Ⅱコリント人への手紙3章 2012.3.18,3.25

 

3:1 私たちはまたもや自分を推薦しようとしているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたにあてた推薦状とか、あなたがたの推薦状とかが、私たちに必要なのでしょうか。

「紙」の推薦状というのがある Ex:クリスチャン新聞や雑誌に広告を載せる

しかし、パウロは別の方法を用いた

 

3:2 私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心にしるされていて、すべての人に知られ、また読まれているのです。

教会の人がたてあげられていくのが推薦状→このようなスタイルを求める

真理を見たり、霊的にたてあげられたり、歩みの方向を変えたり・・・これらのことが推薦状となる

Ex:セミナーのアンケートを参加者に書いていただく、このことには客観性があり、まさに、推薦状となる

その人自身が真理を見て、他の人に推薦する

宣伝に力点をおくことにポイントは無い

その人の霊的なたてあげのために祈り、その人のために労する、それがそのまま推薦状になる

ポイントをつき、ズレた方向へいかないように気を付ける

 

3:3 あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。

御霊によって強められていく

御霊の教え、律法が心に書かれ、変えられていく

 

3:4 私たちはキリストによって、神の御前でこういう確信を持っています。

3:5 何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。

推薦状が回ってくる

その働き、働き人の力は、その人自身にあるのではない→それら(生まれつきの良い部分を含めて人間的な能力等)は、「ちり・あくた」だと、パウロや聖書は言っている

 

参照 ピリピ人への手紙3:8

3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくた思っています。それは、私には、キリストを得、また、

 

働き人の資格は神から来る

だから祈らない奉仕はありえない

知恵や力や助けを神に求めなければいけない

メッセージも神から来る

ポイントは信仰をもって立ち上がっていくかどうか?

神の御心に沿っていくなら語ることやメッセージがくる

真の働きにふさわしい者になっていく

 

3:6 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。

文字or御霊に仕えるという区分について正しく理解する

文字に仕えるのと御霊に仕えることに違いというのは・・・分かりやすい例を挙げるなら、パリサイ人、律法学者vsペテロ、パウロ

パリサイ人や律法学者は文字に非常に忠実であったが・・・しかし、結果としてズレた

一方、ペテロやパウロは御霊に仕えたクリスチャンだった、ゆえに、見るべきものを見た

文字に徹底的に従うなら滅びに至る、なぜなら、パリサイ人は聖書に書かれていることを守り、行ったが、結果としてキリストを救い主と認められずに殺してしまった、これは、失敗例

ゆえに、御霊に仕えられるように、きちんと祈る

御霊がどのように語っているのかについて、ちゃんと聞いていく

御霊に仕えるのが正しい、神の前に正しく仕えていく

 

3:7 もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、

3:8 まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。

3:9 罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。

この箇所は、旧約聖書で、モーセの顔が輝いた場面のことを言われている

 

参照 出エジプト記34:35

34:35 イスラエル人はモーセの顔を見た。まことに、モーセの顔のはだは光を放った。モーセは、主と話すために入って行くまで、自分の顔におおいを掛けていた。

 

新約の私たちは、栄光に定める務めを担っている

 

3:10 そして、かつて栄光を受けたものは、このばあい、さらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているからです。

3:11 もし消え去るべきものにも栄光があったのなら、永続するものには、なおさら栄光があるはずです。

聖霊にあって語る

神が召したなら、モーセの務めに優る栄光のある務めを担う

 

3:12 このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆に語ります。

栄光のある務めなので、私たちはきわめて大胆に語る→啓示が開かれたなら、大胆に語る、このことは、「顔覆い」をはずす、すなわち、ベールをはがすことに通じる

ちなみにレムナントは終末の啓示を開くことに召されている、このことは栄光のあること

啓示に関するメッセージを語るなら確信をもって大胆に語る(大事な部分なので、忠実に行う)

聞く人が益になるように、主にあって確信を持つように躊躇なく語る

メッセージをするときに大胆に語る Ex:アメリカこそが獣の国

主からの啓示は大胆に語る

語り方、書き方、伝え方は大事→ポイントをしぼる

ポイントを1つにしぼり、大胆に語る

 

3:13 そして、モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けたようなことはしません。

「顔に覆いを掛けたようなことはしません」の言葉に語りかけがある

このことは、啓示を開くことと、大いに関係する

 

3:14 しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。

古い契約(英語):old testament→旧約聖書のこと ちなみに、new testament→新約聖書

旧約聖書を読むときにイスラエルに覆いが掛けられていた

「今日に至るまで」と書かれているように、このことは、今でも、現在進行形

毎週のほとんどの礼拝において、今でも、啓示は開かれていない

いくら会堂が立派であっても、啓示が開かれていないのはNG

啓示は開かれるべき→由々しき問題

多くの教会で、啓示が開かれていないために・・・反対に、啓示が開かれるなら、阻害されてしまうかもしれない、しかし、開かれなければならない

啓示が開かれる→大きな恵み、益をもたらす、終末のことを正しく理解する、ゆえに、聞く耳のある人には、できるだけ語っていく

古い啓示の覆いが取り除かれるときに、見ることができる

レムナントは、ある意味、啓示に関しての負債を負っているので、明確に語るようにしている

 

3:15 かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。

このことは、悲劇的、なぜか?→今のクリスチャンについて言われている

毎週、聖書が読まれている、朗読されている、しかし、旧約聖書は、今の時代とは、関係が無いという覆いが掛けられている

「今日まで」とあるように、旧約時代にとどまらず、今日においても、覆いが掛けられている

もっとも肝心な啓示が開かれていないために滅んでしまう

だから、ニュースレター、出版、セミナーを行っている

やるべきことを行わないと、さばかれてしまうので、できる限りのことは行っていく

 

3:16 しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。

主に向くことが大事→啓示が開かれる

 

3:17 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。

3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

啓示が取り除かれていくときに、栄光を見、その栄光がその人に宿り、輝き、変えられていく

クリスチャンとしての歩み方、考え方、思いが変えられていく

啓示が開かれる→あるべきクリスチャンへと向いていく、あるべき方向へ行く

この世的なものから離れ去って、主に近づいていく

主にあって取り除かれる→祈り求める人に啓示は開かれる