしは、気持ちが動転してしまって、私は高校生ですよ。一瞬チョット躓きそうになりましたけれどもね。でも、それやこれや有ってですね、こういう教会に長く居てもしょうがないと思って、出るキッカケに一つはなりましたんでよかったかもしれませんけれども。でもまあ、わたくしはそれで躓いて教会止めませんでしたけれどもね、これに関しては確かに集会なんですけれども、まさにこの言葉の通りですよね!
17節:わたしはあなた方をほめません。。。。褒められないですね。確かにこれ。 あなた方の集まりが益にならないで、かえって害になっているからです。。。。。害になっていますよね。明らかに。
こういう集会ね、わたくしだからよかったんですけれども、もうチョット疑問を抱きやすい人だったら、救われても一年後に信仰を失なっちゃいます。たいへんな事ですよね。よく分からないですけれども、その教会はそういうキャンプをやっていましたし、だから、チャンと信仰を持った人も居るんですけれども、時々そういう毒麦な人も何人か居るんですよ、だから何か、混乱した集会だったんですね。
だから、わたしはその教会を一年後に止めてしまいました。馬鹿らしくて行かなくなりましたけれども、でもよい経験をしました。それは、益になる集会ばかりじゃないということです。
パウロの言っていることは正しいんです。
集まった集まりがそんな集会ではどうですか?そんな人ばっかりだったらどうですか?{キリストは復活していない。歴史上で実際には、ああ、あなたもそう思う、わたしもそう思う}。。。。。そういう集会 みなさん一年皆勤したら、どう思います?どうなると思います? 信仰も何もあったものじゃないですよ!
カトリックなんかそういう教会がいっぱいあるんですよ! だから、無意味に御言葉が書かれているんではないんです。集まりが益になる集会ばっかりじゃないんです。集まれば集まるほど、不信仰の思いをですね ワーッと固く持って、、、、{ああ そうだよな!とかね、地獄はホントに無いよ、うん、あなたもそう思っている、みんな多数決一致よね!}とか言って、多数決で決めるものじゃ無いとおもうんですけれども。全然悪い、訳の分からない信仰が固くなっちゃたりですね、、で、よい益になる集会ばっかりじゃないっていう事を覚えておいて下さい。別にそれは、あの教会は止めろ、この教会は止めろ、とは言っておりません、だけれども、そうなんです。
世の中みんなそうですよね、飲食店なんかもそうですよね、焼き肉屋だって健康になる焼き肉屋だけじゃないんです。この前なんか新聞沙汰になった焼き肉屋がありましたが覚えていませんか?食べたら食中毒で二、三人死んじゃったんです。そういう焼き肉屋が有ったんです。
そこの社長は謝っていたんですが、一年くらい前ですかね、すごい安いんですけれども、ひどい食中毒を起こして客が何人か死んじゃったんです。そういう意味ではですね、危ない焼き肉屋もあるんですけれども、でも、集会もそうなんであります。
益になる集会ばかりじゃないと明らかに聖書は語っているんです。これは、たとえ ですけれどもね、ので、そう言った視点で見て行って下さい。
もう一つは、
11:18 まず第一に、あなたがたが教会の集まりをするとき、あなたがたの間には分裂があると聞いています。ある程度は、それを信じます。
11:19 というのは、あなたがたの中でほんとうの信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむをえないからです。
19節の分派っていう言葉ですけれどもね、分派って言うとなんかいろいろ分裂が起きる、その程度の事しか読めないんですけれども、これ問題です。
KLV訳では、この箇所の分裂と言う言葉には(異端)と言う言葉が使われているんです。だから、パウロが言わんとしている事はこういう事なんです。
