Ⅱコリント人への手紙7章 2012.5.12,5.19

 

7:1 愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。

前の章の節を受けている

 

参照 Ⅱコリント人への手紙6:14

6:14 不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。

こういう歩みをしていくときに、主の働きを担うことができなくなる

場合によっては、神様の実質があらわれてこないクリスチャンがいる

この世ときちんと分離していかないとダメ

普通にしていたら、いろいろな汚れ、罪に入ってしまう

放っておくと、この世に着いてしまう時代なので、分離していく

 

「いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ」に語りかけがある

 

参照 イザヤ書52:11,12

52:11 去れよ。去れよ。そこを出よ。汚れたものに触れてはならない。その中から出て、身をきよめよ。主の器をになう者たち。

52:12 あなたがたは、あわてて出なくてもよい。逃げるようにして去らなくてもよい。主があなたがたの前に進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ。

惑わしの霊やおかしな霊に触れている教会から出ることを言われている

 

参照 レビ記22:1-8

22:1 ついで主はモーセに告げて仰せられた。

22:2 「アロンとその子らに告げよ。イスラエル人の聖なるものは、わたしのために聖別しなければならない。彼らはわたしの聖なる名を汚してはならない。それは彼らがわたしのために、聖なるものとすべきものである。わたしは主である。

22:3 彼らに言え。代々にわたり、あなたがたの子孫のだれかが、イスラエル人が主のために聖別した聖なるものに汚れたままで近づくなら、その者は、わたしの前から断ち切られる。わたしは主である。

22:4 アロンの子孫のうち、らい病人、または漏出のある者はだれでも、きよくなるまで聖なるものを食べてはならない。また、死体によって汚されたものに触れる者、精を漏らす者、

22:5 あるいはすべて人を汚す、群生するものに触れる者、または、どのような汚れでも、人を汚れさせる人間に触れる者、

22:6 このようなものに触れる者は、夕方まで汚れる。その者は、からだに水を浴びずに、聖なるものを食べてはならない。

22:7 ただし、日が沈めば、彼はきよくなり、その後、聖なるものを食べることができる。それは彼の食物だからである。

22:8 自然に死んだものや、野獣に裂き殺されたものを食べて、汚れてはならない。わたしは主である。

 

2:主に仕える人は汚れに触れてはいけない

 

3:レビ人は、もっとも聖なるささげもの(穀物のささげもの:メッセージ)をささげる

ゆえに、メッセンジャーが世の罪に触れて働きをしてしまうときに、断ち切られてしまう

どういう罪か?4節を参照

 

4:らい病人、漏出のある者:人のうちにある罪→姦淫、貪欲など

霊的にきよめられなければ、奉仕してはダメ

死体:この世のこと、死人:この世の人

Ex:テレビ、新聞、雑誌など

 

5:人間から出る汚れがある→批判の霊、ねたみの霊、悪く思う霊など

 

6:解決策→祈りが解決(水を浴びることに通じる)

 

7:きよくなれば、奉仕につける

 

8:死んだもの:この世のもの

 

Ⅱコリント人への手紙に戻ります

 

いっさいの霊肉の汚れ:霊の汚れというのがあるので、きよめられなければいけない

神を恐れなければならない

汚れたまま、聖なるものに触れたら、神の前に断ち切られる、神の前に働きが止まる、ゆえに、真理が見えない

Ex:パリサイ人、律法学者→イエスを救い主として受け入れられなかった

汚れはどこから来るのか?→人やもの、テレビなどを通して来る

汚れからきよめられるように祈り求めていきたい

 

7:2 私たちに対して心を開いてください。私たちは、だれにも不正をしたことがなく、だれをもそこなったことがなく、だれからも利をむさぼったことがありません。

7:3 責めるためにこう言うのではありません。前にも言ったように、あなたがたは、私たちとともに死に、ともに生きるために、私たちの心のうちにあるのです。

パウロの心の中にある

 

7:4 私のあなたがたに対する信頼は大きいのであって、私はあなたがたを大いに誇りとしています。私は慰めに満たされ、どんな苦しみの中にあっても喜びに満ちあふれています。

7:5 マケドニヤに着いたとき、私たちの身には少しの安らぎもなく、さまざまの苦しみに会って、外には戦い、うちには恐れがありました。

7:6 しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことによって、私たちを慰めてくださいました。

5:人間的にみると、パウロは不幸に見える

マケドニヤは、パウロが見た夢に出てきた場所

ここから、西回りに福音が伝わった

神の前の戦いは、だいたい、こんなもの

真理をそのまま語っていくなら、5節のようなことになっていく

戦い:論争、恐れ:死罪

本当に働きを担っていくときに、あらゆる攻撃がくる、しかし、引いたり御言葉を変えたりしたらダメ

真理を語っていくときに、波風が立つのは、わりと普通のことなので、そのことは、正しくとらえておく

 

7:7 ただテトスが来たことばかりでなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、私たちは慰められたのです。あなたがたが私を慕っていること、嘆き悲しんでいること、また私に対して熱意を持っていてくれることを知らされて、私はますます喜びにあふれました。

7:8 あの手紙によってあなたがたを悲しませたけれども、私はそれを悔いていません。あの手紙がしばらくの間であったにしろあなたがたを悲しませたのを見て、悔いたけれども、

7:9 今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。

手紙を書いたことによって、歩みが変わった

日本のクリスチャンは、よく言えば、礼儀正しく、悪く言うと、人のことを考え過ぎ

その人のためには、手紙でも、メッセージでも、言葉を惜しんではいけない

神の御心に沿った悔い改めに導くなら、悪く思われても、語っていかなければいけない

たとえ、厳しいことでも、主が語れと言ったことは語っていかなければいけない、それが本当の愛

自分を守る、自分を愛するということから超越していきたい

 