教会の中には、必ず異端とかおかしな教えが出てくる事を、パウロは明言しているんであります。
ので、これは、マタイ13章の麦と毒麦の話にも通じるんですけれども、必ず、毒麦って出て来るんです。だから、たとえそれが、超聖書的な教会とか、聖書に基づいた教会ですとかね、聖書の真理に基づいているとどんなに うたい文句を言おうと言うまいと、ヤッパリ毒麦って出てくるし おかしな教えとか異端的な教えって出て来るんです。それは事実です。
で、しかしそれを通して、本当の信者って書いています、これは新改訳の脚注では、本当の信者って言うことが、試験済みのものって出てくるんですけれども、、、、だから異端が現われて、おかしな教えが教会の中に広がって、その中でしかしそれらの異端を経て尚且つ正しく残るっていう試験済みのものが現われる為には、異端って許されるって言う事です。なんか複雑な言い方ですけれども、分かりますか、言わんとしているのはこうだと言う風に思うんです。
わたしがたとえば、度々度々言っていますけれども、19世紀に成って、おかしな教えが入って来たんです。それまでキリスト教会に無かった教えです。それは、艱難の前に挙げられるって言う教えです。そんなことは、ルターもまたは、初代教会時代のヨハネも誰もそんな事 言っていないんです。
19世紀に成って意図的に教会に入って来たんです。
それは、いっぺんで、アメリカを起点に、JN・ダービーとかいうプリマス・ブラザレンの人が講演会をアメリカに行ってそこで開いたりとか、または、スコフィールド注解訳聖書って言うのが有って、そういう聖書とかを通して、、、何しろアメリカを起点に ズート 艱難前携挙説が広がっているんです。今もアメリカでは それを宣伝しています。
チョット昔、わたしの若い時に有名だった、ハル・リンゼイは、「地球最後の日」とかなんとか、いろんなキリスト教会でベストセラーになった本があるんですよね、一千万部以上売れたんですよ、それもそうですし、レフトビハインドもそうですよね、これは、六千万部も七千万部も売れているという話ですけれども、で、異端の教えって言うのは、キリスト教の書店の本ってそんなに売れないんですけれども、でも、意図的なくらいに、ベストセラーにして、そして毒麦が グーって 広がって来るんです。
それは何になるのか?何故そういう事が許されるのか?そして毒麦の教えがもう日本でもお陰様で広まっているんですよ、それは、本物が明らかにされる為に、こういう異端の教えが広がるのが許されるんだ。って パウロが言っているんです。試験済みのものっていう事です。
だからみなさんは、その教えに引っかかってしまって、試験で不合格になった人が一杯いるんです。それが他でもない、艱難前軽挙説とかですね、それを信じ込んでいる人なんです。しかしみなさんが、その教えに気づき、正しく聖書を読んで、そしてそれを主から教えられて、これは違うんだと理解出来たならば、みなさんは、試験を経て合格しているってことなんです。
だから、教会にはその様な異端って許されるって事なんです。皆さんを試験する為にそれが来ているんです。そうなんです。で、異端の教えってズーって来るんです。
さっき言った私が若い時の 東京神学大学の人は、そういう異端の教え、=(キリストは復活していないとか、理性で理解出来るような教えですね)、=そういう異端の教えに見事引っかかっているんです。で彼らは、試験して引っかかって不合格者なんです。
彼らは何か、自分達は頭がいいから一般の信者よりもヨッポド知識が有ると思っているのかも!偉い大間違いなんです!、、、、、失敗者であり、不合格者なんです。
で、試験をして、キリスト教会の基本ってそうなんです。神は試す方なんです。 試すんですよ! 全然勘違いをしているんですよ。 だから、試験は繰り返され繰り返されるんです。そしてその中で、不合格者が一杯出て来るんです。それが毒麦と呼ばれるものなんです、誤った教理なんかも。
だから良くも悪くもこの事は許されるんです、教会の中で!!!人間の宣言なんて何の意味も無いんです。自分達が一番聖書的な教会ですとかね、福音派の中の福音派です。とかそういう歌い文句はいいけれども、神は、人のうたい文句なんて何も気にしていないんです。しかし冷静に ヤッパリ 異端を許されて、そしてその中で試験を行っているんです。その中で、ハッキリ 言いますけれども、人間的な標準で、多数決がどうだ、どうでなくても、多くの今の福音派もそうですけれども、ペンテコステ派もそうでしょうけれども、キリスト教の最も聖書的な教理の中にも おかしな異端が入っている。で、それに引っかかっている人が沢山いるんです。自分達は最も聖書的で、なんとかかんとか、、って、それは自称天才であり、自称優秀な者ですが、試験をすれば全然合格点に達していないんです。神の前に試験に落っこちちゃっているんですね。だから、艱難前携挙説が広がっているのもそうですし、また、黙示録が読めないって言うのもそうです。
黙示録は教会とかクリスチャンが、世の終わりに裁かれるって言う 基本の基本が理解出来ないと何も分からないんです。殆どもう謎の謎なんです。
だけど、そう言う根本的な事に関してすでに引っかかっちゃっているから、何も分かんないんですね。そんな感じであります。
試験済みっていう事。本当の信者が明らかにされて、分派が起こる事は、已むを得ないって、これよく読むと怖い言葉ですね。だから神様って言うのは、試験をされる方であります。
レムナントもお陰様でね、こんな事頼んでもいないのにですね、信者を弟子の歩みの人を試験されちゃったんです。でも大事な事は、残るべき人が残るって言う事なんです。そういう事がポイントなんですね。神様もそうなんです。残るべき人とか、本当の人を残すのにポイントが有って。
で、どういう事も、クリスチャンは自己中心に聖書を読んでいるんです。だから天国の門が広ければ広いほどいい、そうしたら、わたしも入れる!こんなに サボリ 気味のわたしでも入れる!
でも、聖書は、キリストによって書かれたものなんで。で、キリストの立場によって書かれているんです。
明らかに、聖書の語っている事は、信者は選抜されるっていう事です!明らかです。
人間的な考えで有りますよね、高校全入、大学全入でですね、試験なんか有っちゃいけない!どんな人でも、どんなに成績が悪くても学校は入れる義務がある。とか言いたいんですけれども。しかし、聖書の言葉を変える事は出来ません。学校の方は変える事が出来てもですね。明らかに、聖書が書いているのは、クリスチャンは試され、また試験をされて選ばれるって事です。聖書の中で書かれているものなので、我々メッセンジャーは、聖書の言葉を変える事は出来ないんです。書かれている通り言わなければいけない。
だってどの たとえ もそうじゃないですか、賢い花嫁、愚かな花嫁も。花嫁も二分されるぞ!って言うたとえ話じゃないんですか! 愚かな花嫁は花婿に迎えられないぞ! そこで選抜が行われるって言うことですよね。 選抜が行われ、試験が行われる。
また、よい麦、毒麦の話もそうです。普通に読むならば、、、意図的に読まなければ!
麦も選抜されて、そして良い麦は蔵に入る救いに入るけれども、毒麦訳の分からない教理を掴む人は集めて火で焼かれる。て、トンデモナイことですよね!火で焼かれるってこれは好ましい待遇ですか?最悪の結果ですよね。
良い魚、悪い魚の話もそうですよね、 良い魚を集めてヤッパリ蔵に入れられるけれども、悪い魚もヤッパリ火で焼かれちゃうんですね、これも最悪ですよね。だけど、試験は有るんです。全入では無いんです。ので、教理をそう言った訳の分からない教理が許されるんです。だからこの言葉は真面目に考えたら恐ろしいんですよ!