7:10 神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。

クリスチャンはどういうものか?→入るべき天の御国がある、それがゴール

いくら、この世のすべてを得たとしても、永遠のいのちを失敗したら意味が無い

 

参照 マタイ16:26

16:26 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。

 

主は私たちを救ってくださった、しかし、天の御国に入るのは別

ゆえに、道を誤ったという場合、あるいは、罪を犯したら、聖霊が語ってくださる、聖霊が痛みを与える

このことはクリスチャンの恵み、または、特権とも言える

その際、聖霊が語ることが正しいので、従っていく

私たちが罪に陥っているときに、聖霊が悲しんでいる

正しい方向へ行ったら、もう、道を変えないこと

聖霊の語りかけを聞いたら素直に変えていく

神に罪を示されたら救いに至る悔い改めをしていくべき

何度も何度も悔い改めるのではなく、ケリをつけて、解決していきたい、それを求めていきたい

同じ失敗をくり返すことのない歩みに憐れみによって入らせていただきたい

きちんと聞かないと愛想を神につかされてしまう、神は永遠にゆるしてくださるわけではない

 

参照 ルカ13:6-9

13:6 イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。

13:7 そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』

13:8 番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。

13:9 もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」

 

これらの御言葉から、だいたい3がメドだということが理解できる

神が言われたらすぐに、速やかに従う、そうしていくときに益になる

改めるべきことを改めないと奉仕が先に進まない

段階を経て、ひとつひとつのことをきちんとクリアにしていかないと、次に入る奉仕に入れない

ちゃんと悔い改めないと神が奉仕を与えてくださらない

聖霊にある痛み、悲しみがあるというのは感謝

痛みが歩みを変えるきっかけになる

永遠に御霊を悲しませることに御心は無いので速やかに従って変えて生きたい

 

参照 エペソ4:30

4:30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。

 

くり返しますが・・・

悔い改めの必要の無いものになっていくことは、益になる

聖霊にある痛みにあることは恵み

たとえ失敗しても教えてくださり、変えられていく

 

7:11 ご覧なさい。神のみこころに添ったその悲しみが、あなたがたのうちに、どれほどの熱心を起こさせたことでしょう。また、弁明、憤り、恐れ、慕う心、熱意を起こさせ、処罰を断行させたことでしょう。あの問題について、あなたがたは、自分たちがすべての点で潔白であることを証明したのです。

悲しみ、痛みが元となって変えられていくのが尊い

変えられていくことが大事

どういう風に変えられていくかが大事

毎回同じ失敗をしないように考えたい

大事なこと:悔いることと、実際に変えられていくこと

 

7:12 ですから、私はあなたがたに手紙を書きましたが、それは悪を行なった人のためでもなく、その被害者のためでもなくて、私たちに対するあなたがたの熱心が、神の御前に明らかにされるためであったのです。

「私たちに対するあなたがたの熱心が、神の御前に明らかにされるため」(英語訳):私たちの熱心が神の御前に明らかにされる

パウロがいかに熱心にコリントの人に骨を折ったか?労したか?

御言葉に熱心でないなら、妥協する Ex:艱難前携挙を推進→NG

しかし、それは、その人のためにならない

一時的に悲しませたり、嘆かせたりしたとしても、その人に益になることを語ることが神の前に熱心と言える

レムナントもそれに準じていきたい

人に喜ばれなくても、異端視されても、神の前にきちんと話していきたい

自分人気、評判を求めるなら関係無い、しかし、人が悔い改めたり、神の前に正しく歩みをしようとしたりするなら、神の前に熱心にならなくてはいけない、そして、そのことは、人の歩みを変え、永遠のいのちに導くものとなる

 

7:13 こういうわけですから、私たちは慰めを受けました。この慰めの上にテトスの喜びが加わって、私たちはなおいっそう喜びました。テトスの心が、あなたがたすべてによって安らぎを与えられたからです。

7:14 私はテトスに、あなたがたのことを少しばかり誇りましたが、そのことで恥をかかずに済みました。というのは、私たちがあなたがたに語ったことがすべて真実であったように、テトスに対して誇ったことも真実となったからです。

パウロは「誇る」ということばを使っている

肉的なこととか、この世のものを誇ってはいけないが、パウロが言っているようなこと(実について)は、誇っても良いということを言っている

働きに関連する誇りは多少ゆるされるのでは?

Ex:歩みが良くなったとか、変えられたなど

私たちの聖霊にある実は多少誇れる

神のわざを誇る

 

7:15 彼は、あなたがたがみなよく言うことを聞き、恐れおののいて、自分を迎えてくれたことを思い出して、あなたがたへの愛情をますます深めています。

7:16 私は、あなたがたに全幅の信頼を寄せることができるのを喜んでいます。

このことをテトスが喜んでいた

働き人の言うことを聞く、恐れおののいて迎えるのは聖書的に正しい

ただ、今の世で、そうかと言うと・・・今は、自分を上げたい人が多い

牧師を攻撃したり批判したりして自分を上げる→聖書的に、ほめられない

神がテトスを通して語り、言うことを聞いた→神に賞賛される

働き人を、この世的に、けなしたりすると恵みから落ちるので気をつけていきたい

権威に従うのは大事、そうでないと惑わしに入り、身を滅ぼしてしまう

謙虚に言うことを聞く

神からの働きを尊重していくときに恵みに入る

恐れおののいて言うことを聞いて行なっていくことにポイントがある

そうでない人は、いずれ、神の前に消えていく