今の日本のキリスト教会でも異端が許されているって、艱難前軽挙説って異端の教えですけれども。確かに許されているんです。しかも落ちる人が多いんです。普通、、、わたしの高校の時に居ましたけどね、何か落第したのか、、、前の学年の人が居るんです。 I君って名前だったの憶えているんですけれども。よく体育の時って、学年毎に同じトレパンの色の体操着を着ているじゃないですか、彼だけ白いトレパンなんです。何で彼だけ白いトレパンなのかな?と暫く分かんなかったんです。四月、五月と経って、暫く経つと分かって来たんです。彼は落第生なんだ、事情が有って、落第生じゃないのかもしれないけれども、少なくても前の年の人なんですね、そう言えば、前の三年生はああいう白いトレパンやっていたなぁ。でも落第して学年を落ちたのは彼一人でした、あんまりいませんでしたね、だから、落第する人の方が普通少ないんです。でも、私の理解では教会では、異端の方が多いですよ!キリスト教会!そこが怖いんです。だって艱難前軽挙説に関しては、明らかに異端のほうが多いですよ!他も推して知るべしですよ。他の教理だってロクなもんじゃないだろうって言うのが類推できますよね!
だから黙示録を全然解りませんよね、終末の日に、明らかに教会ではクリスチャンは裁かれるんですけれども、そんな事全然分かんないで、もう訳の分からない教理を受け入れてやっている。だから、そういう意味では黙示録解釈とかに関しても異端なんです。
だから、今は皆さんの思考を逆転すべきであります。異端の時代なんです。異端の教理が ぐーと 支配しているんです。そんな事を言うと、我々は少数派ですからね、そういうお前らが異端じゃないのか。と言われちゃうんですけれども。これは人の前はどうでもいいんですけれども、神の前では、今は異端の教理が教会を支配しているという事です。
そういう様な時代になっていて、そして、そういう時代だからこそ、そういう中で真に残るっていう人にポイントが有るんです。そして明らかに 主は 残る本当の信者(試験済みの者なんですけれども)、その人に主は目を留めておられるんです。だから少数であっても残る者にポイントがあるんです。
ですので、みなさんは、多数派に何でも付こうと言う事にポイントが有るわけではありません。人数を気にしていたら駄目なんですよ。 ポイントは本当の信者として残る、要するに試験済みの者、試験を経ても尚且つ正しく残るてことにポイントが有るんであります。
試験はゆるされるんですよ、みなさんだって、わたしもそうですよ、艱難前軽挙説を暫く真面目に信じてましたからね、そういう人いるかもしれません。他もそうですよ、終末の時に教会が裁かれるなんて思っていなかった。だけどでも、そういう中では、わたしもそういうおかしな教理の中に居ましたけれども。でもそれを経て、尚且つ正しい事に至るっていう、其処にポイントがあるんです。其の事を是非理解しておいて頂きたいと思います。
11:20 しかし、そういうわけで、あなたがたはいっしょに集まっても、それは主の晩餐を食べるためではありません。
11:21 食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。
20節これは、パウロの言っているのは、文字的な第一義的な意味はですね、只食事を食べる為で有って、主の晩餐とか主の聖餐式の為じゃないんだって、そういう風にしか読めないですね。
だけども、それは勿論第一義的には、パウロはそう言う意図しかなかったかもしれませんけれども、聖書はヤッパリ キリストによって書かれたものなんで、二重の意味合いとかが在るんですね、ので其の事を覚えておいて下さい。
20節も たとえの意味合いを理解すると怖い事です。
一緒に集まっているんだけれども、しかし 主の食卓、主の聖餐(式)、主の晩餐。それを食べる為じゃなくって、ただ集まっている。そういう意味合いに取れます。
だから、これも集会とか、教会の事を言っているんです。集まるんだけれども、で、主の聖餐が在り、晩餐がある。それは たとえの意味合いであって、パンは御言葉のたとえであり、また葡萄酒は、聖霊の働きなんですけれども。 それは主の食卓って言う、主の御言葉に与かると言う名目ではあるんですし、また主の聖霊に与かると言う名目なんですけれども、しかし、その集まりは主の晩餐では無い。
集まっているけれども、あなた達が食べているものはそうで無いっていうことを、パウロは言っている、パウロの言葉からそう理解出来るのです。
こういう事もあるんだ!っていう事を覚えていて下さい。
集まっているのは事実であり、キリストの名によって集まっていて、そこで主の聖餐、神の御言葉に触れる筈なんだ。神の聖霊に触れる筈なんですし、そういう名目なんですけれども、現実はそうで無いって事はあるんです。 だから、まあ、今日は黙示録のメッセージだという事で、名目集まってもですね、黙示録の最も根本的な事を語っていない。黙示録の時には明らかに神の民に関しての裁きの時であり、クリスチャンに対しての裁きの時であると明らかに語っているんですけれども。そう言った事を語られないようなメッセージだと、主の聖餐って言えないんです。
御言葉は、主からの御言葉で確かにそうですけれども、全然違った結論に成っちゃいますよ、それは神のパン、神のメッセージと言えないんです。ただの栄養の無いパンみたいなものです。場合によっては、腹を下したりしてですね、体に悪いパンになってしまうんであります。
また霊も神の霊ばかりじゃないんです。変な悪霊の集会もあるんです。わたしは、何度も言う様ですけれども、1999年。今でも覚えていますけれどもね、千駄ヶ谷の日本青年会館て言う会堂に集まってですね、一杯クリスチャンが集まって来たんです。1,000人以上集まったと思います。
ロドニー・ハワードの集会に行ったんですけどね。それは確かに主の聖餐、主の聖霊を受ける集会じゃないんですね! 明らかに悪霊の集会ですよね!
もー、、、すごかったですよ。 {いひひ、、、あはは、、、}とか言って、気持ち悪い声で、笑いながらですね、、、、、、
霊を下すんですよ。始めっからおかしかったですよ。始めっからですよ。。わたしの理解では。
で、ロドニー・ハワードが、集まった人に。 「どうですか?前回はこうだったんですけれども、みなさんは また、恵みにあずかりますか?」、、、、なんとかかんとか、マイクを傾けながら、女性の信者に語っているんですよ!で、なんか手に下すんですよ!
そのうちに、女性の声が変わっちゃうんですよね、この信者さんの声が、、、、、最初は普通の声なんですが、そのうちに気持ちの悪い声で笑って。{いひひ、、、あはは、、、、}とかなって、気持ち悪い悪霊の声で笑って、集会の始めから終わりまでそんな集会だったんです。
これは、どんなふうに見ても、主の聖餐、主の聖霊の葡萄酒の集会ではありません!!!悪霊の集会なんです!!! だから集会だからって言ってキリストの聖餐を受ける訳では無い、キリストの御言葉(パン)を受ける訳では無い、キリストの霊を受ける集会ばかりでは無いというのは。明らかに聖書は実は、たとえで明らかに語っている事なんです。どうぞそのことは覚えていて下さい。どんな集会でもいいっていう訳じゃないんです。そういう意味では、残念ながら我々は、今の時代は、集会を吟味しなければいけないという事はいえるかな、と言う風に思います。
ので、聖書は文字道理の意味合いも在りますけれども、でも二重、三重に主が語られます。聖書を書きながら尚且つ暗号まで神様は書かれている訳ですから、二重、三重に語られるんです。そういう意味合いでは、たとえの意味合いとか、隠された二重の意味合いを見ておいて下さい。
20節をもう一度読みますと。そういう訳であなた方は集まっているけれども、それは主の晩餐を食べる為じゃないんだ。って言っている様に、そういう類の集会ってあるんです。
だから、何でも教会がいいって言う、教会ならばいいってもんじゃないと言う結論になってしまうんですけれども。この事は覚えていて下さい。こういう事が書かれているという事は、そういう教会が在り、集会も在るんであります。
レムナントは、人数は少なく僅かでも、ヤッパリせめて少しでも、そう言った事に与かって行きたいと言う風に思っています。だからメッセージもですね、なんとか主の御心でなして行くようにと思っていますし。また、みなさんがですね、いろいろメッセージの概要を書いて下さっていることがUPされて、読まれていて、それの感想を貰ったりもしますけれども。せめて我々の働きの中でではですね、主の聖餐の一部に人を扱って頂きたいと言う風なかたちで、奉仕していく事にポイントがあるかなと言う風に思います。
レムナントキリスト教会
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